2
◆
胡蝶は確かに美しい。
残酷で美しく、草花の精霊にとっては抗えない力を持つ存在。
花の子にとっては、絶対的な力を持つ捕食者。
しかし、それは草花に限ってのこと。
月の支配するこの大地で、胡蝶という言葉の示す意味の多くは強さではなく、魅惑とそして幻惑という儚いものであった。
胡蝶はたくさん生まれ、そしてたくさん死ぬ生き物。
卵から孵り、蛹となれるのは半数にも満たず、そこから羽化して大人になれるのもまた少ない。無事に大人になったとしても、自分だけの力で一年以上生き延びることが出来るものもさほどいない。
なぜならその何処かで、彼らは何者かに捕食されてしまうから。
翠に包まれた隠れ家の中で、白い花の子を食い荒らそうとしていた胡蝶の娘は、自らのその立場を思い知ることとなった。
彼女を捕らえているのは虫の精霊。いや、精霊と呼ぶには相応しくないだろう。満ち溢れた魔力はありふれた虫たちと比べられぬほどのもの。そういった者は、魔術師--女性ならば特に魔女と呼ばれるものだった。
ただの虫の魔女ならばまだよかった。しかし、彼女はただの虫でもない。
胡蝶には天敵がたくさんいる。
彼女もその一人。翠を操り溶け込む衣を着たその姿。祈るような姿で獲物の命を刈り取るその女は、間違いなく蟷螂と呼ばれる種族の者だった。
「許して……」
胡蝶は必死に彼女に願った。
「貴女の花だったなんて知らなかったの。お願い、許して。見逃して……」
手足は植物の蔓で縛られている。
蟷螂は逃げ出すことの叶わない胡蝶の真正面に座り、じっくりとその身体を眺めていった。
「同じような悲鳴をあの子もあげていたね。私が来なかったら、お前はあの子を殺していたのでしょう?」
「御免なさい。本当に、御免なさい。もうしないわ。だから、お願い……!」
謝り続ける胡蝶を見つめ、蟷螂は高らかに笑いだした。
「バカな子ね。お前がどんなに悪い子だろうと、いい子だろうと、全く関係ないのよ」
胡蝶はいよいよ絶句した。
彼女だって分かってはいた。蟷螂が何故、胡蝶を捕らえるのか知らないわけではなかった。これまでも幼馴染はどんどん死んでいき、その理由の殆どは蜘蛛なり蟷螂なりに囚われ、食われていったせいだった。
蜜吸いに耽ることのできたこの場所で、何故蟷螂が都合よく現れたのか。
花の蜜などあまり必要としない蟷螂が、花の子を囲っているのは不自然なことなのだ。囲う理由があるのならそれは何故なのか。
縛られ動けない胡蝶を、花の子はそう遠くない場所から見つめている。
外敵もあまりこないこの場所で、蟷螂という絶対的守護者に守られながら、花の子は哀れみを含んだ表情で己を殺そうとした胡蝶の姿を見ていたのだ。
それはまさしく死にゆく者への弔いの目だった。
「いや……」
縛られた身で暴れながら、胡蝶は必死に抗った。
「そんなのいや! お願い、殺さないで! 死にたくないの。死にたくない……!」
「いい声で鳴くことね 」
悲鳴を上げるも、孤独な胡蝶に助けてくれるような他者はいない。
それがよく分かっているだけに、胡蝶の絶望は計り知れないものだった。
しかし、泣き叫ぶ胡蝶に対して、蟷螂はどこまでも冷たい態度だった。むしろ、楽しんでいるように恐れる胡蝶に近づいて、その頬に手を当てる。
「同じように訴えながら、お前に殺された花がどれだけいたのだろうね」
「それは――」
弱肉強食。
弱いものは食われ、強いものもまた力を失えば殺される。そこに正義や悪はなく、誰もが生きるために必死なだけ。
胡蝶はこれまでそれを盾に草花の子たちを虐げてきた。
ならばこれも同じこと。
頭では分かっている。けれど、納得できるはずもなかった。
――これがわたしの終わり方だというの……?
月の女神の支配するこの土地で、古くより繰り返されてきた命のやり取り。
蟷螂によってもたらされる死が、決して安らかなものではないことを胡蝶はよく分かっていた。
覚悟などいくらしても足りない。
そんな胡蝶を更に追いつめるように、蟷螂は蔓で縛ったその体をゆっくりと撫でていった。
「だが、今すぐに食うにはまだ細すぎるね。これでも十分美味しいだろうけれど、せっかく捕まえたんだ。もう少し豊満な体つきとなるのを待ったっていい。ねえ、白雪。お前はどう思う?」
蟷螂の視線を受けて、白雪と呼ばれた花の子は控えめな様子で俯いた。
胡蝶に吸い付くされそうになった蜜は少しずつ回復してはいるが、まだその顔色は優れない。胡蝶から見て、食指を動かされる白い裸体をささやかな白い衣で隠しながら、今もなお囚われる胡蝶を哀れむように見つめていた。
「奥様の御心のままに。この人に死ぬまで蜜を与えよとお命じになるのならば、喜んでこの身を枯らしましょう」
控えめな様子で白雪がそう言うと、蟷螂は笑った。
「お前は本当に真面目な子ね。安心なさい。お前を枯らしたりはしないよ、白雪。お前は無理なくこの者に蜜を与えればいい。蜜が足りないときは私にそういいなさい、いいわね?」
「はい、奥様」
満足げに目を細める蟷螂を見つめ、胡蝶は惚けていた。今すぐに訪れるだろう死を覚悟していた彼女にとって、急に光が射し込んできた。
「じゃあ……わたしはまだ……」
「勘違いするんじゃないよ、胡蝶」
胡蝶の頬を撫でながら、蟷螂は妖しげに言う。
「飽くまでも、お前が食うに相応しい魅力的な身体になるまでの間だ。それまでせいぜい震えているがいい。なんなら、その頃には現実も分からぬくらい、心を壊してやってもいいのだよ」
状況は絶望的なまま。
命の継続は喜ばしいこととも限らない。
蟷螂の食らう獲物の多くは飛蝗の精霊であるらしい。しかし、胡蝶もこのように捕まることは珍しくない。そんなとき、胡蝶が花を捕まえるときに武器となる魅了の力は胡蝶自身に牙を剥き、捕食者を過剰に刺激してしまう。
刺激された蟷螂は恐ろしい。捕らえた獲物の悲鳴を悦び、その温もりが消えてしまうまで散々遊んで食い殺す。
このままただ時が過ぎるだけならば、胡蝶に待っているのはそんな末路だろう。
けれど、胡蝶は思った。
希望はまだあるのだ、と。今此所で食われるわけではないのなら、どうにかしてこの翠の隠れ家から脱出できるかもしれない、と。
――まだ、諦めては駄目。
胡蝶は強く自分に言い聞かせた。
絶対にここから脱出するのだと。