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今日も白雪は来なかった。胡蝶は目の前に座らされた花の少年を見つめながら、頭の中にうっすらと白雪の姿を思い浮かべていた。
似ているけれど、違う。違うけれど、似ている。
この少年も白雪や昨日逃がしてやった少女と同じ血を引いている。
その証は白い髪と赤系の光彩。透き通るような肌の雰囲気も一緒で、性別の違いこそあれども、白雪と変わらずこれまでの胡蝶にとって食べ物以外の何物でもなかったはずの者。
それなのに、何故だろう。
これまでのように命を奪おうと思ってみれば、昨日見たばかりの少女の青ざめた表情が頭をよぎり、気が引けるのだ。
――おかしい。どうして。
胡蝶は混乱していた。
昨日、花の少女を枯らそうとしたとき、その変貌に恐れおののいた少女の青ざめた表情が胡蝶にもたらしたものは、欲望ではなく抑制だった。
反射的に胡蝶は少女から口を離し、あの名前を呟いた。
――白雪。
蟷螂がどこかに隠してしまったのは、胡蝶の思惑を察しての事だろう。
だが、今になって胡蝶は白雪の姿を見られないことに寂しさを覚えていたのだ。
――どうしてあの子を恋しがっているの……。
少年を前にしながら、胡蝶の心は白雪にとどまっていた。
何もかも胡蝶は理解できなかった。
あんなに飢えていたはずなのに、何故、少女から口を離して蟷螂に逃がすように頼み込んだのか。何故、目の前にいる少年の姿にも戸惑っているのか。
その答えは白雪にある。
分かってはいるのだが、理解も納得も出来なかった。
「どうしたの、胡蝶。その花の子は蜜を吸われるのを待っているよ」
蟷螂に促されるも、なかなかその気は起きなかった。
「今日はいらない。逃がしてあげて」
顔を背け、そう言った。
蜜を吸いたいという気持ちはある。
飢えていないわけではない。
それでも、気が乗らなかった。
胡蝶は怖かった。目の前の少年が昨日の少女のような表情で自分を見つめてくると思うと、怖くて食欲も失せてしまったのだ。
昨日までは確かに白雪の命を奪う気でいたのに、何故だろう。
――いいえ、これは単なる気の迷い。
胡蝶は自分に言い聞かせた。
今は特殊な状況下。生きるか死ぬかの恐怖のせいで、頭が混乱しているのだろう。
――そうよ、混乱しているの。だって、白雪をなんで恐れなきゃいけないのよ。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
白雪を思い出して食欲がわかないのは、そばにいる蟷螂のせいだろう。
生存への欲求と同じくらい、蟷螂への恐怖が蓄積されていったのかもしれない。
「無理にとは言わない。ただ待ちなさい。落ち着けばお腹も空くでしょう。安心なさいな、胡蝶。お前を食うのはまだ先のことなのだから」
「入らないものは入らないの。これであなたの機嫌を損ねるのなら御勝手に。鎌を降り下ろすようにわたしの命を刈り取るがいいわ」
「胡蝶」
花の少年の真横に座り、蟷螂は胡蝶に手を伸ばす。指先が頬に触れたところで、蟷螂はにやりと笑みを浮かべた。
「切羽詰まっているようね。その通りにしてあげたいのは山々だけれど、今日は生憎空腹ではないの。お前を食べるときは無駄なくいただけるように腹を空かすつもりよ」
しかし、胡蝶も折れなかった。
「そんな脅し、聞き飽きたわ。わたしもあなたがこれまで食い殺してきた哀れな飛蝗や何かと同じなのでしょう。いいわ、せいぜい強者の座について優越感に耽っていなさい。身体と命は奪われても、わたしはただでは負けないわ」
「……白雪のことだね」
冷たく言う蟷螂に向かって、さらに冷たい視線を送りながら、胡蝶は答えた。
「ええ、そうよ。あなたの大切にしているお人形さん。殺される前に全部いただいてやるわ。あなたに残してあげるのは服の切れはしのみ。たとえ失敗したとしても、心を壊して本当のお人形さんのようにしてあげるわ」
「野蛮な虫けらね。花売りの人間どもが害虫と蔑むのもよくわかる。胡蝶、どう吠えようとそうはいかないわ。白雪は渡さない。お前など未来永劫信用しない。白雪の姿は二度と見られぬと思いなさい!」
雷のような蟷螂の怒鳴り声を前に、胡蝶は反抗心と共に苦しいものを感じていた。
何故だろう。
脅し文句には偽りなんてない。蟷螂への仕返しの為に、白雪に手を出そうという思いを消すつもりなんてないはずだった。
それなのに、白雪の存在が遠ざかれば遠ざかるほど、胡蝶は自分でもよくわからない焦りと不安を感じていたのだ。何故だかあの傲慢な眼差しが恋しくなってしまうのだ。
――あんなに腹立たしかったのに、どうして……。
だが、胡蝶は思い直した。
きっとこれは独占欲の一種なのだろう。
羽化して以来、一度食うと決めた獲物を逃したことはあまりない。
花は綺麗なものだ。
可憐で美しく、愛らしいもの。
蜜を吸えば吸うほど、あらゆる欲望が共鳴し、胡蝶を更に残酷にさせていく。
誰にも渡さない。渡したくない。
その思いが自分の心を鬼に変える。
――所詮、胡蝶なんてそういうもの。
恵まれた容姿も、相手の心を縛る魔性も、すべては生きるために備えられたもの。
花を捕らえて食いつくすことこそ、胡蝶として生まれた自分の使命なのだと信じていた。
だからきっとこの切なさも、欲望が解消されずにわだかまりとなっているだけのことなのだろう。白雪を欲する理由なんて、そのくらいしか胡蝶には思いつかなかった。
――ええ、そうよ。そうに違いない。
混乱なのだろう。
そう何度も自分に言い聞かせても、なかなか正気には戻れない。
心も体も苦しい状況で、胡蝶は忌々しさを感じていた。
なんて厄介なことだろう。
――立ち直るには、白雪を食べてしまうしかないのでしょうね……。
「まあ、いいわ。言い争ったって何も変わらない」
俯く胡蝶を見つめ、蟷螂は呟くように言った。
「どうせお前は逃れられないの。諦めて、開き直りなさいな胡蝶。無駄に深く考えずにいれば自ずとお腹も空くでしょう。この花の子はお前に蜜を吸われたがっている。せめて戯れ程度に相手しておやりなさいな」
異様なほど優しくそう言われ、胡蝶の心はさらに揺らいだ。
傍で見つめているのは花の少年。
昨日の少女と同じく、蜜を生み出すようになって間もないだろう。
そんな彼にこの状況を理解する力があるのかどうか、分からない。けれど、分かっていた所で、一度目覚めさせられた蜜吸いへの期待はどうにもならないことだろう。
花はいつだって無力だ。
羽化して以来、ずっと心に確立してきた当たり前のことを再び確認してから、胡蝶は少年を見つめ、目を細めた。
「おいで、花の子」
その一言だけで十分だった。