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 夜の世界を彩る様々な輝き。

 窓より見えるそれら美しい景色のすべてを目に納めながら、蟷螂は表情を殺した眼差しと共に深いため息を吐いたのだった。

 手に伝わる温もりは、幾時か前まで確かに此処にいた愛らしい花の子のものではない。

 羽化したばかりの艶やかな肌の感触を確かめながら、それでも蟷螂は窓から目を離さずに無表情のままじっと動かずにいた。


 ――いつの世も、弱者というものは悲しいものだわ。


 甘えてくるように寄り添う胡蝶の匂いを微かに感じながら、薄っすらと感じる血と肉への欲求を押し殺し、蟷螂は尚も窓から見える景色に現を抜かしていた。

 そんな蟷螂の様子に、撫でられ続けていた胡蝶はそっと窺った。


「奥様、どうして悲しそうな御顔をしているのですか?」


 鈴を転がすようなその声が、蟷螂の乾いた心に沁み込んでいく。


「さて、何故かしらね」


 不思議そうに見つめる胡蝶の眼差しを受け止めつつ、蟷螂は目を逸らさずにその肌に指を滑らせる。

 生じるのは微かな食欲。けれど、それだけではない。魔術で結ばれた深い繋がりが、偽りの愛情となって蟷螂の心を少しだけ癒していた。


 ――この娘は永遠に私のもの。


 共に生き、共に死ぬ存在を手に入れた。

 しかし、蟷螂の眼差しは窓の外へと釘付けになったままだった。


 闇と光の入り混じる夜の森の中を、二人の女が歩んでいく。

 異様に白い花を連れ去る美しい悪魔の姿を見つめながら、蟷螂はぼんやりと考えた。


 あの二人を結んだもの、それは魔術などではない。

 恋とは何だろう。愛とは何だろう。

 敗れた者の想いは、何処へやればいいのだろう。


 ぼんやりと、答えも探すことなくただ何度も思い続け、そうしてとうとうやめてしまった。


「……白雪」


 蟷螂は呟いた。


 傍にいるのが当たり前だった花。

 その幸せを心から願った花。


 隷属にしたいと思いながら、そうしなかった愛らしい花の子。

 彼女は攫われてしまった。

 心もろとも攫われてしまった。


 追いかける気すら、奪い返す気すら起こらぬほど、あっけなく連れていかれてしまったのだ。


 ――ああ、白雪……。


 窓の外を見つめたまま涙を流す蟷螂の姿に、傍にいた若い胡蝶は驚いた。


「奥様? どうして泣いているのですか?」


 身を寄せて、窺う胡蝶の温もりを味わいながら、蟷螂は静かに泣き続けた。

 どうしてかしらね、と答えるその声は震えていた。

 若い胡蝶は困惑しながら蟷螂を見つめ続け、その背中を優しくさすりながら微笑みを浮かべた。


「どうかご安心ください。あたしが傍にいます。奥様が寂しくないように、ずっと傍にいます」

 ――ずっと傍に……。


 その姿が白雪と重なる。

 傍にいると約束した彼女は、胡蝶に連れられ行ってしまった。

 それが白雪の選択。止められず、変えられない彼女の意志。蟷螂は少しずつ受け止めて、窓より見える胡蝶と白雪の後姿を見送り続けた。


 寄り添う隷属の娘に縋り、去りゆく者へと思いを馳せる。


 ――白雪。


 愛しい人の名を何度も繰り返し、溺れそうな心苦しさの中でどうにか息を吐くように、蟷螂は自分に言い聞かせたのだった。


 ――でも、これでよかったのよ。


 月の光を浴びて零れ落ちる涙の雫と一緒に、蟷螂は思いの全てを流してしまった。

 手の中に残るのは血の通った人形。

 紡がれているのは偽りの絆。白雪を守りその香りを楽しむ日々は終わってしまった。


 沈黙が蟷螂と若い胡蝶の元に訪れた。

 卵を抱きしめる母親のように、胡蝶は蟷螂の震える身体を温め続けている。自分よりもずっと短い時間しか知らないはずの無知な胡蝶の温もりを、蟷螂は静かに味わっていた。


 これから始まるのは、裏切ることの出来ない人形との新しい日々。


 やがて、隠れ家を去る二人の姿が完全に闇に呑まれてしまうと、蟷螂は窓の外を見るのをやめて、身を寄せる若い胡蝶をぐっと抱き寄せた。


「おいで、私のお人形さん」


 幾度となく精霊たちの血で汚してきたその手で、それでも白雪だけは大切にしてきたその手で、蟷螂は自分だけのものとなった胡蝶を抱きしめて、言い聞かせた。


「これからお前に色々なことを教えてあげる。素敵なことから恐ろしいことまで。たくさんのことを教えてあげる。何を聞きたい?」

「……奥様が泣いている理由をお聞かせください」


 胡蝶の無垢な瞳が蟷螂の心にとどまった。

 すべてを奪っていったあの胡蝶と同じ始祖を持ちながら全く違うその瞳は、疑うことも知らずに蟷螂を見つめている。


「大切な人を送り出してしまったからよ」


 素直に答えれば、また涙は一滴だけ零れ落ちていった。

 若い胡蝶はそっと手を伸ばして、その涙を指ですくいながら、蟷螂に訊ねた。


「お別れを悲しんでいらっしゃるの?」

「ええ、そうね」

「……あたしはその方の代わりになれませんか?」


 抱き着きながら、胡蝶は言った。

 蟷螂の恐ろしささえ知らない胡蝶の想いを受け止めながら、蟷螂は静かに考えた。


 ――この子は白雪の代わりとなるだろうか。


 蟷螂は瞼を閉じた。


 ――いいえ。


 隷属となり、名前まで与えたこの胡蝶は、白雪の代わりになどならないだろう。

 送り出してしまった娘は一人だけ。蟷螂の中に宿っていた確かな恋心は白雪だけのもの。恋敵によって白雪が奪い去られた今、少しずつ塵となって消えていくのだろう。


 それでも、蟷螂は後悔などしてはいなかった。


 白雪の蜜など魔女を眠らせるには弱いものだった。

 止めようと思えばいつでも止められたのだ。

 そうせずにいたのは、思い知ってしまったからだ。白雪とあの恋敵の間に、自分の入る余地など何処にもないということを。


 蟷螂は胡蝶から離れ、その顔をじっと見つめて言った。


「お前は白雪の代わりにはなれないわ」


 不安がる胡蝶の頭を撫でて、その全身に沁み込むようによく通る声で囁いた。


「あの子はあの子。そして、お前はお前なの。あの子の代わりには誰にもなれない。お前も同じよ。これからは新しい日々を送るの。お前と二人で」

「……奥様」


 嬉しそうに甘えてくる胡蝶を抱きしめながら、蟷螂はぼんやりと明日の事を考えた。

 飢えさせることがないように、花を一輪与えよう。


 ――白雪のように、美しい白い花を。


 もはや姿も見えなくなったその面影を、蟷螂は再び窓の外に探した。闇に包まれたまま見えなくなった二人の姿は、何処を探しても見当たらない。

 この広大な月の森の何処かで、二人だけで生きていける新しい家を探しているのだろう。


 蟷螂は静かに去っていった二人の背中へ願いを込めた。


 ――さようなら。どうか幸せにおなり、白雪。


 待ち受けている未来は、きっと暗闇などではないだろう。

 白雪にとっても、そして、蟷螂にとっても。

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