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飛蝗の娘の悲鳴があがって数日。胡蝶はまだ生かされていた。
翌日にはもう、翠の隠れ家もすっかり静けさを取り戻し、何事もなかったかのように美しい雰囲気を取り戻してしまっていた。
飛蝗の娘はきっともう何処にもいないだろう。
結局、亡骸すら目にしなかったその死を悼みつつ、胡蝶はもうその事実を忘れることにした。
死の訪れが延びれば延びるほど、同じような思いをすることはあるだろう。そうしている内に、心は枯れ果て、何もかもどうでもよくなって蟷螂に食われる日を迎えるのかもしれない。
――いいえ、そんなのは嫌。
涙を浮かべつつ、胡蝶は気をしっかりと保った。
飛蝗は死んでしまったかもしれないけれど、自分はまだ生きているのだ。
生かされていると言うべきかもしれないが、希望を捨てることは出来なかった。
胡蝶を生かしているのは、主に白雪の蜜。白雪が体調を崩せば、蟷螂が行きずりの花を連れてくる。男であったり女であったりまちまちだったが、白雪とは違い、彼らを枯らしてしまうことを蟷螂は咎めたりしなかった。
花を枯らせば、一時的に拘束も解け、その亡骸を食べることが出来る。そうすることで、自分を肥らせようとしているのだろう。
――チャンスがあるとすればあの時……。
けれど、そう上手くはいかなかった。
枯れた花の身体を食らい尽くすまで、蟷螂が見張っているからだ。
不審な動きを少しでもすれば、蟷螂はすぐに近づいて牽制する。
どうあっても逃がさないつもりなのだろう。
そう思えばせっかく与えられた花を食べ尽くすのも気が引けたが、胡蝶の食欲は留まらず、残すなどということは出来なかった。
――本当に、どうしようもない……。
この食欲と同じものを、蟷螂は自分に対して抱いている。
囚われた胡蝶は何度もそれを実感し、恐怖と苛立ちを覚えた。
仕返しに何か出来るとすれば、せいぜい白雪のことだろう。
白雪の体調が整い、蜜を吸われにやってくる度に、その肌の感触と蜜を味わいながら、胡蝶は心一杯に黒く燃える欲望の炎を感じていた。
逃げられないのなら、この子を奪ってしまおう。
白雪はただの囮ではない。
蟷螂は本当に彼女を労り、彼女もまた蟷螂を慕っている。
この奇妙な組み合わせの始まりなど胡蝶は知らないし、興味も露ほどないけれど、白雪こそがあの憎々しい蟷螂女の弱点なのだと分かっていた。
「気分は悪くない?」
「今日も最悪よ、白雪」
今日も変わらず縛られている胡蝶を、白雪は子供のように見下ろす。
その表情はいつも通り、憐れみが浮かび、胡蝶の気持ちを逆撫でした。
強い者に守られて、安心しきっている者の視線が憎かった。ずっと下に見ていた花の子にそんな視線を送られるのは悔しかった。
しかし、白雪はどんなに睨まれても胡蝶に触れるのを嫌わず、今日もまた蟷螂に言いつけられた通りに近づいてきた。
弱点であるのに蟷螂がそうさせるのは、蜜吸いが花にとって大事なことだからだ。
蜜を吸われ過ぎても花は枯れるが、貯めすぎることもまた花にとって悪影響を及ぼす。
――絶対にチャンスは巡ってくるわ。覚悟なさい、白雪。
まさに捨て身の覚悟だった。
白雪や蟷螂を見るたびに胡蝶の胸に広がるのは恨み。絶対的捕食者に残酷に食い荒らされるのだとしても、ただで死ぬつもりはなかった。
そんな胡蝶の思惑に気づいているのかいないのか。
白雪は自分が花であることを忘れてしまったかのように、不自由なまま全てを睨みつける胡蝶を憐れむように見つめていたのだった。
「そうでしょうね」
透き通るような声でそう言って、白雪は胡蝶に視線を合わせた。
そっと手を伸ばし、胡蝶の頬に触れる。微かに蜜を沁み込ませ、警戒しながら胡蝶の様子を見つめている。胡蝶もまた白雪を見つめた。逃さないようにその瞳を見つめ、意識を縛り付けるように集中する。いつもやっていたように、花を捕まえるときの胡蝶の妖術を試みた。
――そうやって見下していられるのも今のうちよ……。
縛られていようと関係ない。
蟷螂がすぐ側にいようと、命が枯れ果てるのはいつも一瞬の事。
稲妻のような刹那的な絶頂を与えて、そのまま絶壁から奈落へと落ちるように死をもたらす。これまで何度も胡蝶が花にしてきたことだ。
そのくらい、容易いことなのだ。
だが、その断片を見せるより先に、白雪は言ったのだった。
「あなたの魅了は恐ろしい」
そっと触れるにとどまって、白雪は胡蝶から目を逸らす。
「蜜吸いした相手に今まで何度か枯らされそうになったけれど、あなたはひと際恐ろしかった。けれど、そんなあなたでも、奥様に殺されるのは可哀想」
「わたしを馬鹿にしているの? さぞ滑稽なことでしょうね。いくら憐れんだところで、お前は花でわたしは胡蝶。花に馬鹿にされるなんて、わたしも落ちぶれたものね」
