決断!
娘ことお虞は尾張町の掘割に掛かる橋の上から揺蕩う水面を眺めていた。
心に思い浮かべるのはあの奉公に上がった武家屋敷での日々の出来事。辛い出来事ばかりと思っていたあの屋敷での日々が今では懐かしく、愛しくさえ思えていた。
もう、あそこに戻る事はできないのだ。
屋敷に戻った娘ことお虞は、当初なにも判らぬままに事情を調べられた。
もちろんそれには正直に夜中にお百度を踏み、お参りをしていた事を申し述べたのだが、返された言葉は意外どころか信じられぬものであった。
「半年近くに渉って何処で、何をしていたのかを正直に申せ」
そう言われたのである。
お虞の未熟な頭では当初は話は理解できなかったが、なんと! あれから、自分が抜け出したあの夜から半年もの月日が経っていると言うのである。
担がれているのだろうとも当初は思いもしたが、お堅いお武家様がそのような戯れを自分にする理由もなく、本当にそうなのかと思って庭の木々に目をやれば、花は既に咲き終わり、木々の枝からは新緑の若葉が伸び始めている。
『まるで浦島太郎』
お虞は思った、きっと馬鹿なお願いをしたからバチが当たったのだと。お虞の頭の中に事に至る切っ掛けとなったあの日の出来事が渦を巻いて駆け巡る。
「アンタみたいな目玉お化けなんて、どんな男も振り向きやしないわよ。怖いもの見たさ意外ではね!」
「鏡を見た事が無いの?」
「アンタを欲しがる男? いる訳ないでしょう!」
「諦めなさい、もしあちきより早くに嫁入りできたならば、あちきは裸で江戸中逆立ちして歩いてみせるわ」
「言ったわね! ぜったいぜったい後悔させてやるんだから!!」
奉公人仲間の悪口を売り言葉に買い言葉とばかりに啖呵を切り、ならばとやった行為といえば神頼み。
それも只のお百度ではご加護も薄いと三代様の故事に因んで出世の坂をお百度踏めば、なんとか願いも叶うだろうと考えた己の馬鹿さ加減が間違いの元だった。
事の真偽はどうあれ、お虞は暇を出されたのである。
その後の処遇も最悪であった。半年もの月日が経っていた事もあり、僅かな身の回りの品も既に処分され、本当に着の身着のままで江戸の町に放り出されたのである。
江戸の町を彷徨い歩きながらお虞は考えていた。
『自分にはもう帰るところは無い』
郷里の荒れ果てた田畑では自分の口を養うことはできないからと、親類縁者のツテを頼り、お殿様の江戸屋敷になんとか奉公に上がった。
今更郷里に戻ったところで合わせる顔など何処にもないどころか迷惑にさえなるだろう。
さりとてこの江戸に頼る者とてあろうはずもなく、途方にくれても良き手立ては無し。
それでも腹は減る。
お守りの中には一文銭が六枚あるが、これを使い切れば本当に一文無し。なんとかして生きる為の手立てを考えなければならない。
『金貸しから小額でも金を借りることができれば百姓から野菜を仕入れ、売り歩けばなんとか稼ぎも生まれるだろうか?
