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月の光の差し込む緑の隠れ家の一室で、白雪は蟷螂の肌に縋りながら、じっとその温もりを味わっていた。
蜜吸いではないこのやり取りが、白雪は好きだった。
蟷螂と共に暮らすようになってしばらく。きっかけは、やはり胡蝶という種族だった。
蜜吸いというものを教えてくれたのも胡蝶。その胡蝶は優しい性格の者であった為、かつての白雪は胡蝶が残酷なものだなんて知らなかった。
それを知ったのは、ある日の蜜吸いで殺されそうになった瞬間。その時に相手をしていた胡蝶はうっとりとした表情を浮かべ、助けを求めながら次第に弱っていく白雪を眺めていた。そんな絶望の状況を一変させたのが蟷螂の魔女。彼女にしてみれば油断した獲物を捕らえただけのことだったかもしれないが、それでも白雪は助かったのだ。
あれから、白雪は蟷螂を慕って傍にいる。白雪という名前も彼女がくれた。彼女は彼女で白雪の事を可愛がってくれた。
だから、白雪は納得しようとしていた。蟷螂として彼女が生きる上で避けられない殺戮があることを受け入れようとし、そして受け入れてきたつもりだった。
しかし、白雪は不思議だった。
自分が囮となって捕まえたあの胡蝶。今も自分の蔓に拘束され、それでも気を強く保ち、白雪への恨みをはっきりと見せてくる彼女。何故だかその姿を見るたびに、死んでほしくないと思ってしまうのだ。特に蟷螂の魔女に食い殺されるところを見たくないと、何故だか思ってしまうのだ。
蟷螂の魔女がなかなか胡蝶を殺そうとしない所為でもあるのかもしれない。飛蝗の娘を捕まえて即日食べてしまったのは、まだ胡蝶が食べるに適さない体つきであるからだと蟷螂は言ったが、それにしては長いと思ってしまうくらい、白雪は日に日に胸が苦しくなった。
延びれば延びるほど、別れは辛くなるもの。
特に花の身である白雪にとって、蜜吸いの相手というものは特殊な存在だった。その上、ほぼ毎日顔を見合わせて蜜のやり取りをするのだから尚更のこと。
蜜を吸われていくたびに、魅了の力に浸るたびに、白雪は自分の心の中で何かよくないものが芽生えてしまっている気がしていた。
「奥様」
それが怖くて、白雪は主人の肌に縋りながら呟いた。
「わたし、あの胡蝶が怖いのです」
この声が別室の胡蝶まで届かぬよう、囁くように彼女は言った。
「彼女の魅了がわたしの心を縛るのです。まるで恋でもしているかのよう。あの人はわたしを殺そうとしたのに、ほぼ毎日蜜を交わせば交わすほど、奇妙な情が生まれてしまって怖いのです」
「蟷螂の私には分からない感情だ。だが、好ましくはないのは確かよ。あれは私の獲物。もう少しでいい体つきになるだろう。その身体を噛みちぎるのを楽しみにしているというのに」
「わたしはどうしたらいいのでしょうか」
「どうもしないことだよ、白雪。わたしの傍でただ咲いていなさい。全てに身を委ね、自分からは動かないでいなさいな」
諭すようにそう言われ、白雪は俯いた。
蟷螂の傍にいるようになってどのくらいの時が経っただろうか。その間に、何度、こうやって嫌でも納得してきただろう。蟷螂は恩人。彼女が生きていくためにも犠牲は仕方のないこと。昨夜、目の前で食い殺された飛蝗の娘のように、これまで沢山の精霊が彼女の命を長らえさせた。
蟷螂が飢えてしまうのは嫌だ。
それなら、あの胡蝶だって同じ。これまで白雪が見捨ててきた精霊たちと何も変わらないはず。いや、彼ら以上にあの胡蝶は危険だろう。白雪を食い殺そうとしたのだから。
――それなのに、どうしてわたしは悲しんでいるの……。
囚われている胡蝶の死を考えただけで白雪の胸は締め付けられた。
なぜかは分からない。しかし、白雪は辛かったのだ。蜜吸いの為に肌を重ねすぎたのだろうか。自分を恨めしそうに睨みつけるあの胡蝶が殺されてしまうのが悲しい。その殺戮を他ならぬ蟷螂がするのだと思うと堪らなくなった。
「お願いがあります、奥様」
意を決して白雪は蟷螂に囁いた。
「何かしら、白雪」
「どうかあの胡蝶を――あの人を食べないでやってくださいませ」
蟷螂は白雪を見つめている。だが、白雪は目を合わせることが出来なかった。
見つめている蟷螂がどんな表情をしているのか、想像するだけで怖い。だから、白雪は見なかった。見ないまま、目を閉じて、必死に願い続けた。
「あの人を解放してはいただけないでしょうか」
「白雪。どうしてあの胡蝶を庇うの? お前のことを食べようとしたというのに。どうしてあれを気にするの?」
「……分かりません。でも辛いのです。あなたがあの人を殺してしまうのだと思うと、悲しくて仕方がなくて」
「ああ、白雪。惑わされては駄目よ。騙されてはいけない。あの胡蝶は魔物のようなものだ。美しい容姿も甘くて狂おしいほど愛らしい仕草も眼差しも、全てお前の命を狙っての事」
「ですが……」
頭で分かろうとしても、気持ちはどうにもならない。
納得できぬまま白雪は蟷螂の胸に縋り付いていた。蜜のやり取りなどない抱擁が温かい。けれど、そんな蟷螂の意に大人しく従うということが出来ないのは何故だろう。
そんな白雪の様子を見つめ、蟷螂は深く溜息を吐いた。
「私は所詮、蟷螂。花の子のお前が望むものを与える力はない。けれど、白雪。蜜を吸う虫なんていくらでもいるじゃない。お前を悦ばせられるのは、何もあの胡蝶だけじゃない」
「けれど――」
「もういい、喋るな。お前が悪いのではない。お前の気持ちも考えずに蜜吸いを許していた私の責任。これからはもうあの胡蝶に蜜を与えないようにしなさい。私が留守にしていても、あの胡蝶に近づかないようになさい。お前の相手は他に探そう」
黙ったままの白雪に対して、蟷螂はやや強い視線を向ける。
「返事をなさい、白雪」
「……分かりました、奥様」
心にわだかまりを抱えたまま、そう答えるしかなかった。