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 ◆


 次の日、胡蝶に蜜を与えに来たのは見知らぬ花の子だった。

 連れてきたのは蟷螂だ。抗えぬ力に従うしかなかったのだろう。

 花の子は胡蝶の前で震えていた。見た目はまだ幼い。白雪よりずっと幼い少女の姿をしている。親元を巣立って間もないと思われるその姿。それでも、花たちの旅立ちの時期からは少し経つ。蜜吸いはとうに経験していることだろう。


 しかし、胡蝶にとってはどうでもいいことだった。

 慈悲を与えるにはあまりにも余裕がない。囚われ、いつ殺されるかもわからないこの状況下で、胡蝶が感じたのは欲求だった。

 生き残りたいという欲求が胡蝶に命じるのだ。

 すぐ目の前で蟷螂に言われるままに座る花の子はもはや、胡蝶にとって食べ物としか思えなかった。


「分かっているだろうけれどね、胡蝶」


 蟷螂は言った。


「この運の悪い少女は白雪ではない。よく似た血を継いでいるようだが、白雪とは違う。その意味を存分に味わうといい」


 ――言われなくてもそのつもりよ。


 睨みつけながら、胡蝶は思った。


 震えながら周囲を窺うこの花の子は何も分かっていない。

 ただ恐ろしい顔をした蟷螂や胡蝶の様子に怯えているだけ。


 胡蝶にとっても好都合なことだった。

 いつものように心を捉え、まるで守護者のように怯える花を慰めながら蜜を奪い、少しずつ心までも奪っていく。

 そうして花が安心しきったところで、命までも刈り取っていくのだ。


 白雪だってそうするつもりだった。

 蟷螂のせいで全ては防がれてしまったけれど、今だって諦めきっているわけではない。

 胡蝶は求めていたのだ。花の蜜などでは満足しきれない刺激が、薄い色素の肌の下に眠っている。その味のためならば、自分がいかに醜い姿となっていようと構わなかった。


 ――まずはこの子。


 しっかりと食べて、肉をつけるのは蟷螂の望んでいることだろう。

 けれど、体力を温存し、力をつけると考えれば悪いことではない。

 蟷螂は胡蝶をただの獲物だと舐めている。その証拠が、蔓のゆるみだろう。花を枯らしてしまえば、その亡骸を食らいつくすまでの間、蟷螂は白雪に蔓をゆるめるように命じる。

 胡蝶など見張るだけで十分だと思ってのことだろう。


「花の子、その哀れな虫けらに蜜を与えておやりなさい」

「……そうすれば、あたしを解放してくれるの?」


 幼気な様子で名も知らぬ花の子は蟷螂を見上げる。

 自然な愛らしさは防御の一種なのかもしれない。しかし、その力は蟷螂にも胡蝶にも通用するものではないのだと、そう時間も経たないうちに知ることになるだろう。


「さあ、どうだろうね。お行き」


 蟷螂に背を押され、花の子が戸惑っている。

 明確な答えを貰えず、怖がっているのだろう。

 その恐怖を薄れさせるべく、胡蝶もまた甘い声を作った。


「おいで」


 たった一言。

 これだけで、花は自分の言う事を聞く。

 況してや年端も行かぬ少女など容易いものだった。


 糸にでも引っ張られるように、花の少女は胡蝶に近寄っていく。蔓に拘束されながらも妖しげに誘う異質な胡蝶の姿を見つめ、戸惑いを露わにする。

 だが、言葉など要らなかった。

 胡蝶の視線だけで花の少女は望むとおりに動く。操られたように胡蝶の胸に寄り添い、囁くまでもなく蜜を流し込みだす。


 ――焦らずに少しずつ。

 

 胡蝶はしばらくじっとして、少女の好きなようにさせた。


 蜜吸いの際、わざわざ胡蝶が手を出さずとも、花は満足するものである。自分から快楽の深みに入っていき、冷静な判断を奪われてしまうのだ。思う存分好きにさせながら、胡蝶は胡蝶で少しずつこちらから手を出していく。

