哀切
この店から母の職場まで、歩いて10分もかからない距離だ。店の明かりと、呼び込みの宣伝やら音楽やらがガヤガヤしていて、いつまでもこの街は眠らないんじゃないかと思った。道を行き交う大人たちは、みんな笑っていて、ただただ楽しそうに見えた。そのうち、無事母の会社事務所に到着した。ビルの2階に位置する母の会社には、まだ明かりがついていた。エレベーターで2階まで行き、事務所のドアをノックする。「どうぞ」と母の声がしたので、中に入る。
「あぁ、玲香。もうちょっとで済むから座ってて。」
事務所に残っているのは母1人だけだった。
「うん。みんな帰っちゃったの?」
そう言いながら、来客用のソファに座った。
「うちの会社、毎週水曜日はノー残業デーなの。…社長を除いてはね。」
そう言いながら、母は熱心にPCに何かを入力していた。しんと静まり返った事務所に、カタカタとタイピングの音だけが響き渡る。わたしはそれを聞きながら天井を仰いだ。
「よし、終わった。…ねぇ、玲香?」
「ん?なに?」
母のふーっと息を吐く音が聞こえた。
「…あのね、実はお父さんとお母さんね、その、…離婚することにしたの。」
その言葉を聞いた瞬間、天井が歪んだように見えた。
「…は?なんで?」
「前々からね、お母さん悩んでたの。…でも、玲香を悲しませたくなかったから、お父さんと何回も相談して。それで玲香が高校卒業するまでは一緒に居ようって、決めたの。」
わたしは言葉を失った。だって、この間だって一緒に大好きなレストランに行ったでしょ?お父さんが作ったことは内緒だったけど、朝みんなでスープを飲んで美味しいって、お母さん言ったよね?その時にはもう…?さっきまで頭の中の思い出は、全てカラーだったのに、大きいハケで上から白黒に塗られていくようだ。わたしが薄々感じていた両親の心の距離は、奇しくも正解だったらしい。明るかった私の空に、急に暗雲が立ち込めた。その様子を見た母は、すかさずフォローを入れる。
「ほらでもね、今すぐにって訳じゃないし、あなたが卒業した後だから。…心の準備もあると思って今、伝えたけど。どんな形であれ、私たちがあなたの親なのには変わりないから。」
そう言って母は立ち上がり、わたしを抱きしめてくれた。わたしは子供の頃のように抱きつきながら、涙が出ないのはどうしてだろうと思った。多分、心のどこかでこうなることがわかっていたからだろうか。
「お母さん…苦しい」
「…ごめん、ごめんね玲香。」
母は抱きしめてくれたのを解き、わたしの両手を握ってくれた。
「…お父さんとお母さんふたりが決めた事だから、わたしは何も言えない。
…けど、最近お父さんの様子が変わったのには、そういう理由があったんだね。」
父は今まで手料理を振る舞う事なんて、むしろ台所に立つことなんて一度もなかったのに、ここ最近わたしに色々と作ってくれた。それまで母との昔の約束を律儀にも守っていたのに。その約束も守る理由が無くなったからと言えば、説明がつく。
そして、お前を助けられるのは今のうちだという父のセリフにはそういった意味も含まれていたことが今、分かった。
「様子が変わった…そうね、あのスープ久しぶりに飲んだわ。」
「え、お母さん知ってたの?」
「…知ってたも何も、独身の頃お父さんよく作ってくれてたから。あの時から、何も変わってない。」
味の記憶というのは、そう簡単に忘れられない。わたしも父の作ってくれた味を、ずっと思いながらこの先行くのかなぁ。
「また、お父さんが作ってくれたスープ、食べたいね。」
母は随分無理をしているように見えたが、口角を上げて頷いた。




