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「今、なんて仰った?」
白雪の蔓の力で無様に縛られながらも、胡蝶は激しい敵意を宿した眼差しで、目の前に立ち尽くして此方を見下ろしている蟷螂の婦人の姿を睨みつけていた。
死の宣告でもしに来たかと思ったのに、一体、何の気まぐれだというのだろう。
蟷螂は胡蝶に言ったのだ。場合によっては赦してやってもいいのだと。食い殺すこともなく、蔓を解いてやろうといきなり言い出したのだ。
ただし、一つの条件を付けて。
「隷属ですって? このわたしを貴女の隷属にですって?」
魔女が隷属を持つことは、この胡蝶も知っていた。
だが、胡蝶はこれまで隷属という存在を軽蔑してきた。命欲しさに自分の尊厳を安くで売ってしまった恥知らずの存在。一年以上ならともかく、二年、三年と生き延びる胡蝶の殆どは隷属となった者たちだと知っていたが、魂を売ってまでそんな身分になるのは嫌だった。
隷属とは奴隷の事。
それも、ただの奴隷ではない。
心を縛られ、逆らうようなことすら考えられなくなってしまう。
特に、蟷螂や蜘蛛のような肉食者の隷属となった胡蝶は哀れなものだと彼女は知っていた。決して殺されることはないが、だからといって大切にされているとも思えない。生餌として生殺しにされながら、喜んでその血肉を主人に捧げている者ばかりだと聞いていたからだ。
「隷属になるのなら、名前も与えよう。白雪に危害を加えることもなくなろう。隷属なりに大切にしてやると約束する」
「一体、どういうつもりなの? 何を企んでいるの?」
「企んでなんかいないわ。ただ、私は白雪を悲しませたくないだけ。白雪の頼みでもあるのよ。お前を殺さないでほしいと」
「白雪が……」
その名が胡蝶の頭の中で響く。
この身を食おうと頑なだった蟷螂を説き伏せてしまったというのだろうか。
――まさか、そんな。どうして……。
あんなに脅してきたのに、殺そうとしてきたのに、どうして彼女は自分を庇ったりするのだろうか。蟷螂に可愛がられているというのに、どうして。
胡蝶が戸惑いを露わにすると、蟷螂は深く溜息を吐いた。
――わたしをバカにしていたのでは、なかったというの?
「お前がその気にならなければ、隷属には出来ない。お前はどうしたい? 死ぬのは嫌だと言っていたね。私に食われる未来と、隷属になる未来。どちらがお前の望む未来かしら」
「どちらも……お断りよ。だって、隷属になったら……」
隷属になれば、心はすべて主人のものになってしまう。
食い殺されたとしても、心だけは負けたくなかった胡蝶にとって、この救済は尊厳のかかったものでもあった。
だが、それだけではない。胡蝶は自分の心に浮かんだものが気になっていたのだ。白雪が自分を助けようとしてくれている。そのことを知った途端、命の危機とは全く違う不穏が、彼女の胸に広がっていったのだ。
「白雪……」
胡蝶は再びその名を呟いた。
ここしばらく、胡蝶は自分のおかしさに混乱していた。
花の子を二人も逃がしたのは何故だろう。命を奪おうと思っても、白雪を思い出して怯えが生じる。きっと白雪への独占欲のせいだと思ったが、どうも違うような気もしていた。
「ねえ、白雪はどうしているの?」
胡蝶はついに訊ねた。
心を揺るがす白雪への想い。これは、独占欲でも何でもない。もっと別の何かではないのだろうか。たとえば、恋のような。
「お前に話す気はないわ」
「……白雪に会わせて欲しいの。顔を見たいの。それだけでいいから」
「出来ない。連れてくればお前は、白雪を枯らしてしまうでしょうから」
「枯らしたりしないわ。約束よ。もし破って蜜でも吸ったりしたら、その場で殺されたっていい。不安なら近づけなければいいじゃない。白雪に会わせて」
「何故、彼女を求めるの。信用されると思っているの?」
「……会いたいの。それだけよ」
胡蝶は自分でも分からないまま、蟷螂に訴えた。
「こんな気持ちは初めてなの。花に対して、こんな気持ちを抱くなんて。貴女の花だっていうのは分かっている。でも、どうしてかしら。会えなければ会えないほど、あの眼差しが恋しく思えてくるの」
「胡蝶……お前……」
