それぞれの道②
餓鬼王の身体能力は、イリアには及ばないまでも相当に高い。しかも、相手は餓鬼王だけではなく、通常の餓鬼も無数にいる。更に、足場は非常に悪い。この状況で逃げ続けることは、まず不可能だ。つまり、この場を切り抜けるためには、戦って倒すしかない。
そこまで考えが至ったところで、イリアは頭の中にある、自分が知らないはずの知識に気が付いた。それは、奇妙な感覚だった。自分が本などを読んで習得した訳でもなく、他人から見聞きしたものではない知識が、いつの間にか自分の中にあったのだ。
これが、イルミンの言った「頭の中に直接送る」という手法なのだろう。イリアは、そう結論付けた。退魔と、完全回復の魔法。それが、イルミンがイリアに授けた神代の魔法であった。
現在、人類種が行使する魔法は、4大元素を基本としたものである。それに加え、神官系職種の者が行使する聖(光)属性の魔法のみである。更に、シャルルや魔王が行使している、古代魔法が存在する。古代魔法は人類種では失われ、忘れられた魔法と呼ばれている。
しかし、現存する魔法はこれだけではない。聖女のみが習得を許された女神魔法。そして、上位の竜士族が唱える竜語魔法。最後に、ハイエルフのみが行使できる神代魔法。
神代魔法は、神の言葉を具現化することを目的とした魔法であり、膨大な魔力と知識を有するハイエルフ専用といえる。その魔法は魔を退け、全ての穢れを浄化し正常に戻すとされている。人類の歴史において、この魔法を習得した者はいない。
「神様の言葉・・・奇跡の発動・・・」
自分の中に存在する魔法の論理を解読し、その真髄に迫らなければならない。普通であれば、只人に神の言葉や思考が理解できるはずがない。しかし不思議なことに、イリアには難しいこととは思えなかった。溢れんばかりの情報と知識が、大河の流れのように脳内に浸透していく。
至高の聖女。後にも先にも、イリア以上の人間が出現することはないだろう―――イルミンはアカシックレコードにアクセスし、そう結論を出していた。
そして、イリアがそうであるように、シャルルもまた、至高の勇者である。その2人が同時に存在するということは、世界の因縁が断たれる可能性がある、ということを意味している。
原則として、ハイエルフは世界に干渉しない。
しかし、歴史的な転換期は別である。イルミンはシャルルに協力することを決めている。
「ギイイイイ!!」
1匹の餓鬼がイリアを見付け、叫び声を上げた。我に返ったイリアが、後方に飛んで距離を取る。しかし、そこにも餓鬼の姿があった。細い手が、飢餓感に支配された口が、イリアに襲い掛かる。その腕を叩き落とし、杓杖で突く。その僅かな時間に、もう1匹が背後から飛び付いて来る。イリアはその餓鬼も横殴りにし、周囲を見渡した。
細い身体に飛び出した腹部。浅黒い肌には艶は無く、正気を失った目には食欲だけが浮かんでいる。耳まで裂けた口には波状の歯が並び、大量の涎が顎から滴り落ちている。餓鬼の目に写るイリアは、ただの食料である。そして、それは、空腹を満たす最上の獲物だ。
時間の経過と共に数を増す餓鬼。一体なぜ餓鬼がこんな所で繁殖しているのか、なぜ放置されているのか。だが、今はそんなことを考える余裕はない。
「ウマソウダ」
声、が聞こえた。そちらを見ると、餓鬼王がイリアを見詰めて笑っていた。
餓鬼王。餓鬼の上位種たる、知恵を持つ下級悪魔。魔力は無いが、執拗な性質と耐久力は厄介である。
ジリジリと距離を詰めてくる餓鬼王共に対峙するイリアは、意を決する。直接戦闘に関する能力はやはり低い。パテトであれば、この程度の相手では問題にならないだろう。しかし、イリアにはそんな武力はない。であるならば、神代魔法を試すしか道は残されていない。
杓杖を天に掲げ、イリアは意識を集中する。その隙に、餓鬼王が一気に距離を詰めて来る。餓鬼とは比較にならない巨大な手が、眼前に迫る。
「―――――!!」
イリアの口から、魔法名が発せられることはなかった。
呆然とするイリア。呪文が存在しない神代魔法は、その魔法名が発動のキーである。しかし、その魔法名が言葉にならなければ、何も起こらない。
イリアの顔を覆い尽くすほどの手が、獲物を捕らえんと伸びてくる。この手に掴まったが最後、イリアはそのまま食べられてしまうだろう。咄嗟に杓杖を前に出し、その手を受け止める。しかし、その勢いを殺すことができず、イリアは後方に弾き飛ばされた。
足場は樹皮の窪みだけである。イリアはバランスを崩し、そのまま地面に向かって落下した。まだほとんど下りていない状況を考えると、地面までは3千メートル近い。
世界樹の樹皮にどうにか縋り付こうとし、イリアはその腕を伸ばす。細い指を、爪を懸命に厚い樹皮に突き立てた。




