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「もう待てない」


 月光の弱い夜、蟷螂はついに白雪に言った。ここ数日、蟷螂は何故か獲物を連れ帰らなかった。確かに血の臭いはするのに、その姿は隠れ家に現れない。何か理由があるのか、いまだ白雪は聞かされていなかった。


「明日までが限界かしらね。それ以上は待てない」

「では、わたしが囮になります。この蜜と蔓で新しい虫を捕らえましょう」

「いいえ、食べるのはあの子。今も死を待っている哀れな胡蝶よ」

「あの方を……」


 頭が真っ白になった。

 ついにこの時が来てしまった。

 いつかは来ると分かっていたつもりでも、いざ、宣言されれば視界が歪むほどの衝撃が白雪の心に走ったのだった。

 

「どうしても、あの方の命を……」

「ここ数日考えてきた。だが、やはりあれは隷属になるのを嫌がっている。それだけ我が強いのだろう。嫌がるものを無理に隷属とすることなど、神であっても出来ないのよ」

「どうしても、駄目なの? ああ、それでも奥様、まだ待てるはずです。奥様からは今日も血の臭いを感じました。お腹が空いて仕方がないわけではないのでしょう?」


 何も食べていないというわけではないだろう。

 外出し、帰ってきた蟷螂は時折血の臭いをまとわせていた。外で腹を満たしている以上、あの胡蝶にこだわる必要なんてないはずだ。

 白雪は動揺を露にしたまま、蟷螂にすがり付いた。


「そうね。でも、もう待てない。私の心が待てないのよ。白雪、あの胡蝶のことは忘れなさい。お前には新しい胡蝶をあげる。私の正体も分からない、羽化したばかりの若い子よ。お前が嗅いだこの血の臭いはその子のもの。けれど、殺してはいない」

「もしかして……隷属にしたのですか?」

「ええ。すでに名前も与えている。我が家の近くに隠してあるの。此処に囚われているあの胡蝶を見たら怖がるだろうから……」


 ――奥様……。


 遠くを見つめる蟷螂の眼差しを見て、白雪は少し切なくなった。

 主従の契約に縛られるのは支配される側だけではない。主人となった者もまた、その心を隷属に奪われてしまうのだろう。

 そう納得せざるを得ないものを、白雪は蟷螂の表情から読み取っていた。


 既にここには白雪では介入できない絆がある。白雪の幸せを願ってこそ、安易に隷属にできないと蟷螂は言っていたが、白雪にとってその思いやりは寂しいことでもあった。


「近いうちに新しい胡蝶をお前に会わせる。お前が蜜吸いを教えておやりなさい」

「……はい」


 力なく返事をする白雪に、蟷螂は手を差しのべた。白く透き通るような髪を撫で、浮かない表情を眺め続けた。その表情はなぜか切なげなもので、白雪から見ても弱々しく感じるほどだった。

 たった一度だけ、蟷螂は白雪の体を優しく抱きしめると、ため息交じりに言った。


「今日は疲れたから、もう寝るわ。お前も早く寝なさい」

「……はい、奥様」

「お休み、白雪」

「お休みなさい……奥様」


 手を握りながら、白雪は蟷螂の眠りを見守った。

 普段は蜜を吸わぬ虫も、蜜の魔性には囚われるもの。むしろ胡蝶などよりも、蜜への耐性は弱いはずだった。蜜になれていなければいないほど、ほんの少し与えるだけで酒に酔うケモノのように眠りへと誘われていく。

 蟷螂もまたすっかり白雪の蜜に囚われていた。微かな物音ではそう簡単には目覚めないことだろう。


 ――ごめんなさい、奥様。


 毒にはならないはずだと信じて、白雪は蟷螂の手をそっと放した。

 もしも自分が隷属だったなら、こんなことは出来なかっただろう。少し前なら思いつきもしなかった。

 目覚めた時に胡蝶がいなくなっていたら、蟷螂は怒るだろう。それでも明日の言い訳など思いつかないまま、白雪は足早に囚われた胡蝶の元へと走った。


 弱い月光も暗闇を優しく照らす。

 囚われ、絶望の淵にいる胡蝶の姿も照らしていた。

 白雪がそんな彼女の前へと現れてみれば、胡蝶はしばし呆然とその顔を見上げた。やがて、よどんだ瞳を揺らがせて、胡蝶はぽつりと呟いた。


「白雪……?」


 久しぶりに見るその姿は、白雪にとってより一層美しいものに思えた。

 顔色がすっかり青ざめているのは、日に日に自分の死を実感していたからだろう。しかし、そんな胡蝶も、目の前にいる白雪が幻ではないと分かるや否や、その両目よりぽろぽろと涙を流した。


「白雪……ああ、白雪」


 そこにはいつか見た恐ろしい胡蝶など何処にもいなかった。


 ――やっぱりこの人には死んでほしくない。


 蔓の拘束を解くことに恐怖などなかった。蟷螂が言っていたように殺されたとしても、見殺しにしてしまうよりもずっといい。

 心に苦しいものを抱えて生きていくよりも、後悔のない選択をして死んだ方がましだと白雪は思っていたのだ。

 たとえそれが、命の恩人を傷つけるようなことであったとしても、


 ――ごめんなさい、奥様。


 涙を流しながら、白雪は心より詫びた。


「今のうちよ。逃げるなら逃げて」


 ――このまま襲われたとしても、仕方のないこと。


 しかし、白雪の覚悟に反して、解放された胡蝶は呆然と白雪を見上げたまますぐには動かなかった。白雪の顔を穴があくほど見つめてから、震えた声で呟いたのだった。


「蟷螂が言っていたのは本当だったのね」


 白雪に手を伸ばし、胡蝶は言った。


「白雪。御免なさい。今まで御免なさい。貴女を見下していた。貴女を疑っていた。本気で枯らしてしまおうと思っていたのよ。化け物のわたしを怖がらないでくれる貴女を、わたしの方が見下していた……」

「謝らなくていいの。逃げるなら急いで。奥様は『もう待てない』と言っていたの。蜜で眠っているはずだけれど、起きてしまったら――」

「白雪」


 たった一言。

 焦り気味に胡蝶を急かす白雪でも、その一言の眼差しで黙ってしまった。導かれるままに近寄れば、胡蝶は白雪の唇を奪い、戯れ程度の蜜を奪っていく。

 そのまま蜜吸いへと囚われてしまうより先に、白雪はどうにか唇を離して胡蝶に言った。


「……駄目。今は……奥様が起きてしまうわ」

「殺されても構わない。ずっと貴女を待っていたの。会いたかったわ、白雪」


 胡蝶の甘い囁きなど、物珍しいものでもない。

 それでも、白雪はその言葉に囚われてしまった。出会った時のような妖しげなものではなく、蟷螂が夜な夜な見せてくれたような、ただ純粋な愛を感じる言葉だったのだ。

 それが本心なのか、策略なのか、考える余裕など白雪にはなかった。


 ただ嬉しかった。

 胡蝶が自分に会いたかったと言っただけで、嬉しかった。


「わたしも……」


 胡蝶に身を委ね、白雪は小声で囁いた。


「わたしも、会いたかった」


 素直な気持ちが口から漏れだした途端、白雪の両目からは僅かながらも涙がこぼれていった。

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