いやいや身寄りも住処さえもない小娘に、行商の金を貸してくれる金貸しなど居るはずもない。
質屋に行こうにも担保に預ける質草さえも持ってはいない。川から蜆を探すにも、笊が無いどころか借りる銭さえない。
後は自ら進んで苦界に身を落とすしか…』
そうまで考えてなお、お虞の頭には暗い予感が過ぎるのである。
自分の容姿が優れていないことは己自身が良く知っている。万一、女郎にさえ成れ無かったならば…。
いったい自分にはどのような道が残されているのだろう…。
気が付くと、堀割傍の道をいつのまにか日本橋界隈まで歩いてきていた。
時間のせいか、それとも腹がすいているせいか、店から漂い出す食べ物の芳しい匂いが酷く鼻をついた。
途端に腹の虫が泣き事を言い始め、体が無意識の内に匂いを辿ってゆけば、出所は川向こうに見える鰻屋と判った。
甘く香ばしい匂い、その匂いを嗅ぎながら川の向こう岸より食い入るように店を眺める。眺めるばかりでもちろん鰻を食べる金などどこにもありはしない。だが二本の脚はまるで根が張ったように動きを止めたのだ。
『あの店に入り、腹いっぱい鰻を食べたらどんなにか幸せだろう。
今の自分がそれをしたならば、お役人に罪人として引き渡されるだろうが、それも食べ終えてからのことだし…』
邪な考えが頭に浮かびだす。
お虞の足が、堀を渡る橋を目掛けて再び歩み出す。
気力を失っていた体も、“食べる”という人としてもっとも根本的な欲求に突き動かされ力を振り絞ると体を鰻屋の方へと突き動かした。
店の前に到達すれば、もはや暖簾を潜るに戸惑いは無かった。中に入れば昼時のせいかかなりの込み具合を示している。そのまま戸口近くに立っていると店の給仕女がやってきて、
「いらっしゃいまし~、今席をあけますので」
とお虞を店の奥へと誘い入れた。
「ささ、娘さんこちらへ」
給仕女がそう言って案内した席には既に脇にも前にも先客がひしめいている。その目の前の席では禿頭のやけに厳つい漢が鰻に箸を伸ばしている。その奇妙な姿にお虞は少し厭な感じを覚えたが、店の給仕女はそんな事はお構いなしとばかりにお虞に席を促した。
見れば座敷の席は客層もばらばら、町人と侍が隣席していたりと空いている場所に所構わず座らせているようだ。
お虞は仕方が無いと席に座ると鰻の上を注文した。どうせ最後の鰻なら、いい物をと思ってのことだが、すると、
「娘御、常陸の出か?」
目の前の禿頭の漢がそう懐かしい訛り言葉で話し掛けてくる。
「んだー、常陸の出だけどなして判った? われも常陸の出けー?」
「訛りでな、儂は信太の出だ」
「信太ってーと霞ヶ浦の辺け? うぢは宍戸、笠間の山ん中だはー」
懐かしい訛りを聞いたせいか、お虞はその目の前の漢といくつも言葉を交わした。その中でやはりというか今のお虞の境遇にも話が触れたのだが、お虞は漢に奉公を暇になったと聞かせると、
「このごじゃっぺが」
と、やはり懐かしい言葉で叱られたのである。
「んだけど、もうオラどうしたらええがわがんなくって…」
「見つけるしかあるまい喃~、誰も赤の他人のお主を助ける者もいまいて。親父、勘定を此処に置いてくぞ!」
そう言うと、その禿頭の不思議な漢もお虞を残して行ってしまったのである。
「ありがとう御座います~、あら、ご一緒でいいのかな?」
「えっ?」
給仕女が漢が残していった金を見てそう言った。そこには一朱金が二枚、それは漢とお虞の鰻の代金に充当する額である。
鰻屋を無事に出たお虞は耐えようも無い罪悪感に苛まれていた。あの同郷の漢とたまたま出くわさなければ自分は役人に突き出され、こうして平然と人前に居ることもできなかったはずなのだ。
だがこのままではいずれ罪を犯してしまうだろう。たかが空腹でよく考えもしないで罪を犯そうとした自分だ、たまたま幸運により罪を犯さずにすんだが、このままではそのせっかくの情けも無駄になってしまう。
『このままでは…』
お虞は考えた。そして決して良くない頭で考えに考えぬいたあげくに無一文でも生きて行ける場所へと、自らを投げ込んだのである。
人足寄場。そこで立派に勤め上げたものには新たな奉公先が世話されると聞く。
「もし、お役人さま」
お虞は一歩を踏み出したのである。