それぞれの道③
激痛が襲う。落下の速度と自分の体重がかかり、指先が裂ける。噴き上がる血しぶきと共に、人差し指から小指までの爪が弾け飛んだ。
「うっ!!あああああああ!!」
悲鳴とも絶叫とも区別がつかない声が、イリアの口から吐き出される。
しかし、止まらない。
その程度では、止まるはずがない。
それでも、指を犠牲にしたお陰か、落下の速度が僅かに緩む。樹皮に線状の血痕を描きながらも、幹を蹴り付け、迫り出した枝に跳んだ。
世界樹の枝は、並の樹木よりも太く強固であり、しかも長い。イリアは受身を取ることもできず、枝の上をゴロゴロと転がる。そして、あわや再び落下するかという位置で、ようやく停止した。落下した場所から下方に約300メートル。もしここで止まれなければ、重力に負けていたであろう。
全身を強打し、更に指先の激痛に襲われているイリアは、うつ伏せのまま動けなかった。
しかし、立ち上がらなければならない。結果的に距離を稼いだとはいえ、餓鬼王は執拗に追い掛けて来るだろう。必然的に、多数の餓鬼も。
「う・・・」
上体を起こしたイリアは、身体を支えるために突いた手を抱える。震える手を目の前に翳すと、両手を合わせ8本の指が折れて反り返っていた。しかも、爪が剥がれて鮮血が滴っている。
イリアは歯を食い縛り、魔法を唱える。回復魔法であれば、問題なく行使できる。
「―――回復魔法」
しかし、何も起きない。
「ヒール!!」
激痛は鼓動と同調して、イリアを揺さ振る。
「な、なんで・・・ヒール!!」
何も起きない。
傷は回復せず、尖痛が絶え間なく全身を振るわせる。
そして、イリアはようやく気付く。
この場所は、そういう場所なのだと。
世界樹は魔力や精霊力を吸収し、その体内に蓄積する。それ故に、世界樹の幹や葉、樹液には膨大な魔力が含まれているのだ。では、世界樹の幹や枝に触れた状態で魔法を行使すればどうなるのか。当然、その魔法に費やされる魔力は、世界樹に吸収されてしまう。
両手から滴る血が、世界樹の枝に赤い斑点を描いていく。このまま、少しずつ体力を奪われ、そして奴等に蹂躙されてしまうのか。
頭上から、徐々に近付いてくる気配を感じる。餓鬼王が、餓鬼が、イリアを胃袋に収めるために下りて来る。急いで下りたところで、逃げ切れる保証はない。もしかすると、下にも奴等がいるかも知れない。
神代魔法は神の力を具現化した魔法であり、膨大な魔力を神力に変換して発動させる。そのため、放出する力は神力である。つまり、神代魔法であれば、問題なくその力を発揮する―――
しかし、発動しないのだ。イリアには、その方法が分からない。確かに、知識として、神代魔法は頭の中にある。それだけでは、魔法名が発せられないのだ。
イリアは激痛に耐えながら、自問自答を繰り返す。
一体何が足りないのか。
魔力を神力に変換することが、できていないのではないだろうか。
魔法とは、世界の理を上書きし、捻じ曲げることによってその効果を発現する。燃焼させるためには加速させ、冷却させるためには減速させる。空間を湾曲させて風を発生させ、折り重ねて壁を造る。ただし、聖属性の魔法だけは違う。神様による奇跡の具現化。祈り―――
ああ、そうなのだ。
神力は、祈りだ。願いだ。奇跡とは、その延長線上にある。願いが神様を顕現させ、祈りがその力になるのだ。事象を上書きし、変化させることが通常の魔法であるならば、神代の魔法は・・・
その時、10メートル余り上から、枝が軋む音がした。衝撃音が響き、今度は大きく葉が揺れる。
「ギイイイイイ!!」
餓鬼の鳴き声が響く。そして、ついにイリアが立つ枝に、餓鬼王が下り立った。
「ミツケタ。コンドコソ、タベル」
巨大な口から大量の涎を垂らしながら、餓鬼王がニタリと笑った。
イリアの背筋を悪寒が駆け抜ける。
もう、逃げることはできない。全身に痛みが走り、落下の時に打ち付けた身体は、思うように動かない。それでも、イリアは杓杖を握り締め餓鬼王を睨み付ける。
「タベル、タベル、タベル、タベル、タベル!!」
餓鬼王が走り出す。その背後を、10匹以上の餓鬼が追従する。
イリアは震える足を叱咤し、迫り来る恐怖を無視して願う。
世界の安寧を。
秩序の回復を。
世界樹に静寂を。
イリアは激痛に耐え、掲げた杓杖を赤く染めながら祈る。
この身に神力を。
神の力の顕現を。
邪悪なる者を滅する力を今ここに。
餓鬼王の腕が伸びる。
下卑な笑みを浮かべ、欲望を剥き出しにして。
しかし、その穢れた手がイリアに届くことは無かった。
神力がイリアの持つ杓杖に集約され、神々しい光を放つ。
「―――最終悪魔討滅魔法!!」
神代魔法が発動した。




