祈り火
白髪を見てから心が軋んだ。
真っ黒な髪の毛とふわふわと膨らんだつやのある髪、染みのある皺がある肌ですら、若さと思い知るほどに。
黄色い帽子にちゃんちゃんこ、滝が岩を打つ激しい音。
空は僅かに雲がかかって、太陽はまだ覗かない。
大浴場へ行く短い行路には、滝を臨める橋がある。ヴェネツィアの罪人のように、僕は一つ息を吐いた。
長い長い人生のほんの一部にしか、僕の面影はないだろう。そう思うほど罪に圧し潰されそうになる。
滝が打ち付ける岩は悲鳴を上げている。僕は周りに合わせて笑顔で、努めて笑顔で浴場へ向かう。
肌を見られるのが嫌いだということも、彼らの前では語らないように、努めて笑顔で浴場の隅で蹲る。
打ち水のごく近くに居座って、兄が溶け込んで話し込むのを、聞くともなしに聞いていた。
従弟はレースに参加しているらしい。車が好きで工場勤務をしているという。もう一人は都市の大学院に進学するために、勉強を続けているという。従姉の一人は結婚をして、今は大きくなったお腹を優しく摩る。もう一人は従甥を連れていて、従甥は広間でごろごろと丸太のように転がっている。
浴場で顎まで湯に浸かり、一人で体を隠している。変わらない叔父の話し声も、どこか打ち水の彼方から響く。
浴場で口を引き結んで、全員が上がってから身を起こす。あくまで自然に、誰かに遅れたそぶりも見せずに。
机上の壮大な秘め事も、小指を唇に当てて、そっと指先で示すだけだ。語れることが少しもない。「誰か」の話にはついていけないし、「誰か」についての話など、そこが初耳で語れない。
甥の騒々しい声と、誰かの歓談の混ざった静寂に、鮎をつついて、酢に浸す。口に運ぶことだけが、罪人の僅かな箸休めだ。
手探りで僕に話しかけなくてもいいじゃないか。隣の兄は新婚さんだよ。人の名前も覚えない、薄情者など切り捨てて、そっちに寄って行けばいい。
物静かな従弟が足を崩して黙々と、かき揚げを口に運ぶ。その静けさの中にある、どんな情熱も見えないものだ。
罪人は静かに窓を見おろす。橋が遥か下に架かっている。罪人は思い出したように、隣の兄に声をかける。
「ちょっとトイレに行ってきます」
急いで通路に飛び出して、人のいない階段を駆け下りていく。すれ違うのは和装にマスクの人ばかりで、忙しなく瓶を運ぶため、罪人を避けて階段を登っていく。
架かる橋の上にたどり着くと、手摺に手をかけて滝を見る。苔むした岩が輝いていて、脇には紫陽花色の花が咲いている。薄い雲の向こう側で、太陽が白く輝いた。
ポケットを探ってスマートフォンを手に取ると、滝と苔むした岩に向けて、カメラの照準を合わせた。
縦長のキャンバスの中に、紫陽花色と緑の巌、激しく打ち付ける滝の白。その中に罪人は映らずに、色彩に向けてタップする。
二度のフラッシュがどう映るだろう。間断なく流れる音に、何度救われたことだろう。
思えばヴェネツィアの罪人は、その景色に自由を見出して、溜息を吐いたのだったろう。たとえその真下に、茜色の日没に口づけをして、契りを交わす者がいたとしても。
僕はそっとスマートフォンを下ろす。そこに広がる世界の中に、自分が溶け込んでいくために。
「みんなで写真を撮ろう」
誰かがそう声をかける。僕はカメラの隅に立つ。レンズに見切れる兄が笑う。法被を着た人が全員に、詰めるようにと手を振った。
篠竹繁る狭い道の、急峻な坂に注ぐ日の下で、祈り火が一つ、レンズの隅で目を細める。