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覚悟

 神田の町を同心・藤に半歩遅れてお虞が歩く。その二人の行くところ自然と人波が左右ふたつに分かれてゆく。そして分かれながらも人々の目は確実にお虞に注がれ大分に目立っていることに藤は気付いていた。


「お虞さん、おめぇさんが後ろに控えていると歩くのに楽でいいなぁ。ネコも杓子もみな避けてゆくぜ」


 だが、からかう藤の言葉とは裏腹に返されてきたお虞の言葉は暗く沈んだものであった。


「藤さま、もう止めにしませんか。無理なんです、どだい無理だったんですよ…」

「諦めるのかい…」


 ぼそりと藤が呟いた。


「藤さまには感謝しています…」

「それでいいのかい? 夢を諦めちまって、本当にそれでいいのかい?」

「アタシには所詮無理だったんです。道行く人たちの顔を見ればわかります。皆が私を見る目は女を見る目じゃない、見世物小屋の珍しいモノを見るのと同じ目つき…」

「おめえさん、勘違いしてないかい? 看板娘の美女にしろ、見世物小屋の化け物にしろ、客はどっちも珍しいから見に行くんだぜ。何が違うってんだい?」

「じゃあ藤さまは女房にするなら美女と化け物どっちを選びますか?」

「もちろん美女だ」

「それが男の本音です。間違いだったんです、アタシじゃ見世物小屋の化け物にはなれても、看板娘にゃなれはしない…。奉公に上がろうにも松平様のお屋敷から暇を出されたアタシじゃ相手にもして貰えない。商家に頼んでも飯を人一倍食いそうだからと断られる…。アタシみたいな男女おとこおんなじゃ何処もまともには相手もして貰えない…」


 遂にはお虞は歩くのを止めると往来の真中に立ち止まった。俯いた顔、その顔に光るものが流れる。それを見て藤が言った。


「帰りたけりゃ帰れ、その代わりいつまでも寄場があると思うなよ」

「え?」


 涙に濡れた顔が上がる。その判らないといった顔に同心・藤が語りかける。


「目付に睨まれてんだよ。お虞、おめえが仕事に就けなかったなら、俺はこれモンだ」


 そう言うと、藤は腹を掻っ捌く仕草をしてみせた。


「まさかそんな! どうして藤さまがアタシの仕事のせいで腹を切らなくちゃならないんですか?!」

「何を驚いていやがる、それがお上の仕事ってもんだ。俺は腹を切り、上役である笹川様はお役御免。寄場自体が無くなって、そうなりゃ下の同心・役人達も一同に役職を失うだろうよ。おめぇさんはダシにされたんだよ、無理難題を吹っかけ、金の掛かる寄場を無くす口実に選ばれたのさ。おめえさん覚えがあるだろう? 知らねぇ役人に根ほり葉ほり寄場の事を聞かれなかったか?」

「そんな…」


 驚きに顔を青ざめさせるお虞を見ると藤はお虞もただの若い女なのだと思った。体は大きいものの、自分の考え無しにしでかした行為がとんでもない結果を生み出したのだと知ると、その大きな体に震えさえ走り始めたのだ。


「おめえさん、どうする? 諦めるかい? それとも最期まで突っ走ってみるかい? 好きな方を選びな。どちらを選ぶもおめえさん次第だ」


 思いもよらずに迫られた決断にお虞の心は揺れた。自分の行い一つに寄場全体の明日が掛かっていたのだ。


『自分の命を救い、今まで育ててくれた場所が無くなる……。そんなのは嫌だ!』


 お虞の心に止められない激情の炎が迸った!


