9
◇
今日も胡蝶は花を解放した。
隠れ家から去っていく少年の真っ白な姿を、白雪は眺めていた。
蟷螂はすぐ隣でくつろいでいる。外で何かを捕らえ、そのまま食べて、満足しているようだ。おかげで、胡蝶の死は更に遠ざかってしまった。
こんな日々が繰り返されるだけだったらいいのに。
白雪は心からそう思った。
決して穏やかではなく緊迫した日々ではあるし、蜜吸いの相手が自分でないことは寂しいことだが、少なくとも胡蝶は死なない。蟷螂も傍にいる。白雪にとって好ましい状況に違いなかった。
――でも、いつかは終わりが来る。
胡蝶の死ぬ日を思い浮かべただけで、白雪の胸は苦しくなった。
「どうしたの?」
月光を受けて輝く白雪の髪を、蟷螂は手ですきながら訊ねる。
「何でもありません……」
「顔を見せて、白雪。それにしては、浮かない様子じゃないの。わけを教えて?」
答えられない白雪の頬に蟷螂は手を当てた。
蜜を介さぬその触れ合いは、白雪にはっきりとした刺激を与えては来ない。それでも、白雪の心には温かなものがもたらされるものだった。
蟷螂のことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きであるし、ずっと傍にいたいと思っている。だからこそ、白雪は答えられなかった。
――わたしはどうしたらいいの……。
黙ったまま俯く白雪の姿に、蟷螂の表情もまた陰りを強めていった。
「あの胡蝶のことね」
迷いなくそう問われ、白雪の緊張は一気に増す。答えられぬもその惑いを含んだ反応は、十分な答えとなってしまった。
蟷螂は溜息を吐いて、白雪を優しく撫でながら呟いた。
「ああ、白雪。魔女と呼ばれるまでに生きて魔力を貯めた私でも、お前にかけられた呪いを解いてやることは出来ないのかしら。あの胡蝶は今もお前を食い殺す気でいるのよ。私に勝つためだけに、お前を道連れにするとはっきりそう言ったの。それでも、お前はあの胡蝶のことで心を痛めているというの?」
「……この御家から追い出すだけでいいのです。あの御方が死ぬところを見たくないの。奥様……貴女があの胡蝶の命を奪うところを見たくないの」
感極まった声で訴える白雪を、蟷螂は抱擁する。
「白雪、可哀想に。私だって、胡蝶の一匹や二匹に固執することはない。でもね、あの胡蝶は駄目。恐ろしい力を持っているもの。今さら解放したところで、あの女は私が目を離した隙に、きっとお前を連れ去ってしまうわ」
「貴女の傍を離れたりしません。約束します」
「駄目。お前を守るためには出来ない。あの胡蝶のことは諦めて。これでお前が私を見離すとしても、構わないわ……」
蟷螂の心は揺るがない。他ならぬ自分を守りたい一心で、胡蝶を殺そうというのだ。それほどまでに大切に思ってくれている。
だからこそ、白雪は悲しかった。
――どうしてこんなことに……。
苦しくてたまらない。
蟷螂への恩義と胡蝶への思いの間に、白雪の心は引き裂かれそうだった。
「奥様、わたし、何があっても奥様の傍を離れません。でもどうか、わたしの願いを聞いてください。少しの間でいいのです。あの胡蝶に会わせてください。わたしを殺さぬよう説得してみましょう。それで、もしもあの方が言う事を聞いて下さったら……」
「そんなことはあり得ない」
白雪の必死の頼みを、蟷螂は厳しくはねのけた。
「要求を呑むふりをして、だまし討ちをするでしょう。お前が胡蝶を望むのなら、ほかに連れてきてあげる。もっと愛らしくて、性質の穏やかな子を連れてきてあげるわ。だから、白雪。お願いだから、分かって頂戴」
自分があの胡蝶の生存を望んでいるのは何故だろう。
かたくなな態度の蟷螂を前に、白雪は静かに考え込んだ。
胡蝶との蜜のやり取りがそれほどまでに甘美だったためだろうか。それだけではない。それだけならば、そもそも今までだって胡蝶が囚われるたびに同じ思いをしたはずなのだ。
じゃあ、何故だろう。
情がここまで深くなってしまうほど、あの胡蝶も生かされ過ぎたのだろうか。
――考えても、無駄なことだわ……。
自分を殺そうとする胡蝶の生存を祈る気持ち。その根底にどんな理由が眠っていたとしても、この気持ちは今すぐに吹っ切れるようなものではない。
白雪は認めるしかなかった。
