準備万端
ある日のこと、お虞はいつもの人足仕事から外されると寄場奉行・笹川の役宅に呼ばれた。そうして暫くの間、控えの間で待たされると、奉行・笹川恵蔵と直にお目通りをしたのである。
「面を上げよ。お虞! そなたの気持ち、看板娘になりたいという気持ちは変わってはおらぬな?」
「はい? お奉行さま! どこでその事を?!」
お虞は自分の秘めた思いを何処でどのような方法で探りだされたのか判らぬとばかりに、すっとんきょうな声で奉行にそう応えた。
「お上を見縊るでない! その方の気持ちなど、この笹川、とっくに承知である!」
「へへー! お見逸れいたしました!!」
お虞が平伏する。奉行はお虞に再び面を上げさせると述べたのである。
「お虞よ、お主の願いを叶えるため、そこに控えている同心・藤が手筈を整えることになっておる。後はこの藤に従い望みを叶えるがよい」
奉行が扇子を向ける先に眼をやれば、そこには後ろに控えて若い侍の姿がある。
「以上である!」
席を立つ奉行をお虞は再び平伏して見送ると、今朝からの一連の奇妙な事の次第を思い浮かべるのだが、なぜこうなったのか、お虞にはどうにも思いがゆかなかった。
同心・藤の案内により別室に案内されたお虞は、しばしそこで時を過ごしていた。すると、
「お虞さま、湯浴みの用意が整いました」
襖の向こうから現れた女中が畏まってそうお虞に声を掛けるのだが、堪らずお虞が応えた。
「やめてくれっけ~、“お虞さま”だなんてこっ恥ずかしくなっちまうべよ~」
その言葉に女中達はクスリと微笑むものの、さすがにあからさまに笑い声を上げる者はいなかった。
よく躾が行き届いた女中達だと、お虞の中に忘れかけた思いが蘇る。昔の自分もこのように武家に仕えていたのだ。その頃の自分をこの目の前の女中と比べるならば、恥ずかしい限りでしかないと今更ながらに思い出したのである。
湯殿に通されたお虞は、今まで見たことはあっても自分で使う事があるとは思いもしなかった内風呂を思い切り堪能した。
むろん寄場でも盥に湯を張り湯浴みをする事はあったのだが、湯女が二人も付き従い、自分の体を隅々まで洗い清めるなど始めての経験だったのである。
日々の汚れを落とし、極楽気分を味わう。夢のような一時を過ごしていれば、
「そろそろ御上りになられませ」
と声が掛けられた。
その言葉に従えば、用意された衣装も全てが新しく、お虞の心には、なにか特別な夢の世界にでも迷いこんだのではないかと、奇妙な感慨さえ浮かびはじめる。
『一介の寄場に務める女人足である自分に何故このような待遇がなされるの?』
たとえ奉行の命令でも、このような過剰な接待を受ける理由が皆目判らなかったのである。
疑問を胸に秘めながらお虞は案内されるままに次の間に脚を運んだ。
そこに待ち構えていたものは、二人の女であった。姥桜といっていい年の頃だが、整った顔立ちの女とそれに従う若い女がおり、その姥桜は繁々とお虞の顔を正面に限らず左右上下から見つめるとお虞に言うのである。
「待っていなさい、このお興が貴方を江戸一番の美人に仕立て上げて見せるから」
お興と名乗った姥桜はお虞を部屋の明るい場所へと誘った。
その脇に助手が道具箱を置くと観音開きに細工がなされた道具箱を左右に押し広げるのだが、中からは細かい仕切りに揃えられた色鮮やかな化粧道具がズラリ姿を現したのである。
一刻の後、鏡を見たお虞はそこに見慣れぬ顔を見出した。
「これがアタシ?…」
鏡に映った自分の姿が信じられなかった。赤銅色に日焼けした肌は、花魁がそうするような真っ白な姿ではないものの、自然な町娘程に肌の色を染められ、そこに浮かび上がるはずの目立ちすぎる目鼻は主張をしながらも決して出しゃばらない程度にまでその存在を隠していたのである。
何をどうすればこのように仕上がるのかお虞には皆目見当つかなかったが、そこには以前の自分とは違う、新しい自分の姿があったのだ。
「お興会心の出来映えよ」
そう言って微笑むお興の額には汗が光っていた。一仕事をやり終えた職人の顔、そうお虞には見えたのだった。
化粧を整え、新たな着物を与えられたお虞が役人達の前にお目通りをすると、一同からは感嘆の声が漏れ出した。
そこには何をどのようにすればこうまでになるのかと言うほど姿を変えた、新しいお虞の姿があったのである。
「笹川様! これならば!」
「うむ」
持って生まれた体の大きさという隠し切れない要素こそあるものの、遠目に見れば然程不自然にも感じぬ姿に自信を深めた森が配下の藤に命じた。
「では任せたぞ」




