起点
よく晴れた休日の午後、わたしは父の車に乗り込む。明るいうちに父の車に乗るのは極めて珍しい。ドライブなんてほとんどしたことがない。でもいつだっただろうか。郊外の人が少ない公園に連れていってもらったことがあった。わたしはひとしきり遊んで、木陰の下へ行くと、父はギター片手に鼻歌を歌っていた。心地いい風と父の優しい声が相まって、いつの間にかわたしは夢の中に誘われた。今思えば、居場所を変えて曲作りをしていただけなのかもしれない。あの頃は、父が公園に連れてきてくれたことがただただ嬉しかった。そのわたしの気持ちとは裏腹に、父の行動は意図的だったのかもしれない。
そんな幼い頃の記憶に思いを馳せていると、リハーサルスタジオが見えてくる。駐車場に車を止め、助手席から降りた。手ぶらじゃなんだからと思い、家から持ってきたフルートも一緒に手に取る。これは高校の入学祝いで両親が買ってくれた。ソロコンクールもこのフルートで出場した、言わば相棒だ。父の後ろについてスタジオに向かう。扉を開け、廊下を渡ると途中に喫煙コーナーがあった。そこにひとり、男がたばこを燻らせていた。長い前髪に薄い唇、無精髭を生やしており、一見取っつきにくそうな様子だ。父が扉越しからおはようというと、男は煙を吐き、目を細めながらお辞儀のような仕草をした。そのあとわたしと目が合ったような気がしたが、瞬きしたわずかな間で、男は灰を落としながら煙を見つめていた。
「昨日、お前がかっこいいって言ってたサナダくん。」
振り向きながら父は言う。
わたしは平然を装いながら、内心驚く。昨日テレビで見た姿とはずいぶん違う。ギターを演奏している彼はとりつかれたように音を鳴らし、自分を全てさらけ出しているように見えた。吹奏楽の練習で熱がこもった時、音に魂を込めろと先生が言うけど、まさにそんな演奏。生命が宿ったかのようにメロディ全体が生き生きしていた。曲に命が吹き込まれた感じ。彼からギターを奪ったら何も残らないんじゃないか、そう思わせるような風貌だった。ギターを持ったら本当に昨日のような彼になるのか、わたしは非常に興味をそそられた。
喫煙コーナーを通り過ぎるとスタジオが見えてきた。分厚い扉を開けると機材と楽器があり、プリーメルのメンバーはスタッフの人と打ち合わせしていた。
「おはよう」
父が言うと、ボーカルの人がこちらに来た。
「西部さん、おはようございます!あれ、ずいぶん可愛い子連れてますけど、どうしたんですか?」
なんか馴れ馴れしい…。と、思っていると照れ隠ししながら父が口を開く。
「可愛いって、俺の娘だけど。」
「えっ!!こんな大きいお子さんいらっしゃるんですか?お嬢さんとは聞いてたけど、俺、てっきり3歳くらいかと思ってましたよ!」
この人ずいぶん声おっきいな、と思っていると、ベースの人のドラムの人もこっちを見ていた。
「西部さんのお嬢さんだって!お前らもこっち来て自己紹介しよう。あー、はじめまして!俺、プリーメルのボーカルのコウイチです。お父さんにはいつもお世話になってます!」
歌う時も滑舌がよければ、しゃべるときも滑舌がいい。コウイチさんは笑顔で人当たりの良さそうな、金髪のお兄ちゃんだ。
「はじめまして。ベースのマシロです。僕は作曲も担当してます。」
「同じくドラムのユッキーです。」
わたしはぺこっとお辞儀をした。そして昨日テレビで演奏してた人達が目の前にいるのって凄いなと、素人が出待ちをしたような感覚になっていると、自分の自己紹介がまだだったことを気づかされるように、父が肘で合図を送ってきた。
「…えっと、西部玲香です。父がいつもお世話になってます。」
そう言ってお辞儀する。すると、向こうから、ここにいる3人以外の声が聞こえた。
「君もなんか楽器やってるの?」
顔をあげると、さっき喫煙コーナーにいたサナダさんが戻ってきていた。目線はわたしが手に持っていた戦友にいっている。
「はい、フルートをやっています。」
質問に答えると、コウイチさんが怪訝な顔をする。
「おいサナダ、お前も自己紹介しろよ。西部さんのお嬢さんなんだから!」
わたしには、だから何?って言ってるようにサナダさんの表情から感じ取れたが、空気を読んだのか、口を開く。
「プリーメルギター、サナダです。」
「はじめまして、西部玲香です。」
一呼吸置くのがなんとなく怖かったので、間髪入れず答える。
「いきなり悪いね、ちょっとこいつに社会勉強させてやりたくてね。邪魔にならないようにするから、見学させてもらっていいかな?」
「いいですよ!俺らで参考になれば幸いですけど。」
笑顔でコウイチさんが答える。
「せっかくフルートも持ってきてくれてることだし、リハ終わったらセッションしよう」
サナダさんが言う。なんとなくだけど、お手並み拝見と言っているような気がした。だとしたら望むところだけど。
リハーサルが始まる。彼らは今度、初の単独ライブを控えている。今はライブで披露する曲を一曲一曲確認しているそうだ。父が途中途中でアドバイスを織り混ぜながら作業は進んでいく。メジャーデビューしたばかりの駆け出しのバンドとはいえ、そこはプロだ。確認と修正作業はサクサクと行われていく。工場でみんなでひとつの商品を完成させるみたいにスムーズで効率的だ。それこそ、この道で食べいくなら出来て当たり前といったところか。
そしてやはり気になるのはギターのサナダさん。テクニックは繊細でひとつひとつの音を十分に鳴らしていて、やはりプロとしての魅せ方を分かってるな、という感じがした。聞いているうちに、心が引き込まれるような、そんな気がした。