 花が気づいた時には、もう覆らない状況が出来上がってしまっている。

 この流れこそが、羽化してから蟷螂に捕まるまで、ずっと胡蝶が楽しんできた食事である。蟷螂の監視という気の散るものがあるけれど、それでもこの楽しみだけは色褪せない。


 胡蝶に抱き着きながら、花の少女はわずかに呻いた。

 その声と温もりと、わずかに喉を潤す味を感じながら、胡蝶は動けぬなりに花の少女の耳元で囁いた。


「いい蜜を持っているわね。もっと寄りかかって」

「……うん」


 幼い声で花の少女は頷いた。

 胡蝶を純粋に信じているようだった。世の中の悪意を知るには幼すぎるのだ。


 ――けれどこれも、弱肉強食の掟。


 やっと蜜を生み出すようになれて幼子でさえも、胡蝶というものたちは容赦しないものだ。

 相当気を付けなければ枯らしてしまい、そもそも気を付けることすらしないものも多い。

 胡蝶は後者。

 花を前にすれば、強者である喜びを感じずにはいられない。生き延びた者が偉いこの世界で、罪悪感を抱くような愚かさは自分にはない、と、胡蝶は信じていた。


「温かい……」


 胡蝶にすがりつきながら、花の少女がうっとりと呟いた。

 真っ白な肌と髪、赤みがかった虹彩。

 白雪に何処か似ているのは同じ白い花の一族だから。

 月下美人のような美しい花。月の森ではそう珍しくもなく繁栄しているものだけれど、それにしてもよく似ている気がした。


「震えなんて忘れてしまいそう。胡蝶って温かい生き物なのね……」

「そうね、確かに温かい。でも、もっと温かい場所を知っている?」


 声をかけて瞳を見つめ、束縛されながらも胡蝶は花の子を操った。

 唇を重ねながら、次第に遠慮をなくしていく。


 もう十分様子を見た。

 そろそろいい頃合いのはず。


 胡蝶は目の色を変え、少女から思いっきり蜜を吸いとった。

 すぐに反応はあった。


「だ、ダメ……それ以上は……」


 花の体が小刻みに震え、胡蝶から逃れようと動く。

 そんな彼女を捕らえるべく、胡蝶は魔性の瞳で花の子の顔を見つめようとした。


「やめて……」


 命は貰う。この恵みは有り難くいただく。

 羽化して以来、ずっと変わらなかった欲求と共に花の少女に牙を剥く。

 悲鳴など聞こえはしない。命乞いなど聞こえはしない。獲物に抱くのは命を奪う喜びだけで、罪悪感も慈悲もないはず。

 それなのに。


「白雪……」


 胡蝶が見つめたのは青ざめた花の少女の顔。

 今まで優しく蜜吸いを誘導していた胡蝶の変貌に驚いたのだろう。そんな彼女の青ざめた顔もまた、胡蝶が予想していた通りのものであるはずだった。

 そのうえで、いつものように瞳を縛って操るつもりだったのに。


 それなのに、何故だろう。

 何故だか胡蝶はそのまま蜜吸いをやめてしまった。やめると同時に、あの名前を呟いてしまった。


 ――白雪……。


 怯えた花と戸惑う胡蝶。

 先ほどまでは確かなものであったはずの欲望が、何処へともなく消えてしまっていた。


 ――そんな馬鹿な。だってわたしは……。

 

 白雪の命をいつかは奪う。

 それがこの憎らしい蟷螂への最大の仕返しとなるはず。

 なのに、何故、白雪に似た花の少女に怯えているのだろう。


 胡蝶は混乱した。混乱し続けていた。

 命を奪ってやろうと何度思っても、白雪がいつか見せた自分を憐れむようなあの眼差しが脳裏をちらつき、躊躇いを生む。


 ――どうして花を枯らすのか。


 あの問いが、何度も頭を駆け巡った。


「どうしたんだい、胡蝶。もうお腹いっぱいになったの?」


 蟷螂がついに訊ねてきた。

 少女の視線から逃れるように胡蝶は蟷螂の方へと顔を向ける。


「お願い」


 蔓で動けないまま、胡蝶は必死に訴えた。


「お願い、この子を逃がしてあげて!」


 それは、胡蝶自身もわけが分からないほどの拒絶だった。

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