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告白

 生きるために人足寄場に仮初の住処を求めたお虞は、そこで日々の労働に明け暮れた。始めは賄い、洗濯、裁縫や機織といった女の仕事をこなして最初の三年を過ごし、年季明けとなった後も役人に泣きつき、更なる月日を此処に過ごしたのである。


 そうして十五になったお虞は体も大分に大きく育ち、男に混じって力仕事をこなすようになった。

 外役の川ざらえや材木運搬、水運搬、御蔵人足、いずれも力を必要とする男の仕事だが、歳を追うごとにぐんぐんと背を伸ばし大きく育ったお虞の体は、繊細な女仕事以上にこの手の力仕事に向いていたのである。


 そうして合わせて六年の月日が過ぎたある日の事。

 お虞は役人に呼ばれ、詰所に顔を出したのだが、その日に限ってはいつもの仕事に関する申し渡しではなく、見慣れぬ侍がお虞を待ち構えていたのである。

 詰め所の中の板の間に藁の円座布団を敷き、正座で待ち構えていた男は名を相府あいくら正左衛門と名乗った。男はお虞を自分の目の前に座るように促すと、その一見微笑んでいるようにも見える細い目を向けお虞に語りかけたのである。


「お虞さんで間違いないね、まあそんなに堅くならないでかまわないから先ずはゆっくりくつろぎたまえ」


 そう武士にしてはくだけた態度でお虞に話し掛けると、世間話とばかりに寄場での普段の代わり映えの無い話を聞くのである。

 四半時程もそうした世間ともいえない世間話に興じた頃だろうか、男はその細い目にやや鋭い輝きを浮かべると、お虞の恐れていた話の本題ともいうべき事柄に触れ始める。


「ところでおめぇさん、長らくこの寄場に厄介になっているそうじゃないか。

聞けばおめぇさんは六年前に自ら進んで寄場入りを志願したっていうじゃないか。

もっとも無宿人に仕事を教えるって長谷川様が始めたこの寄場だ、あんたは立派に入る資格があるってもんだが、だからといっていつまでも居座っていい訳じゃねぇ事は、おめぇさんも判っているだろう?」


 男の心が本心ならば、成長した雛鳥の巣立ちを求める親鳥の気持ちとでもいったところだろうか。

 むろんそれはお虞にも判っている。しかし、お虞は頭を床に擦り付けると目の前の役人に訴えたのだ。


「お願いします! どんな辛い仕事でも引き受けますから。働きが悪いというなら倍働きます! だから、どうか此処へ居させてください」


 そう懇願するお虞の目には涙が浮かんでいる。

 相府はこのお虞の姿を本心からの訴えに間違いないと見た。だがそこで疑問も生まれるのである。女が自らこの隔絶された世界に飛び込み、そこで生き続ける事を望むからには何か特別な訳がありそうなもの。

 相府はお虞に訊ねた。


「何か退き引きならねぇ理由があるってぇならどうだい、そいつを俺に聞かせてはくれないかね?」


 すると、返された答えは相府にとってはどうにも腑に落ちぬものだった。


「あだしの行き場所など何処にもありません。ここだけなんです、ここ意外にはありはしない…」

「まさか寄場役人が不埒な考えを起こし、おめぇさんを此処に縛り付けている訳じゃあ?!」

「いえ! 違います。決してそのような事は!」

「ならどうしてだい? おめぇさんの働きぶりは上々どころか人の二、三倍は働くって評判じゃないか。真面目なおめぇさんなら身元の保証人だって困らないはずだ。俺にはそこが腑に落ちないんだが…」


 並みの女なら確かに無理な仕事でも、目の前のお虞に限ればそれが当てはまらない事は相府にも容易に判った。

 目の前に身を縮めて座るお虞の姿は大男以上、立ち上がればその体躯は六尺に手が届きそうであり、それを支える体も男ほどの野太さはないものの、すらりと伸びた手脚は筋骨たくましく、狼のように細く締った腰周りと、それとは対照的な晒しと半纏の下に隠された獅子のような胸板などは、どんな男も叶わぬほどの厚さを誇ってさえいる。

 日に焼けた肌と相まって半端な男では縮みあがりこそすれ、馬鹿にする者などいるとは思えない!