「藤さま! アタシ、やります!! ハンパな気持ちなど捨て去り、寄場の為に頑張ります!!」


 お虞は藤の両手を握り締め、そう決断を示すと両の目に溜まった涙を腕で拭い去り、打って変った力強い眼差しで藤の手を引っ張った。


「さあ! 次へ参りましょう!」


 化けた女の顔を見て藤は思った。


『これは本当に腹を切ることになるかもしれないなぁ…』


 涙を着物の腕で拭ったお虞の顔は化粧もハンパに流れ落ち、本当に化け物のようになっていたのである。




 神田、浅草と怪進撃を続けたお虞は連戦連覇威、遺憾なくその威を見せつけた。

 もちろん看板娘としてお虞を雇う店は何処にも無かったのだが、それでも最期の望みをかけて吉原手前、山谷に賭けたのである。

 ここは吉原に近く人の出入りが多い、ならばそれにふさわしく店も多いはず。そう考え最期の勝負に出たのである。


「頼もう!」


 近頃は若い娘に勇ましい男言葉が流行っていると聞き、ならば自分もと、お虞は店の主に勢いよく声を掛けたのだが、何を思ったのか店の主は、


「どうか、今日はこれでご勘弁を」


 と袖の下を忍ばせる有様である。

 お虞は有無を言わせぬ眼光で主を射竦めると言う。


「邪魔したな」


 結局お虞は奉公に上がりたいと申し出る事もできずに店を出ることになったのである。


『やはりアタシには無理なのか…』


 そう、心が折れそうになった時である。


「おぅ、お虞。いいかげん腹がへったなぁ。彼所で蕎麦でも食っていかねぇか?」


 ここまで付き合ってくれた藤が先の店を指差してそう言った。

 お虞も言われて気付いた、そういえば朝から歩きづめなのに何も食べてはいない。途端にキュウ~と腹も鳴れば、お虞もウンと頷いてみせる。


「おぅお虞、おめぇ金持ってるな? 貸せ」

「あれ? 藤さまの奢りじゃないんですか?」

「馬鹿いうんじゃねぇ、今日一日付き合ってやったんだ、蕎麦ぐれぇ奢れ」

「仕方ないなぁ~」


 そう言うと、お虞は袖から先ほどの紙包みを取り出すと、藤が差し出す掌にそれを預けた。


「おぅ、ありがとよ」


 藤はそう言うとさっさと店の暖簾をくぐり中の座敷席へと場所を決めると言う。


「おぅ、おめぇもさっさと上がりな。おぅ親爺、蕎麦くれ、蕎麦」


 奥より響く、「へ~い」という力ない声。次いで奥より現れた娘がお茶を持ってくると、お虞の顔を見て慌てて奥にとって返す。

 それをむっとした表情で見つめるお虞を見て、藤が笑った。


「藤様まで!」


 ところがである。先ほどの娘が奥より現れると、再びお虞の元へとやってきたのだ。


「お客さん、よかったらこれ」


 そう言って差し出してきたものは、手鏡である。銅製の手鏡は表面をよく磨いてあり、大切にしている一品だとわかるのだが、その表面に映し出された己の顔を見て、お虞は愕然とした。


「ななな、なに、これ!」


 鏡に映る己の姿に釘付けとなったお虞に藤が笑って応える。


「なにって、おめぇの顔だろ?」

「そうじゃなくって! 藤さま、どうして言ってくれなかったんですか! こんな恥ずかしい顔でアタシ…」

「言ったって、どうにもなりゃしねぇだろ。それに化粧を落としたって、大して違ぇねぇ」

「あのぅ、もしよければ、店の裏に井戸がありますから」


 娘の申し出に、お虞は鉄砲玉のように店を飛び出して行くと、すぐにもバシャンシャといった水音が響きはじめた。



 お虞が化粧を洗い流し終わる頃、丁度蕎麦も出来上がった。

 お虞には山と盛られた盛り蕎麦が、藤には熱く湯気を立てるかき揚蕎麦が。それらが目の前に置かれると、その丼の蕎麦を一口啜って藤が言う。


「お虞、心して掛かれよ、次が最期だ」


 その言葉を聞きながら、蕎麦猪口にドブ付けした蕎麦を啜ってお虞が応える。


「もし次が駄目だったらもう機会はないのですか?」

「お上の沙汰が下るまでになんとかすりゃ大丈夫かもしれねぇが、正直難しいぜ。江戸の町は仲間が粗方調べをつけている、その網の目から逃れた店なんて、そうあるもんじゃねぇ」

