12
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此処まで満ち足りた蜜吸いは初めてだった。
相手の骨すら残さず食い荒らした時には感じないような温かなものが、胡蝶の胸に宿っている。
久しぶりに解放された自由と共に、その自由を与えてくれた白雪の香りと感触を抱きしめながら、胡蝶はその幸福感に浸り続けていた。
――ああ、なんて美味しい蜜だろう。
白雪が自分を求めてくれた。それだけで胡蝶は信じられないほど幸せだった。抱きしめながら余韻に浸り続けていると、ややあってようやく白雪の方が我に返った。
「そろそろ逃げて」
ほんの小声で白雪は言った。
「奥様が起きる前に、此処から逃げて生き延びてほしいの」
「白雪……」
主人の命令にわざわざ背いてまで助けてくれた花の子。
その純粋な眼差しが、胡蝶はたまらなく愛おしかった。
――花なんて食い潰すものだと思っていたのに。
「お願い、急いで」
白雪の焦る声にも、胡蝶の心はちっとも焦らなかった。
理由はただ一つだ。
「貴女はどうするの?」
同じくらいの小声で胡蝶は白雪に訊ねた。
「貴女はこれからも、この場所にいるつもりなの?」
白雪ははっとしたまま押し黙ってしまった。
胡蝶の眼差しの意味が少しわかったのだろう。
しかし、即答はしない。戸惑いを露わにしたまま、胡蝶から離れようと動いた。だが、胡蝶はそれを許さず、白雪の体を抱きしめたまま問い続けた。
「貴女はあの蟷螂を慕っているのね。それでもわたしを恐れずに助けてくれた。きっと何人もの精霊を見殺しにしてきたでしょうに、わたしの事は助けてくれた……どうして?」
「わ……分かりません。ただ、わたしは、貴女が死んでしまうのが耐えられなくて……」
「そう。じゃあ、わたしと蟷螂、どっちが大切?」
「……それは」
白雪は答えられなかった。
ずっと傍にいたのだろう。胡蝶と出会うよりもずっと前から、白雪は蟷螂の傍で咲いて来たのだろう。その思い出は白雪の心を縛り、震え上がらせている。
――この子にとっても、蟷螂は大切な存在。
しかし、そんな戸惑いを吹き消してしまうかのように、胡蝶は白雪に囁いた。
「貴女には覚悟があったの? わたしを解放すれば、何をされるか分からないって」
「……ええ。何があっても構わない。たとえ奥様を傷つけることになっても、貴女の力になりたかったのです」
「たとえ死に攫われたとしても、怖くはなかったというのね」
「それで貴女がわたし達をお許し下さるのなら、どうぞ、わたしを殺してください」
なんて純潔な花だろう。
胡蝶は心から思った。
この蜜をいったいどれだけの精霊が味わってきたかなんて分からない。蟷螂に捕まり、殺された胡蝶やその他の精霊たちにとってみれば、白雪というこの花はまさに死の花、不純の花だっただろう。
――けれど、この心は純白そのもの。
胡蝶は白雪を強く抱きしめて、言った。
「ああ、そんなことしないわ。しないと約束する」
声を押し殺し、蟷螂に聞こえぬように気を付けながら、胡蝶は必死に白雪に囁いた。
「白雪。わたしが求めているのは、謝罪でも、貴女の血肉でもない。わたしが欲しいのは、貴女そのもの。ずっと大切にするわ。嘘なんかじゃない。貴女がのびのびと咲けるように、わたしが守ってあげる」
息を飲み、白雪が緊張を深める。
心の中にあるのは、蟷螂への罪悪感なのだろうか。
「わたしは……わたしは……」
狼狽えながら、白雪は繰り返す。
胡蝶はそんな白雪の目をじっと見つめたていた。しかし、魅惑の力は一切使わないように努めた。魔性では捕らえられない心そのものが、胡蝶は欲しかったのだ。
「選べなんて残酷なことは言わないわ」
胡蝶は言った。
「わたしを恨み続けたっていい」
手を離す選択肢なんて何処にもなかった。
「でも、わたしは諦めない。せっかくの機会を逃したりしない。おいで、白雪。わたしを助けたが最期。もう二度と放さない。貴女の全てを貰っていくわ」
白雪はどうせ選べない。
胡蝶は分かっていた。
蟷螂ならば選ばせるのだろう。しかし、胡蝶は待てなかった。白雪の心が定まるより先に、全てをかすめ取ってしまいたかった。
――所詮、わたしは害虫。
ただ命を脅かさなくなっただけ。
一目会えればそれでいいという思いは胡蝶の中よりすでにもう消えていた。あるのは欲望ばかり。白雪と離れたくないという思いばかりが残り、満ち溢れた蜜吸いの感覚さえも霞ませてしまう。
そんな胡蝶に手を掴まれ、白雪は戸惑いながら見上げていた。逃げるのだろうか、怖がるのだろうか。胡蝶は怖れと共にその眼差しを受け止め、そのまま手を引っ張った。
白雪は抵抗しなかった。胡蝶に手を引かれるまま、音も立てずに歩みだす。
それがすべてだった。
言葉も交わさず二人は歩んだ。
白雪は時折振り返る。美しいその見た目の魔女の家は、一体どれだけの血を流してきたのだろう。
その絶望から抜け出し、一輪の花までをも盗んだ胡蝶は、眠り続けているだろう魔女の目の届かない場所を目指して、ひたすら前へと歩き続けていた。
名残を惜しむように何度も振り返る白雪を強く引き寄せながら、その心が離れぬようにしっかりと手を握りながら、決して安全なわけではない美しく広い森の中へ、より深い闇の中へ、胡蝶は足を踏み入れていく。
――待っている未来は光か闇か。
不安と期待が入り混じる中、ただ一つ生存と勝利の喜びだけを味わいながら、最後に一度だけ胡蝶は自らも振り返り、別れの想いを込めて一瞥をくれた。
死を与えようとしてきたその場所――翠色の隠れ家へ。