 だが、それこそが誤解であったのだ。


「力仕事は頼まれて止むに止まれず続けていたんです。本当は女として普通に働き、普通に生きていたい…」


 女としてのごく普通な生活、お虞の望むものは別段不思議の無いものだったのだ。普通の女の普通の生活、しかし、お虞の尋常ではない肉体が今までそれを妨げていたのである。

 相府はお虞に優しく語りかけた。


「お前さんさえ望むなら田畑を与え、百姓として暮らしが立つようにもできるが」


 だがお虞は百姓は嫌だと答えた。郷里の荒れ果てた村の生活を思い起こすからだと言い、幾ら働いても暮らしが楽にならない百姓の生活なら人足の方がマシだとさえ言い切る。


「なら何処かに奉公に上がるかい?」


 だがこれも無理だと答えた。以前に奉公に上がっていたお屋敷が松平姓を名乗っている事もあり、新たに奉公先を求めてもその経歴が邪魔をするのだとお虞は言う。

 相府は、ひょっとするならば三年前に出戻った訳もその辺にあるのかもと想像を働かせたが、それは言わないで置いた。なにも本人を前に今更傷つけるでもないと、そう考えたのかもしれない。

 だが、そうなるとますます困ったことになる。


『この女が求める仕事とは何なのだ? どうすれば女をまっとうな道に連れ戻すことができるのだ?』


「ならオマエさんはいったい仕事は何がしたいんだい?」


 相府の真面目な姿に打たれたのか、お虞は少しもじもじとしたものの、相府を俯きかげんに横目に見つめるとその口を開いた。


「あの、笑わないで聞いて貰えますか?」

「ああ、約束する。言ってみろ」

「女らしい仕事がしたいんです」

「女らしい? もっと具体的に申してみろ。例えば、何だ?」

「たとえば……笑わないで下さいよ!」

「いいから!」


 目の前の大きな女は顔を赤らめるとボソリと呟いた。“花魁”と。

 花魁…、その言葉に相府は即答して“無理”と答えたくなる心を忍ぶと一つ深く息をつく。そして心を落ち着かせるとお虞に問いかける。


「おめぇさん、歌や踊りはともかく、華道、茶道、ほかにも書道や香道といった様々な教養を持ち合わせていなさるのかい?」


 もちろんそれにはお虞は俯き加減に首を振り、自信の無さを表すばかりである。


「今から一から習うにしても、それを学び終える頃には年増を通り越して姥桜になっちまうが、そこの所を考えていなさるのか? もう少し、今の自分でも成れそうな望み事はないのかい?」

「でしたら神社の巫女など…」

「おめぇさん、年は今幾つだい?」

「十八」

「無理だな、もう引退する年頃だ」

「それでしたら…水茶屋の看板娘なら、これなら運ぶだけですから」


 相府は頭に鈍く響く痛みを覚えながらお虞に言い返した。


「そりゃ確かに運ぶだけかもしれねぇが、店の主人が首をウンと縦に振るかが問題だなぁ」

「駄目でしょうか? 之が駄目ならあとは吉原の遊女にでもなるしか…」


 吉原の遊女。その言葉を聴くなり相府は声を荒らげた。


「この馬鹿女めが! お上がてめぇのところで世話をした女を苦界送りになど出来る訳があるめぇよ! つまりなんだ、おめぇさんはパッと華やかに着飾った仕事をしたいんじゃないのかい? 花魁に看板娘に巫女、最期のは違う気もするが皆華やかな女の仕事だ」


 その言葉にお虞は我意を得たりとばかりに目を輝かせて頷いた。


「お虞さんだったね、今まで己の望を此処の寄場の役人に申し出た事は?」

「いえ、一度も。そんな事はこっ恥ずかしくて、とてもじゃないが言えたもんじゃありません!」


 確かにそうなのだろう。今でもお虞は己の言葉に顔を赤らめ、それを隠すように自分の両の掌で顔を隠しているぐらいなのだから。

 相府には何故今までお虞がここを離れることが出来なかったのか判ったような気がした。外見はどうあれ相手は女であり、自分の類稀なる性質を生かすことよりも、女としての憧れのほうが強かったのだ。

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