自分はあの胡蝶に、はっきりとした恋慕を抱いているのだと。その恋慕は蟷螂のこの態度と同じかそれ以上に頑ななものであるのだと。
黙ったまま俯いてしまった白雪を、蟷螂は抱きしめ続けた。
「お前を隷属にしてしまいたい」
蟷螂は言った。
「そうすればきっと、お前がこんなにも苦しむことはなくなる。隷属にしてしまえばお前の胡蝶への想いも消え失せ、私だけの為に咲いてくれるだろうから」
「……奥様」
白雪は顔をあげ、じっと蟷螂の目を見つめた。
魔女たる所以のその力を白雪はあまり見たことがない。獲物を捕らえるときに時折見せるらしいけれど、白雪の前ではいつだって優しい女でしかなかった。
それでも、今この場で白雪を見つめる蟷螂の目は、胡蝶の魔性の瞳にも似た不可思議な雰囲気が宿っているようだった。
「奥様……わたし、奥様がそう望むのなら……」
隷属になれば、この苦しみは消えてしまう。
その思いは切実な希望となり、白雪の心を大きく傾けた。
蟷螂の事だけを考えられたらそれでいい。これまで以上に蟷螂のためだけに生きていけるのなら、それでもいい。
――何処か後ろ髪引くようなこの思いもきっと、すぐに忘れてしまえるのよね……。
しかし、その途中で蟷螂の方が目を逸らしてしまった。
「いいえ、やっぱりこんな事をしてはいけないわ。隷属にしてしまえば、お前の命はわたしのものになる。そして、わたしが死んだとき、お前も死んでしまうの」
ため息交じりにそう言って、蟷螂はそのまま翠の壁へと寄り掛かった。
「この月の森では最近、弱い魔女から少しずつ何者かに攫われているようなの。私もいつその立場に落とされるか分かったものではない。相手が何者でもそう簡単に負けるつもりはないけれど、私と同等の魔女たちも少しずつ数が減ってきているもの。自信はないわ。自分の最期を想えば、お前を道連れにしてしまうのは嫌なこと。だから、隷属には出来ないわね……」
「でも、奥様。それではわたし、いつかは一人になってしまいます」
「それが普通の事。いつか、死が私たちを引き裂くでしょう。どんな生き物だって、そういうもの。でも、白雪。生きていれば、新しい幸せを見つけ出せることだってあるわ。私がいつかお前と別れてしまっても、お前を幸せにする新しいものは見つかるはず」
「想像できません。だって、わたし、奥様がいなくなってしまったらと思うと、悲しくてたまりませんもの」
「それは、私も同じよ。だから……だからこそ、あの胡蝶を解放する気になれないの」
蟷螂は震えていた。
これまで沢山の虫たちを震え上がらせてきた蟷螂が、自分が捕らえ、命までも握っているはずの胡蝶に対して怯えを感じているのだ。
白雪はそれを肌で感じ、驚いていた。
「……けれど、今の状況がそんなにお前を苦しめるのなら、私にも考えはあるの」
蟷螂はうつろな表情のままそう言った。
「このまま捕らえ続ければ、あの気丈な胡蝶もいつかは恐怖でどうかなってしまうでしょう。そうなった時に、あれを隷属に出来ないか探ってみましょう。魂ごと妾にしてしまえば、もうお前に危害を加えたりはしないはず。これが私に出来る最大の譲歩。お前を守る一つの方法でもあるわ」
「あの方をどうしても自由には出来ないのですね……」
「白雪。これはそう悪いことではない。お前の気が変わらぬ限り、あの胡蝶とこの場所で暮らせるということ。真の愛が紡ぐ関係ではないでしょう。でも、こうなれば、お前が悲しい思いをすることはもうないはずよ」
「……そう上手くいくものでしょうか。あの方は奥様とわたしを大変恨んでいるよう。たとえ神に近い力を持つ魔法使いであっても、その気のないものを隷属には出来ないのでしょう?」
「ええ、そうね」
短くそう答えながら、蟷螂は身体を横たえる。
「もう寝ましょう、白雪。明日、私があの胡蝶と話をしてみるわ。ひょっとしたらお互いムキになってお話にならないかもしれないけれど……」
「分かりました、奥様」
蟷螂の横で共に眠りながら、白雪は囁くように答えた。
――話し合いがどうか上手くいきますように。
どんな形であれ、それがあの胡蝶にとって光のない結末へとつながることがありませんように。そんなことを祈りながら白雪は、蟷螂の温もりを支えにしながら暗くて不安な眠りの世界へと誘われていった。