彼の話
だから、この世に未練はないのだ。
彼は呟いた。
どうしてかとは問わず、僕は只、彼の瞳を見詰めていた。
そうか。
という僕の声が、嫌に静かな部屋に響き、消えた。
僕は、声と人の行く末は、もしかすると同じなのかもしれぬ、と考えた。
であれば、僕は、彼が寂しくないよう、話せることは話してしまおうと思った。
そんなことで、怒涛の勢いで話し始めた僕に、彼は首を傾げて相槌を打っていた。
どれ程経っただろうか。
また、互いの間に気不味い静かさが訪れた。彼が何か言った。
顔を上げると、彼は、窓の外を見ていた。
雨。
室内では雨音さえ聞こえぬ故、気付きもしなかった。
否、彼は元より、僕の話ではなく、雨音を聞いていたのかもしれなかった。
雨が残した水溜りを見てやっと、雨が降ったのだと気付くように、人が、どこかへ消えてしまっても、気付いた頃には遅いのだろう。
僕はそんなことを考えながら、窓の外を眺める、彼の横顔を眺めていた。
彼はふと僕を見て、目をやや細めて、窓の外に視線を戻した。
雨の残響がそうさせたのか、僕の心はいつになく穏やかだった。
今思い出しても、その後何を話し、どう別れたのか、思い出せずにいる。
只、それよりこの方、彼とは一度も会っていない。
彼は、きっとこの世界から消えてしまったのだろう。
この世界は、彼のお眼鏡に適わなかったのだ。
彼はどこにいるのだろう。
少なくとも、僕の記憶に残る彼のことは、忘れないでおこうと思う。
これから先、僕が彼に会うことは、きっとないだろう。