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◇
蟷螂の魔女に撫でられながら、白雪は小窓として存在する穴より外の様子を眺めていた。
見えるのは、この翠色の隠れ家をふらつく足取りで去っていく自分によく似た少女の後ろ姿。
見送りながら、白雪は驚きを隠せずにいた。
これまで、あの胡蝶は何輪もの花を枯らしてきた。花の悲鳴など彼女には何ももたらさない。
罪悪感も、同情も、花に対しては抱かないものなのだと、白雪はすっかり諦めていた。
それでも胡蝶の魔性がそうさせるのだろう。
実らぬ片想いに苦しむように、あの胡蝶の死を恐れてきたのだ。
「奥様」
蟷螂に寄りかかりながら、白雪は外を眺め続けていた。
存分に蜜を吸われたらしき花の少女は、それでも、はっきりとした意識と共に自由へと帰っていく。
彼女をあんな状態にしたのは、白雪が恋い焦がれる胡蝶。だが、本来ならばもっと酷い姿になっていたはず。辛うじて骨が残るかという姿になるはずだったのに、今もああして美しいまま、成長の機会を与えられている。
「どうしてあの子は殺されずに済んだのでしょうか?」
訊ねてみれば、蟷螂は白雪をより強く抱き締めた。
それは、蟷螂でさえ予想していなかったことだったらしい。
「不気味ね。あの胡蝶なら喜んで食べ尽くすと思って捕まえてきた子なのに……」
「奥様……あの胡蝶のお方に何があったの?」
「なんだろうね。ただ、あの少女の命を吸い尽くす直前で、その恐怖におののく顔を見るなり、胡蝶は何故か青ざめた顔をしてお前の名を呼んだのだよ」
「わたしの名前を……?」
胸がときめくような音がした。
白雪は自分でその感覚に驚いていた。胡蝶が自分の名を呼ぶだけで、何故だか嬉しかったのだ。
表情に浮かびそうになったその喜びを必死に隠して、白雪は蟷螂に肌を重ね続けた。
「あの少女がお前に見えたのかも知れない。でも、不思議なものね。あの胡蝶、あんなにお前を脅していたはずなのに」
「……奥様。わたし、明日はあの人にお会いしてもよろしいでしょうか?」
勇気を出して訊ねてみれば、蟷螂は食べる前の胡蝶を締め付ける時のように、白雪を更にきつく抱き締めてから答えた。
「駄目よ、白雪」
「どうして?」
「餌なら私が探してくる。お前の蜜はまだ溢れるばかりではないわ。もし元のように満ち溢れたとしても、次は別の胡蝶を探してきてあげる」
「……私は、あの方がいいのです」
同胞の少女の姿が見えなくなった頃になって、白雪はようやく自分の心に生まれた感覚の正体をつかんだ。
嫉妬。
あの胡蝶にさんざん弄ばれながらも、最後には食い殺されずに赦された。それが羨ましかったのだ。
蟷螂の圧力なんてないのに、どうしてあの子は赦されたのだろう。
――わたしの名前を呼んでいた……?
それがなんだというのだろう。
あの胡蝶と実際に蜜吸いをし、比較的円満に別れたのは名も知らぬ少女のほう。
そう考えれば考えるほど、羨ましくてたまらなかった。
「白雪……なんで分からないの……」
だが、そんな白雪に爪をたてながら、蟷螂は低い声で言った。
「あれはお前の命を狙っているのよ。隙を見て、私の上位に立つためでしょう。そこにあるのは愛ではない。ああ、それに白雪」
頬に手を当てゆっくりと撫で、蟷螂はその感触を存分に確かめた。
「私だって恐いのよ。胡蝶は悪魔のようなもの。気を抜けば本当にお前を枯らしてしまうでしょうから。あれにお前を奪われるなんて、考えただけで恐ろしいの。だから、分かってちょうだい」
「……奥様」
今までならば、もっと単純に蟷螂のことだけを優先できたというのに、白雪は複雑な思いのなかで悶えていた。
どうしてだろう。
どうして、あの胡蝶に心を縛られたままなのだろう。胡蝶特有のものにしては、異様だった。
白雪が蟷螂に拾われるきっかけとなった胡蝶だって同じ魔術を使っていただろうに、あの時とは全く違った。
蟷螂に食い殺された胡蝶への悼みはそこそこに、あとはすっかり蟷螂への恩義で一杯だった。
蜜など関係なく大切に思ってくれる人。
それだけで一生蟷螂のそばにいようと誓えていたはずだったのに。
――これではまるで、わたしが奥様よりもあの胡蝶に恋しているみたいじゃない……。
そんなわけはない。
白雪はすぐさま思い直した。
この辛さはきっと、蟷螂の手を血で真っ赤に染めた上げたくないからなのだろう。
きっとそうだ。そうに違いない。
嫉妬のような感覚はきっと胡蝶のかけた魔術のせい。
だから、本当の気持ちではない。
必死に自分に言い聞かせなければ、白雪はおかしくなってしまいそうだった。
「もういい。考えるな、白雪」
一人黙したまま悩む白雪を抱きしめながら、蟷螂は語り掛ける。
「その混乱は胡蝶の魔性の与えたもの。このまま直接会わずに此処に隠れていれば、迷いも消えていくだろう。私のなけなしの魔力でお前の心を守ってやろう。だから、今日はもう寝なさい。明日も、明後日も、あの胡蝶の事で早まってはいけないよ」
これまで絶対的守護者だった蟷螂。恩もある彼女に縋り付くように言われ、どうして蔑ろに出来るだろうか。
白雪は静かに頷いた。
――この迷いはただの幻惑。
何度も自分に言い聞かせて。
――恋なんかではないはずよ。
眠りの魔術にかけられながら、気が落ち着くのを待ち続けた。