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右往左往

 寄場奉行・笹川恵蔵は配下の筆頭同心・森貞幹を呼び寄せると右手に持った扇子をびしりと森に向け、叱り付けた。


「森! なぜ今まで黙っておったのだ!! おかげできつく叱り受けたわ!」


 それだけでは流石に話も判らないと、森は恐れながらと詳しく話しを聞いてみた。するとなんでも人足寄場に六年もの間留め置かれた真面目な人側がいるという話であった。

 その者は罪らしき罪を犯していないながらも真面目に務めを果たし、そうでありながら今の今まで世間に戻していないのはどうしたことかと、そう問い詰められたとの話である。


「ははぁ、それはお虞の事ですなぁ」

「知っているのか、森!」


 アゴに手を当て、思い出すそぶりをする森に奉行が問質した。森が答えた。


「お虞の事ならもちろん知っております。なにしろ一番の古株ですから。それと先程目付が調べに入ったと聞いておりますので、その際にでも調べになったのでしょう」

「それが判っていたならば、どうして手を打たなかったのだ!!」

「笹川様、目付に睨まれたらどうなりますか?」

「むろん判っておるわ! いちいち其の方は腹立たしい事を。そこを上手くやるのが其の方の役目であろうが!」


 むろん森には奉行の言わんとしている事は判っている。目付の調べに協力するのはやむを得ないとしても、素直に協力するな、と、この場合にはお虞の事だが、目付がお虞に目をつけたのならば現場が上手く機転を利かせ、外役で出ている等適当な理由をつけて誤魔化せと言いたいのだ。

 だが、現場にそのような臨機応変な対応を求めるのも無理がある。現場では目付が何を狙って調べを行っているのかなど想像もつかぬであろうし、己よりも身分の高い者の申し出になら、ハイハイと素直に従ってしまうのが木っ端役人の性である。


「現場の者達にはこの森が今後このような事が無い様きつく申し付けておきます。しかし問題はまだ解決されてはいないのではありませぬか?」


 奉行は森の言葉に“「そうだ!」”と答えながら腹立たしげに扇子を自らの左掌に打ち付け言う。


「女の望の職に就けるよう全力を挙げよ! との仰せだ。なぜこのわしがたかだか一人の女人足の為に、こうまで言われなければならないのか…。おい森! 聞いておるのか!」

「お虞の望を叶えろと…、判りました。この森がなんとか致しましょう」

「確かだな? 後から出来ぬでは済まぬ事だぞ! ならばお主に任せる、なんとしてもお虞を“看板娘”に仕立て上げるのだ! しかと命じたぞ」


 その言葉を聞いた森は、驚きに目を見開くと聞き返した。


「笹川様、いま、なんと申されましたか?」

「何を驚いておる、しかと命じたのだ。励むがよい」

「いえ、その前に御座りまする。某の聞き間違いになければ、確か“看板娘”と聞こえましたが」

「おお! その通りじゃ、そのなんとやらという娘がそう望んでいるとの事、“女らしい仕事”とも言っておったな。なんとしてもこれを成し遂げねばならぬぞ、いいな。どうしたのだ、青い顔なぞしおって…」


 森の顔はそれと分かる程に青ざめていた。それを不審に思った奉行が森に問い詰めると、訳を知った奉行も顔色を失ったのである。


「それは真か!」

「はい…」


 幾らお上の命令だとて、身の丈六尺に迫る筋骨逞しい大女を、事もあろうか水茶屋の看板娘に仕立て上げるなど、果たして出来ようものだろうか。

 万一なんとか成ったとしても、それを見た江戸の口うるさい町衆達が、“「お上のなさりようはなんだ」”と、命じた者達が江戸市中に恥を晒すのは必定だろう。ましてや出来ぬとあらば、お上の期待に背いたと出世の道から外され閑職に回されるどころか役目さえ失いかねない。

 森は思った。


『いや、おそらく端からそれが狙いなのかもしれない。目付けの報告をこれ幸いと、出来ぬことを申し付けたのだろう』


 とにかく、どちらに転んでも災いが降りかかるのだ。


「ええぃ森! 何か良い手立ては無いか!」

「最早我等の全力を挙げ、お虞の身の振り方をどうにかするより他有りませぬ。お虞の望を叶え、かつ我々に火の粉が降りかからぬようにする手立てを探し出すのです」





「藤さま、お早く! もう既に皆様方お集まりです」


 中間の伊助が同心、藤実秋ふじさねあきを急かすのだが、当の藤は伊助の心配りも関係ないとばかりにおっとり脚で役宅の廊下を歩いて行く。


「藤さま!」

「判ったからそう急かすな」


 そう言って廊下の角を曲がれば、そこには異様な雰囲気が待ち受けていた。

 先輩格の同心たちが一同に会し、まるで通夜の席でもあるかのように押し黙っている…。

 しかし、藤はそれに構うことなく一同控える間に入ると先輩達の最後尾に悠々と腰を降ろしたのである。


「藤!遅い!!」


 森の藤を叱り付ける言葉が部屋に響く。

 その叱りつけられた藤はといえば、「ハイッ」と勢いだけは見事に応えるものの、その顔には反省の色が浮かぶでもなく正面を見据えている。


「まあよい、揃ったようだから始めるとしよう。では各々方、これから申し伝える事、ようく肝に命じませ!」


 筆頭・森の普段とは違った鬼気迫る声がその場に響き渡った。


 事の次第を聞かされた同心たちの心に湧き出した不安な心は並大抵のものではなかった。一人の女人足の今後の進退一つ如何で己らの命運が決まると脅されたのである。

 それは即ち役を解かれるという事、譜代席の御家人ならまだしも御抱席では生きていくのも厳しくなるはずである。

 奉行・笹川が部屋から下がるのを切っ掛けに、同心達の口からは次々と不満や怨嗟の声があふれ出してくる。


「お虞の担当は誰だ! 朝香、きさまではなかったのか?!」

「なにを仰います、某がお役を承ったのはつい最近の事。それを某ただ一人に責任を押し付けるなど合点がゆきませぬ」

「前任者は誰だ!」

「確か配置換えになった池田殿かと」

「おぉ! 池田どのといえば、確か貴方さまのご息女を娶られたあの…」


 それまで息巻いていた筆頭同心がそれきり黙ってしまった。むろん同心達もである。責任の追及どころを探し当ててみれば結局自分の身内や上司に当たるとなれば、もうそれ以上はどうすることもできなかったのである。ましてや責任の所在を突き止めたとて、既に事はもうそれだけでは済まなくなっているのだ。

 己の上役がお役後免となって、自分たちがそのままでいられるはずがないからだ。

 同心達は言い争うのを止めると、車座になり、どうすれば自分たちが生き延びられるかについて普段とは違う真剣な面持ちで意見を交わし始めたのである。

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