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団欒


昔、父の仕事が一段落すると、決まってあのイタリアンレストランへ連れて行ってもらった。ワインで上機嫌になっている父を見ていると、こちらまで嬉しい気持ちになったものだ。そのときの母は、今と比べれば自由に休みを取ることができ、家族との時間を楽しんでいるように見えた。母が会社を立ち上げてからはほんとに家族3人揃うことが少なかったから、どんな感じになるのか検討がつかない。父はレストランに行く車中で一言も言葉を発せず、なにを考えてるのか全く分からなかった。


坂の多い小道を登ると大きいもみの木があって、そこにお店がある。車から降りると、もうすでに母の赤い車が停まっていた。店のなかに入ると奥の窓際に母は腰をかけていた。


「遅いわよー!お母さんもうお腹ペコペコ。」


「悪かったな。玲香とスタジオに行ってたから。プリーメルのリハで。」


それを聞いた母はわたしの顔をまじまじと見て、ふーんと言った。そのふーんには母の様々な感情が入っているように感じた。


席につくと、父がひと通り料理を注文してくれた。いつものサラダ、いつものパスタ。ひとつだけ違うのは、今日父は珍しくお酒を飲まないって事だ。車で来たのもあるが、お酒の力を借りないで、私たちとまともに話をしたいという事だろうか。そう思っただけでわたしは少し緊張した。どんな話をどのタイミングですればいいいのか。そう思った矢先、母が先陣を切った。今日の出来事にはお構い無しと言った感じで、先日のソロコンクールの話を持ち出した。


「玲香、ソロコンクール優勝おめでとう。…見に行けなくて悪かったわね。」


「…ありがとう。でも出張だったらしょうがないよ。逆にふたりで見に来られた方が緊張してたかもしれないし。」


程なくして、先にサラダが運ばれてきた。人気店だが、今日は珍しく私たち以外にお客さんはおらず、料理が運ばれてくるのが早い。母は何か意味深な口ぶりで、ふーんと言って、サラダのきゅうりを飲み込んだ。わたしも運ばれてきたパスタを、フォークでくるくる巻き、2、3回噛んだだけで飲み込んだ。この緊張感と一緒に。


コンクールに出るのだから、普通は両親揃って見に来てくれた方が、演奏の励みになるのかもしれない。しかしわたしの場合は、両親ふたりが揃うところを最近ほとんど見ていなかったので、もしもあの時ふたりで見に来ていたらどんな様子なのかどうか、そちらの方が気になって、いつもの実力が出せなかったかもしれない。事実、今も中立国にでもなったように気まずい。


「でも玲香の演奏聞きたかったわ。最近聞いてないもの。」


「…そうだね、今度お母さんにも聞いて欲しい。」


これは素直にそう思った。母に聞いてもらう事で、将来どうするかを決める材料になりそうだ。色んな苦労を重ねてきた、母にしか分からないこともある。

そんなわたしと母との会話を聞きながら、ようやく父は母に重い口を開いた。


「お前、最近も忙しいのか?」


「…そうね。今度京都に支所が出来る事になったから、その準備でね。悪いわね、玲香の送り迎え、多めにやって貰って。」


「いや、それは構わない。」


「あなたも最近忙しいんじゃない?」


「まぁな。プリーメルのデビューの準備があったからね。彼らはここからが本番だけど。」


そう言いながら、父は料理をひとくち含むと母を見ながら口角を上げた。


「でもCMのあの曲、悪くないと思うわ。わたしは好きよ。」


母もひとくち食べると口角を上げた。

意外だった。母が父の曲を聞いていること。そして、それをいい曲だということ。わたしはどこかで、母は父のことを認めてないのではないかと思っていた。でも、そんなこともなさそうだ。母は食べながら鼻歌を歌っているんだから。


最近、顔を合わせていないふたりの様子を勝手に想像し、勝手に悲観的になっていた。わたしはふたりの心が通じ合っている姿が直に見えたことで、ふと我に返った。さっき食べたパスタが思いのほか辛かったようだ。急に口の中がヒリヒリして、水を一気に飲み干した。


「おい玲香、大丈夫か?」


「うん、急に辛くなった。」


「…ずいぶん時間差ね。」


母がそういうと、確かにおかしくてみんなで顔を合わせて笑った。

こんなに楽しいと思った夕食はいつぶりだろう。最近はほぼ毎晩ひとりで夕食をとっていた。悲観的になっていたのは、ひとりの時間が多かったからかもしれない。みんなで久しぶりに食卓を囲んで分かった。今この目で見ているものが現実なのだから、それを素直に受け入れればいいのだ。


「…なんだか今日は久しぶりにふたりと食事できて嬉しいな。」


父は言った。わたしもそう思った。きっと母も


今回は両親共々店まで車で来ていたので、滞在時間はそんなに長くなかった。しかし、概ねマシロさんから後押しされた通りの時間を過ごす事ができた。店を出ると7月の夜に似つかわしくない、ひんやりとした風が吹いていて、肩が少しふるえた。


「悪いけどちょっと事務所に顔出してからうちに帰るわ。先にふたりで帰ってて。」


母は赤い車に乗り込んだ。

一旦母の車を見送って、わたしも父の車に乗り込む。坂を下るまで夜景できらきらする街を、ぼうっと眺めていた。誰もいない交差点の赤信号で停車すると、父が口を開いた。


「今日、どうだった?」


「…ん、いい勉強になったと思う。」


「それはよかった。」


「でもまだどんな道に進んだらいいかは分かんない。」


信号が青に変わり、父が湖に張っている薄い氷を割るようにアクセルを踏む。とても静かに発信した。


「サナダさんに課題を出されたの。その課題が解けたとき、どんな道に進むのがわたしらしいか、わかる気がする。」


なんだか素直に、父に今の自分の思いを伝えられた気がした。


「サナダらしいな。」


父はハンドルを切りながら、正面から目を離すことなく口を開いた。


「玲香、慌てなくていいからな。ゆっくり自分の進みたい道を探せばいい。」


「…うん。」


とは言ったものの、あと一週間学校に行けば、夏休みといったところまで差し掛かっていた。高校最後の夏休みを、まだ見えない自分の将来のために投資したい。そう思った。


「ねぇ、またリハに参加させてくれない?」


父はそれを聞いて、ずっと正面から目を離さなかったのに、少しだけ私の顔を見た。


「もちろん。」


父の口角が上がった。

交差点を左に曲がると、我が家の白い屋根が月明かりに照らされて、満月の夜に浮かび上がった。ようやく家路についた。何日間か旅にでも出ていたような長い一日だった。でもわたしの今後の人生と比較したら大したことないのだ。階段を昇り、自室でぼんやり満月を眺めていると、母の赤い車がガレージに入ってくるのが見えた。久しぶりに安心したのか、なんだか急に眠くなってきて、知らない間に夢を見ていた。


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