第35話 アングレカム 〜いつまでも貴方と一緒〜
花子の事が心配で仕方がない。お腹の中にいる赤ちゃんの事も気になる。
今日は花子には仕事を休む様に言っておいた。
こういう時にこそ、夫である俺が頑張らないと。もう直ぐ父親になるんだから。
(駄目だ駄目だ……! 集中しないと)
何時もより気合いを入れて仕事に励んだ。
気が付くと空が暗くなっている。
店を閉店させたら、早く明日の準備をしないといけない。
大変だけど妻の為、子供の為なら何だって出来る。考えるだけで力が湧いて、不思議と何も苦にならない。
俺は小さい頃、人を好きになった事が無くて、この先恋愛が出来るのか不安だった。
しかし、花子と百合と出会って、多くの事を知った。人を好きになる事は、こんなにも幸せな事なんだと。
俺の人生の全てを捧げてもいい。過言ではない。出会えて良かったと、本当にそう思っている。
こんなにも幸せでいいのか? そう思う程に、今が最高なんだ。
早く花子の側にいてやりたい。少しでも一緒にいたい。
それは当たり前となって、これからもずっと続いていく。
ーーー俺はそう信じていた。
「花子ごめんな~。やっと終わったよ……」
奥の部屋に花子がいる。幸せが待っている。
だが、俺の目に映った光景は、思っている様なものではなかった。
「花子……?」
そこには、倒れ込んでいる花子がいた。
「お、おい! どうしたんだ!?」
返事が無い。完全に気を失っている。
心臓は動いている。息もしている。
俺は直ぐに携帯を取り出して電話を繋げ、救急車を呼んだ。
「直ぐに来て下さい! 場所は……」
焦る想いを押し殺しながら待つ事数分。救急車がやって来た。
タンカで運ばれる花子。俺も一緒に救急車に乗って、一番近くで大きい相沢病院へと向かった。
応急処置が始まる。俺は何も出来ず「花子!」と声を掛けてやる事ぐらいしか出来なかった。
相沢病院に到着する。そのまま救命救急室へと花子は運ばれていった。
白衣の姿をした瑛里華が迎えに来た。
「大丈夫。そこで待ってて」
中には入る事は出来ず、瑛里華の言葉を信じて外で待つしかなかった。
俺は何をやっているんだ! 花子が何かを抱えている事に気付いてあげられず、側にいてやれない。
こんなんじゃあ父親失格だ。
一時間経った。
すると、赤く点灯しているライトが消えた。そして、瑛里華が部屋から出て来る。
「花子は? 花子は無事か!?」
「一命は食い止めた。今は寝ているわ」
取り敢えず安心した。死んでしまったらどうしようかと思って、怖くて震えていた手が漸く止まる。
その安心は直ぐに崩れ落ちる事となる。
「ただ、事態は思ったより深刻……」
「どういう事だ……?」
瑛里華の顔付きは恐いくらい真剣だった。
「場所を変えましょう」
そう言う瑛里華について行き、診察室に入る。
瑛里華はレントゲンの写真を俺に数枚見せる。それには全てに脳が写っている。
そして何の迷いも見せず、ハッキリと言った。
「癌よ」
その言葉は、俺を恐怖のどん底へ陥れるには十分だった。
「嘘だ。花子はそんな素振り見せなかった」
「隠していたんでしょうね……。証拠にかなり成長しているわ」
「どうすれば良い!? 花子を助けてくれ! 頼む!」
「蓮、落ち着いて」
その言葉を聞いてふと我に返る。もう少しで気が狂うところだった。
「今彼女を手術すると成功確率は50%といったところ」
50%。その数字は多いのか少ないのか分からないが、0じゃないのなら希望はある。受けるべきだ。
というより、それ程まで侵食しているという事は、いつから花子は我慢していたんだ。何で花子も、百合も俺を頼らない。そんなに頼り甲斐のない男だと思われているのか。
「手術してくれ!」
「ただ一つ、困った事に……お腹の赤ちゃんが……」
新しい命。俺達が育て上げてきた、俺達の子供。
名前まで決めて、楽しみにしていた。
それを犠牲にしろと言うのか。何でこう上手くいかない。何で俺達の邪魔をするんだ。
今はそんな事嘆いている暇は無い。
俺が決められる様な事では無い。花子が決めるべきだと思った。
だが、あいつなら自分を犠牲にしてまで、赤ちゃんを産むだろう。
どうすれば良い。何が正解か考えろ。
選択肢は二つ。
花子を手術して貰うか、赤ちゃんを救うか。
「花子さんと決めて」
俺は花子の病室へと向かった。花子はスヤスヤと眠っている。
膨らんだお腹に耳を当てると音がする。中で自分の子供がいるんだと改めて理解する。
此処にある二つの命は、何方かが消えてしまう。両方を救う選択肢が無いのか。
花子と百合みたいに、またこの選択を迫られる。
