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鈍い痛みを頭に感じながら目を開けた。
そこは、寝室のようだった。天蓋のベッドの天井には、愛らしい天使が描かれていた。体を起こして、部屋の中を見渡す。しかしこの部屋に見覚えはなかった。知らない部屋の中で、額を押さえて考える。
―私は誰……?
不意に部屋の扉が開く。入って来たのは身長の高い男性で、黒髪に紫の瞳をしていた。彼はその瞳を大きく見開く。
「あ……」
手に持ったトレイを床に落として、駆け寄って来る。
「レーテル! 目が覚めたのか!!」
彼は手をぎゅっと握って来る。
一心に見つめて来る彼の事を、私は知らなかった。
「あ、あなたは……誰ですか……」
男性に手を握られて、顔が熱くなって来る。
「な、何を言ってるんだ」
彼が焦った顔をする。彼は無骨な手をしていた。見れば腰に剣をさげている。それに綺麗な隊服のような物を着ていた。
―騎士、かしら……?
焦りつつも、彼を観察した。何もわからないから、今ある情報を見る事しか出来なかった。
「レーテル……」
彼は悲しそうな顔をする。
「俺がわからないのか……」
ただ頷く事しかできなかった。
「そうか……」
彼はそっとレーテルの手を離して、顔を片手で覆い重く息を吐いた。しばらくすると、少し落ち着いた様子でこちらを見る。
「名前は覚えているのか」
首を横に振った。
「君の名前は『レーテル』と言うんだ」
「レーテル……」
今の自分にとっては、初めて聞く名前だった。けれど不思議と耳に馴染む。
「俺はアグニス、君の護衛の騎士だ」
「アグニス……」
やはり彼は騎士のようだった。
「本当に何も覚えいないのか?」
彼は念を押すように聞いて来る。
レーテルは、必死に考えたが、何も思いつかなかった。
「そうか……」
ベッドの上に乗り上げていた彼は、そっと離れる。
「医者を呼んで来る……少し待っていてくれ」
頷くと、彼は部屋を出て行った。
閉じた扉を見つめた後、レーテルは自分の両頬を押さえた。
―私……記憶が無いんだわ……。
物語で、記憶を失う人の話を読んだ事があった。レーテルもその状態のようだった。
―あら、でもそんな本をどこで読んだのかしら……?
本を読んだ事は覚えている。けれど、どこで読んだかは思い出せなかった。
―……これから、どうなるのかしら……。
俯き、これからの事に不安を覚えた。
男が連れて来た医師たちは、レーテルの体をあちこっち見て、いろいろな質問をした。彼らの診察を受ける内に、いくつかの事がわかった。
レーテルは、三ヶ月前に城のバルコニーから落ちたらしい。そこで足を骨折して、頭を打った。それから三ヶ月間、目を覚まさなかったらしい。
三ヶ月の間に体の傷は治り痛みはなかった。ただ、ずっと寝たきりだったので体力が落ちていた。
記憶に関しての質問をいくつか受けたが、殆どの事に『知らない』と答える事しか出来なかった。しかし不思議と、生活に必要な知識だけは覚えていた。例えば、カトラリーの使い方とか。ただ、家族の名前や、以前何をやっていかなどは全く思い出せなかった。
けれど、一つだけ私はハッキリ覚えていた事がある。
「貴方の住んでいる国の名前は覚えていますか」
私はその質問に少し眉を寄せた。
「オーランド……」
唇は勝手に動いていた。
医師達はその答えを聞いて、顔を見合わせる。カルテに何か書き込んでいた。
どうやら、私の答えは間違いでは無かったらしい。
医者達が帰った後、静かになった寝室で小さくため息をつく。
―疲れた……。
「どうぞ」
ベッド横に立ったアグニスが、紅茶カップを差し出す。いつの間にか着替えたのか、彼は青い隊服を着ている。
「ありがとう」
受けとった紅茶は温かでおいしかった。それに不思議と懐かしさがあった。以前もこんな風に、彼から紅茶を受け取ったような気がする。
「あなたは、私の側に居て、長いのかしら?」
アグニスを見つめて、尋ねる。
「……五年ほどになります」
「まぁ、そんなに長いのね……」
ならばこの既視感も勘違いではないのだろう。以前の自分は、彼にこうして紅茶を淹れて貰っていたのだと、確信のように思えた。
「貴方は俺の淹れた紅茶があまり好きではなかった……」
その言葉に少し驚く。
「あらそうなのね? こんなに美味しいのに」
彼の紅茶はとても美味しかった。
彼は小さく微笑む。
「騎士様なのに、紅茶まで淹れてくれるのね?」
記憶は無かったが、『騎士』が高貴な身分に仕える人間なのは覚えていた。
「レーテル様は特別なので……」
彼は静かに微笑む。
しかし、レーテルは彼の言葉に違和感を覚える。
―レーテル様……? さっきは、『レーテル』と呼び捨てだったのに。
「どうかなさいましたか、レーテル様?」
彼は優しく微笑む。
「い、いえ、なんでも……」
―もしかしたら、さっきは彼も気が動転して呼び捨てにしてしまったのかも、しれないわね……。
そう結論を出して、紅茶を飲み干した。
つづく