第32話 アカンサス 〜離れない結び目〜
「蓮ちゃん! 起きて!」
その声によって、俺はこの世界に引き戻される。あまりに大きな声だった為、少し耳がキンキンする。
「百合ちゃんが……百合ちゃんがいないのよ!」
俺はその言葉によって、目が覚める。その言葉は俺を焦らせるには十分だった。
またあいつは一人で抱え込んで、俺に何も言わずに何処かへ行こうとする。昨日の嫌な予感はこれだったっていうのか。
たまには俺を頼ってくれてもいいのに、あいつの優しさは異常だ。
それを全部ひっくるめて百合なんだという事は、俺が一番良く知っている。
「これは……」
俺の机の上には一枚の手紙が置いてある。それは可愛らしいチューリップの絵が描かれている。
正直に言うと、この手紙を開くのが怖い。でも俺にはそれをする義務がある。
思い切って手紙を開いた。
「花屋に行って」
たったそれだけが書かれている。
俺はこの何ともない文章が違和感で仕方がなかった。
「来て」ではない。「行って」だという事に。
花屋に行けば、そこには百合はいない。そんな風に感じ取れる。
「俺は、どうすれば……」
花屋に行くと、全てが終わってしまうって思う程に、恐怖を感じている。
でも、行かなければならない。それが百合に出来る唯一の事だから。
「女の子待たせちゃ駄目よ?」
愛する女性が待っている。だから迎えに行く。ただそれだけだ。
「行って来ます」
決意を固めて出発しようとしたその時、扉の開く音がした。
「ただいま」
「母さん……」
俺の母が海外から帰って来た。よりによってこのタイミングだとは。
「早乙女さんの息子さん? 随分変わったわね……」
「お久し振りです。紫陽花さん」
「何その格好。恥ずかしくないの?」
母は醜いものを見る目で、柚樹さんを見る。柚樹さんは何も言えず、硬直している。
「自分の息子がこんな風にならなくて良かったと思うわ」
彼が女性としての憧れを抱いていた事を母は知らない。とはいえ、そんな言い方があるか?
俺は母の人間性を疑わざるおえない。
「蓮、準備して」
「何の事……?」
「私と海外に行くのよ。もう直ぐ飛行機が出るから早くしなさい」
久々だったので忘れていたが、漸く思い出した。
人が傷付く事を平然と言う冷酷さ、身勝手な性格、やはり俺はこの人が大の苦手だ。
「俺は今から行かなくちゃいけないんだ」
「私の言う事が聞けないという訳?」
鋭い目は俺を睨み付ける。しかし、怯えている時間は無い。
「待たせている人がいるんだ!」
「女?」
俺の話なんて聞いてはくれない。昔から変わっていない。ならばと俺は目で訴えかける。この人に分かって貰うには、言葉じゃなくて心しかない。
「お前と懲りない男ね。前に死んだ女みたいに、どうせまた裏切られる。もう分かったでしょう? 恋なんて何の役にも立ちはしない!」
それは俺にではなく自分に言っている様だった。
父の浮気。離婚した理由がそれで、母は一種の人間不信に陥った。恋というものが嫌いになり、仕事一筋の人間へと変えてしまった。
「俺は……あいつを愛してる。だから行くよ」
「愛なんてものは、この世に存在しないのよ!」
バシッ!!
部屋に鈍い音が鳴り響くと、静まり返った。
母の頬が赤くなっていて、柚樹さんの手が震えている。
「貴方は……人間としては立派かもしれないけど、母親としては……最低よ」
母の顔付きが変わる。それは怒りではなく、また違う感情だった。浄化されている様な清々しい表情に見えた。
「母さん。人を好きになるって……幸せだよ」
母はやっと分かってくれた。人を好きになる事の意味を。その大切さを。
「蓮! 行きなさい!」
「ありがとう!」
何度離れ離れになっても、また結び直せばいい。そこに三人の結び目がある限り。
俺は走る。
何度も笑って、何度も泣いて、何度も恋した。
俺達だけの居場所。
あの約束の花屋へ。