「アタシが選ぶ仕事を変えたら? 女を捨てて人足仕事を選べば?」

「言ったはずだ、今更お上に実はこれこれと申し上げたってもう遅ぇ。だから覚悟を決めな。俺も命を賭けてるんだ、おめぇも死ぬ気で掛かれ」


“「死ぬ気で掛かれ」”この言葉を思い浮かべながらお虞は必死で店の主人に頼み込んだ。それこそ裏口の地面に平身低頭、土下座をして無理やりにでも、試しでよいからつかってくれと必死で頼み込んだのだが其の甲斐あってか、


「じゃあ、試しに後片付けを手伝ってみて貰えませんか?」


 と、初めて手ごたえを掴んだのである。


 店は午後の日も大分傾いたこともあり、早仕舞いを決めたそうだ。ならば後は洗いものや掃除といったお虞にとっても差し障りの無いものと思えば、やはりそうは問屋が卸さなかったのである。

 店の格子窓の近くには長居を決める浪人者が一人、飲みかけの茶と串に一つだけ団子を残して居座る気配を見せていたのだ。


「お虞さんといったね、どうでしょうか、あの浪人者を追い出してはもらえませんか?」


 そう言って両手を合わせて頼む主人の力になれば、確かに自分の力を示すよい機会ではあるだろうが、しかしああして居座るからには何かしらの理由があるはず。茶店の娘目当てとも思えない其の姿にいやでも深い理由をお虞は想像してしまう。

 目の前には弱りきった主人の顔。そして自分の肩に圧し掛かるもう一つの重い責任。

 お虞は躊躇いを捨てると浪人者に進み寄り、話し掛けた。


「お武家様、申し訳ありませんが店仕舞いですのでお早くお召し上がりください」


 そう言ってお虞は相手の反論は聞くまいと頭を深々と下げると腰を直角に折って待ち続ける。

 お虞の背丈なら腰を曲げても卓上の皿は目に入る。そうしてしばらく待つのだが、浪人者はそのまま動こうとはしなかった。

 そうして仕方が無いとお虞が顔を上げた時である。


「まだ途中だ、皿に団子が残っているだろう」


 浪人者は格子窓から視線を移すでもなく、ボソリとそう告げたのである。


 その人を見下した態度にお虞の心に火がついた!


 寄場の荒々しい人足達の中で揉まれたお虞である、まるで自分など相手にしていないと無視されて、それでハイそうですかと引き下がるようには心も体も出来てはいない!

 お虞は皿に残された団子を掴むとそれをパクリと一飲み、そして皿と茶碗を持つと奥へと引き下がった。そうしたうえで今度は雑巾を持ってくると、あたかも浪人者などいないとばかりに座敷を拭き始めたのだ。


「おのれ無礼な!」


 刀を取り、片膝立ちになった浪人者の刀を抜かれる前にお虞の両手がそれを押さえる。片手は柄を握り、もう一方の手で鞘を握ると浪人者と向き合う形で力を込めあった。

 浪人の顔が真っ赤に高潮する。力が加わる刀はブルブルと震えた。その浪人者の目を真正面から見据えてお虞は言う。


「お引取りを」


 一瞬唖然とする浪人者の顔が再び憤怒の情に燃え始めたその瞬間である!


 バキバキッ!


 お虞が両腕に力を込めるや、浪人者の持つ刀の鞘は音を立てて真中から割れ、中身の竹光共々ささくれ立った。


「うっ、うわぁ~!」


 其の様子に情けない声を上げ、浪人者が逃げようとする様をすかさずお虞の手が掴む! 掴んだ襟首を強引に引っ張り、腕を取ると背中にねじり込んだ。


「お客さん、勘定がまだですぜ」


 耳元でそう囁いたお虞にやっとの思いで返されてきた情けない呟きは“「手元不如意」”であった。


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