花子、お前の悲しむ顔を見たくない。悲しんでいる俺を見て欲しくない。
今晩だけでも、お前達の側にいさせてくれ。
ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー
何だか眩しい。窓からの日差しのせいだ。
どうやら俺は、花子の病室で眠ってしまったらしい。
花子を見ると、身を起こして窓の外を眺めていた。
「花子! 気が付いたんだな……。良かった……!」
「私、産む」
花子はとっくに答えを出していた。揺らがない覚悟を決めた顔をしている。
「お、おい待てよ。自分がどんな状態か、分かって言ってるのか!?」
「今産んだら……死ぬんでしょ?」
「手術したら治るんだ! だから……仕方ないけど……赤ちゃんは……」
仕方ない。これは仕方ないんだ。
何方かの命を救うなら、俺は花子を選ぶ。それが俺にとっての覚悟だ。
「相沢先生から聞いた。50%だっけ?」
「大丈夫! 成功する様に願えば必ず……」
俺が信じてやらなければ、誰が信じるんだ。
なのに、花子の気持ちは変わらなかった。
「例え100%だったとしても、この想いは変わらない」
その言葉を聞いた時、その目を見た時、俺はもう何も言えなかった。
「貴方を頼りにしているから、信じているから言えるのよ?」
「花子……お前……」
頼りにされている。信じてくれている。
俺は花子の想いに応える事にした。
すると、その時がきた。
「ああ……うぅ……! きた……みたい……!」
俺は直ぐにナースコールをした。ナースは花子の様子を確認すると直ぐに瑛里華達を呼んで、出産の準備を始める。
「瑛里華……頼む……!」
「本当に良いのね?」
「それが花子の願いだ」
俺は花子の手をしっかりと握った。花子はそれに応えて握り返す。
苦しそうな花子を、俺は目を背けてはいけない。見守るんだ最後まで。
ひっひっふー。ひっひっふー。
それを繰り返す。花子から気力が失われていく。
その姿を見ているのは辛い。それでも見守る事が俺の出来る唯一の事だ。
「花子! 頑張れ!」
「うん……!」
赤ちゃんの姿が見えてきて、もう直ぐ産まれそうだ。
産まれた時には、花子はもうーーー
「産まれました! 元気な女の子ですよ!」
花子は娘を抱き、幸せそうに微笑んだ。
新しい生命の誕生。自分の子が産まれる事が、こんなに神秘的で感動的て嬉しいものだとは。
「花子! 大丈夫か!?」
「蓮……?」
駄目だ。溢れ出る涙が止められない。最後まで泣き虫な俺でごめんな。
だってお前、もうそんなに弱って。喋る事だってままならないじゃないか。
「この娘……大事に……育ててね……?」
「お前みたいに元気な娘に育てるよ」
「花屋さん……続けてね……?」
「ずっと続けるよ。お前との約束の場所だからな」
「いつまでも……愛してくれる……?」
「ああ、愛してる」
「嬉しい……」
そう言って、花子は幸せそうに目を閉じた。
「何言ってんだ花子。これからも一緒にやっていくんだろ」
嫌だよ。
「そう言えば、新しい服が欲しいって言ってたよな? 今度一緒に買いに行こう!」
これからじゃないか。
「さて、これから忙しくなるぞ~! 花屋ももっと盛り上げていかないとな!」
一人にしないでくれ。
「……花子?」
返事が返ってくる事はなかった。
花子は笑顔で眠っている。いくら呼んでもピクリともしない。
まるで永遠に眠るお姫様の様な美しさだった。
それは死んでいると、到底信じられなかった。
俺はキスをする。
その柔らかな唇はゆっくりと硬く、冷たくなっていく。
それでもに俺は、これぐらいの事しか出来ない。
花子と出会って僕はーーー
百合と出会って俺はーーー
幸せだった。
「ありがとう……!」
産まれた子は、なかなか泣き止まなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
昔話はこれでお終い。
だけど、物語は紡いでいく。
新たな蕾が開く様に、いつまでも続いていく。
花屋の前には百合と一人の少年が佇んでいる。
少年は百合をチラチラと見ては、その度に顔を赤く染めている。
そんな少年を手招きして、こっちに来る様に呼んだ。
「君にこの花をあげよう」
少年は受け取って、その花を不思議そうに見つめる。
ネリネの花。これを見ていると昔の事を思い出す。
また会える日を楽しみに。
この花屋がある限り、二輪の花は枯れはしない。心の中で咲き続ける。
それは色鮮やかで、どの花よりも美しく可憐な花。
そう、言わば高嶺の花。
いつまでも待ち続けよう。
約束したこの場所で。
二輪の花が咲く場所で。