「そうじゃないの、胡蝶。わたしはあなたを見下しているわけじゃない。あなたに食べられる仲間たちも可哀想。そしてあなたも可哀想。仕方ないことだって分かろうとしても、それが見ていて辛いの」
悲しげに言う白雪の姿は胡蝶の心を苛立たせた。
白雪は嘘などついていないだろう。本当に純粋な気持ちで自分を憐れんでいるのだろう。それが逆に胡蝶の怒りを生みだした。
その哀れみが、優しさともいえる温もりが、耐え難いほど身体に沁みたのだ。
「そう。じゃあ、この蔓を今すぐ解いてちょうだい。お前の力でわたしは縛られているのよ。出来る? 出来ないのでしょう? そうよね。わたしが自由になったら、すぐにでもお前を襲って食い殺してやるのだから」
「胡蝶。どうして花を枯らすの? 蜜吸いは相手の命を奪うものじゃないって、かつてわたしに蜜吸いを教えてくれた別の胡蝶は言っていたわ。なのに、何故あなたはわたしを殺そうとしたの?」
「他の胡蝶なんて知らない。わたしはわたしを満足させるためにお前を食べようとしただけよ」
白雪を脅すように胡蝶は言った。
蟷螂の姿はこの場には見えないけれど、すぐ近くにいるのは間違いないだろう。何かあればまたすぐに駆け付け、ともすれば胡蝶に制裁を加えるかもしれない。
それでも、胡蝶は構わなかった。どうあっても結果が一緒なら、我慢などせずに感情を押し出してしまおうと開き直っていたのだ。
しかし、それでも白雪は怖がってくれなかった。
「そんなことしなくたって、蜜さえ吸えばあなたは生きていけるのでしょう? それなのに、何故? 何故、花を枯らして食べてしまうの?」
「そんなの簡単なことよ。その方が美味しいから。美味しいと知ってしまったから。死への恐怖と絶望に震える心身が生み出す最後の蜜の味は至高のもの。その余韻を楽しむために、枯れた体をむさぼるの。化け物だと思われたって構わないわ。今だってお前を食べ損ねて我慢ならないくらいだもの」
「……やっぱりあなたは、何処か奥様に似ている」
嘆くように白雪は呟き、じっと胡蝶の顔を見つめた。
瞳を見れば魅了されるかもしれないというのに、願いを込めるように胡蝶は言ったのだ。
「お願いがあるの。もうわたしを殺したいなんて言わないで。わたしを使って奥様を煽るようなことはやめて。あなたがいい人なら、もしかしたら--奥様が解放していいとお許しくださるかもしれないわ」
「馬鹿ね。蟷螂が解放してくれるわけないでしょう。この間だってあんな――」
言いかけたその先で、胡蝶は言葉を失った。
思い出したくもない飛蝗の娘の声が頭の中で響き渡る。数日前に聞いた悲鳴は、すべて未来の自分の口から飛び出すものかもしれない。そう思うと、恐ろしくて仕方なかった。
だが、白雪は引かなかった。
「奥様は食べると決めた人を何日も生かしたりしないのよ。情が移れば蟷螂だって獲物を食べられなくなる。奥様は時々、そうやって捕まえた獲物を逃がすこともあるのよ」
「だからなに? 希望を持てというの? こんな……こんな状況で、わたしに強くあれとでも? そんな不確かな気まぐれを期待しろとお前は言うの?」
「わたしに手を出さないと約束したら、その期待も大きくなるわ。だから――」
説得を続けるその声が、耳障りだった。
気を抜いたのをいいことに、胡蝶は頬に触れる白雪の手から一気に蜜を吸い取った。途端に小さな悲鳴を上げ、ふらついた白雪を蔓に縛られながらも体で受け止め、触れた肌よりさらに蜜を吸い取っていく。
突如駆け巡った感触に白雪が戸惑いと恍惚を覚えている。その熱りを受け止めながら、胡蝶は妖しげに笑い、自分の膝の上から動けなくなってしまった白雪を眺めた。
「お喋りはこのくらいにして頂戴。お前の役目は蜜を与えることなのでしょう? 無様なこと。蔓の拘束がむなしいくらい、お前は無力のようね。わたしを苛立たせた罪は重いわよ。あの女が気づくのが先か、お前の命が尽きるのが先か、今すぐ試してみましょうか」
「う……うう……」
強制的な蜜吸いに、声を殺して白雪は耐えようとしている。
意識が途切れればこの蔓の拘束も弱まることだろう。胡蝶は集中して白雪を攻め続けた。このまま枯らしたって構わない。この命が自分だけのものになるというのなら、それであの憎い蟷螂女が絶望するというのなら、満足過ぎるほど好ましいことだった。
そんな思いと共に手を抜かずに蜜を吸い続けている内に、少しずつ蔓の力が抜けてきた気がした。
――あと少し。
殺してでも、自由を取り戻す。
そんな思いに駆られていたその時、勝敗を決する声はかかった。
「さて、そろそろ満足しただろう?」
蟷螂だった。
いつの間にか彼女は胡蝶のすぐそばまで来ていた。白雪の蜜を吸い続ける胡蝶の顎を手でつかむと、そのまま力ずくで顔を見上げさせる。
目と目が合ってやや恐れを浮かべる胡蝶を見て、蟷螂は目を細めた。
「私の花を返してもらうよ」
その声には敵意が存分に含まれていた。