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外からの明りが薄暗い翠の隠れ家を幻想的に彩っていた。
神秘的な月の輝きは、夜を優しく照らしている。その穏やかさは深い森のどこかに隠された古い城の中でひっそりと暮らす月の女神の輝きそのものなのだと、月の大地に住む者ならば人も人外も誰しも一度は聞いたことがあった。
白雪。蟷螂の魔女に守られながらひっそりと咲く花の子もまた、そうであった。
月の女神は大地の者すべてを見つめている。どんな生き物も愛し、憐れんでいるのだと、遠き幼い日々に母が言っていたのを今も覚えていた。
――ならば月の女神さまは、この人をどのように見つめているのかしら。
蔓に縛られ身動きの取れない胡蝶を抱きしめながら、白雪は静かに想像を巡らせた。
飢え死にしないよう、肉付きがよくなるよう、蜜を与えるのがここ数日の彼女の役目。今もまた恩義のある蟷螂の魔女の為に、自分を殺そうとした恐ろしい胡蝶を抱きしめて、回復したばかりの蜜を存分に与えていた。
胡蝶は震えながらそれを受け取っている。
初めて会った時にはあれほど強そうにふるまっていたのに、今ではすっかり怯えた様子で白雪の事すら怖がっているようだった。
それが哀れでもあり、可哀想でもあった。
「そんな目で、わたしを見ないで」
白雪の秘めたる思いは表情に出ていたのだろう。
胡蝶は恨めしそうな目で白雪を睨み、蔓に縛られつつも暴れながら怒りをあらわにした。
しかし、白雪は怖くもなかった。蔓の拘束は固いもの。なぜなら、この蔓は白雪の意のままに動くからだ。触れずとも僅かならば胡蝶の思考を狂わす蜜をその身体に注ぐことも出来る。
そう、もはやこの胡蝶は恐れるような存在ではないのだ。
「花の癖に、わたしを憐れまないで……」
あるのはただ哀れみだけ。
胡蝶に触れながら、その温もりを胸いっぱいに感じながら、白雪は蜜を与え続け、動けぬその膝の上にそっと寝そべった。
「憐れまずにはいられないわ」
白雪は静かに言った。
「もうすぐあなたの全ては奥様のものになる。これまで何度も奥様が捕らえた精霊たちの末路をこの目で見てきたわ。あなたもそうなると思えば、憐れまずにはいられない」
「わたしは負けない。ただで殺されてたまるものか。あの女に殺されるのなら、あの女が大事にしているお前も道連れよ」
恐ろしい声で胡蝶は言った。
その強がりの姿勢に気を取られた白雪は、はっと異変に気付いた。触れながら蜜を流し込んでいた量の倍、胡蝶が吸い取り始めたのだ。慌てて離れようにも、沸き起こる快感に支配されてままならない。唇を触れなくとも蜜は吸える。それを利用して、胡蝶が逆襲したのだ。
呻く白雪を眺め、胡蝶は不敵に笑った。
「泣きわめきなさい。お前は所詮、花。縛られていようと、お前を支配するなんて簡単なことなのよ」
縛られた身ながらも胡蝶は自分の膝の上で寝そべる白雪を覗き込んだ。
「わたしの目を見なさい、白雪。花に必要なのは蜜を吸う虫。つまり、わたしのような存在。ねえ、白雪。身をもって分かるでしょう?」
「や……やめて……」
「素直じゃない子ね。やめてと言いながら、ちっとも逃げない。ねえ、白雪。こんな場所でひっそりと咲いて、お前は幸せ?」
「やめて……わたしは……」
「蟷螂なんかの元にいて何になるの? わたしなら、お前の求めることを叶えてあげられる。あの女の元にいては感じられない悦びを、あげられるのよ」
白雪は必死に瞼を閉じた。
胡蝶はやはり恐ろしかった。縛られているからといって花にとって安全なわけではないのだ。その瞳に秘められた魅了の力は絶大的なもので、花である身を嫌というほど思い知らされる。今更瞼を閉じたところで、もはや手遅れなのは分かっていた。こうして膝の上から逃れる気にもならないのがその証拠だ。
――もっと蜜を吸って。
欲望は掻き立てられ、本能が胡蝶の誘いに手を伸ばしている。
その先に待っているものがたとえ死であったとしても、それが分かっていても、白雪にはどうすることも出来なかった。
だが、そんな時、魔術は唐突に途切れたのだった。
「油断も隙も無い」
蟷螂であった。
胡蝶の膝の上で震える白雪を起こしあげ、蟷螂はあっさりとその身体を引きはがす。優しく白雪を撫でながら、じっと胡蝶を睨みつけ、蟷螂は言った。
「見た目にそぐわず胡蝶とは野蛮なものね。それでも、蔓の拘束を緩めなかった白雪の精神力は見事なもの。さて、胡蝶。お前にはもう少し立場を分かってもらわなければならないかしらね」
黙ったまま視線を返す胡蝶のその瞳に、蟷螂は冷たい笑みを浮かべた。
「なんなら、お前に対して私の普段の食事風景を見せてやってもいいのだよ。そうすれば自分がいずれどうなるのかよく分かるだろう? そうしないのは、死にゆくお前への僅かながらの哀れみに過ぎない。だが、お前の態度次第ではその哀れみすら消し去ってやるよ」
「え……」
「飛蝗の娘を捕らえた。好ましい体つきをしていてね。全ての蟷螂を虜にする味をしている。もはや殆ど意識はないだろうが、時折愛らしい表情を見せる子だ。お前の代わりに死ぬのだよ。姿を見たいかい?」
その光景を見守りながら、白雪は感じていた。
蟷螂からは血の臭いが微かにする。
脅しでも何でもなく、ここから見えぬ場所で蟷螂に囚われているのだ。声は聞こえない。気配も感じない。ただ、血の臭いだけが、生臭さだけが、すぐ近くで漂っている。
胡蝶の態度次第では、本当に言葉通りのことをするつもりなのだろう。
胡蝶もそれに気づいたのだろう。
反抗心を失ったのは白雪から見てもすぐに分かった。
今や視線を逸らし、ただ己の膝を見つめている。
自分の代わりに誰かが死ぬ。
そんなことはこの世界ではよくあること。いちいち罪悪感を覚えていては、きりがない。自分でなくてよかったと心のどこかで思いながら、危険から逃げ出すのが精霊の世界の日常なのだ。
しかし、だからこそ見たくなかったのかもしれないと白雪は思った。自由で安全な状況ならば、この胡蝶なら見ていたかもしれない。しかし、そうではないのだ。その飛蝗の娘の姿は、未来の自分の姿だと胡蝶も分かっている。分かっているからこそ、目を逸らすしかなかったのだろう。
白雪は静かに胡蝶を憐れんだ。
大人しくなった胡蝶に対して、蟷螂は言った。
「分かったのならよい。しばらくの間、眠るといい。もう間もなく――これから少しの間、お前が聞きたくもない声が響くだろうから」
そうして、間も置かずに白雪を抱きかかえ、蟷螂は胡蝶一人を置いて視界におさまらぬ何処かへと去っていってしまった。
連れ去られるまで、白雪は胡蝶を見つめた。
胡蝶は目を瞑り、地面を見つめ続けていた。心は無を目指し、何も考えないよう、何も感じないよう、必死に自分に言い聞かせているかのよう。
そんな姿を名残を惜しむように見つめ続け、白雪もまた覚悟を定めた。
蟷螂の魔女が言った通りのことが起こるまでに、そう時間はかからないだろう。その思いが、白雪に妙な緊張感を与えていた。