驚きを隠せない様子で蟷螂は力なく俯く胡蝶の姿を見つめた。
しかし、すぐに冷静さを取り戻し、蟷螂は胡蝶を睨み付けた。
「いいえ、騙されないわ。お前は、はっきりと言ったわね。あの子を道連れにすると」
「……そうね」
「お前がこれまでこの隠れ家で殺してきた花の子がどれだけ居た? 枯れていく花を前にお前はどんな顔をしていたと思う?」
「……きっと、たくさんの精霊を貪ってきた貴女から見ても、化け物のようだったでしょうね」
皮肉を交えて答えてみるも、蟷螂の眼差しはあまり変わらなかった。
「お前と私は同じ」
蟷螂は言った。
「相手が花であるか、虫であるかの違いだけ。けれど、お前の抱く白雪への想いなど、私の持つものとは違うはず。お前が感じているのは、白雪自身ではなく白雪の生み出す蜜への欲望なのでしょう」
「……否定はしないわ。貴女さえ許してくれるのなら、今だって白雪の蜜が欲しい。でも――」
正直に言ってから、胡蝶は必死に蟷螂へと訴えた。
「でも、これだけは信じて欲しいの! 白雪を枯らしたりしない。枯らさないように注意する」
「駄目。信用出来ないわ。お前は欲望に弱い胡蝶。蜜を吸ううちに、我を忘れて白雪を食いつくしてしまうでしょうね」
「じゃあ、せめて会わせて! 蜜を吸えないのでも、顔を見るだけでも……!」
「見せれば白雪はお前の魔性に囚われ、自ら近寄ってしまうだろう。……けれど、どうしても会いたいというのなら、隷属におなり」
結局、そうなのかと胡蝶は俯いた。
「魔術に縛られれば、私の抱くお前への欲望も変じるだろう。隷属は主人を裏切らない。お前を信じることも出来る。悪いことではないはずよ」
「けれど、隷属になれば、今のわたしの気持ちは消えてしまうのでしょう……」
「白雪への想いそのものは消えないでしょうよ。ただ、隷属になれば、白雪の為だけに生きることは出来ないわね。白雪が私のもとを去ったとしても、お前は追いかけることが出来ない。追いかける気持ちも薄れるだろうね。どんなに主人を憎んでも、主人の傍を離れれば不安になる。それが魔女の隷属なのよ」
「……そんなのは嫌。わたしはわたしとして、白雪ときちんと話をしたいの。それが叶わないのなら、死んだ方がまし。心を奪われるくらいなら、命を奪われた方がましよ」
「バカな子」
ため息混じりに蟷螂は言い、胡蝶に近寄ってその頬へと触れた。
血塗られたその指が、胡蝶の肌を確かめるようになぞっていく。
「せっかくの機会なのよ。いつまでも待ってはあげられない。私だって欲望には逆らえない。お前の身体はとっくに食べ頃を迎えているのよ。今ある食料が尽きれば、次こそはお前の番。そうなってしまえば、もう見逃せない。白雪を悲しませることになっても、嫌われることになっても、お前を潰して飢えをしのぐわ」
ひどく寒気のする愛撫が動けないままの胡蝶にもたらされた。
蟷螂にあるのは白雪への想いだけ。白雪を悲しませたくないという思いだけで、自分に生存の道を与えようとしてきたに過ぎない。
そんなことを思い知らされながら、胡蝶は震えていた。
――それでも、この気持ちだけはそう簡単には変えられない。
魔女の隷属を見下していた所為だけじゃない。
隷属になれば本当の自分は消えてしまうのだと知っていたからこそ、胡蝶はどうしてもその誘いに手を伸ばせなかった。
「一目でいいの」
顔を覗き込んでくる蟷螂に対して、胡蝶はただただ訴えた。
「少しの間だけでいい。白雪と話をしたいの。自分の気持ちを確かめてみたい。その後なら、隷属になるわ。あなたに食べられたっていい」
「譲れないわ、胡蝶。隷属でないお前を白雪には会わせられない」
「お願い、お願いです。不安ならあなたが白雪の手を握っていればいいじゃない。どうして……どうして分かってくれないのよ!」
相手がどんなに恐ろしい蟷螂であっても、胡蝶はもはや感情を抑えられなかった。
無様に泣きわめくこともまた胡蝶にとって、尊厳を傷つけるもの。それでも、溢れだした感情は抑えきれず、胡蝶は涙を流し続けた。
これが月の大地の掟。精霊の世界は弱肉強食。
弱者はむなしく強者に虐げられるのみ。
支配者たる月がどんなに憐れんだところで、死にゆく弱者は救われないだろう。強者もまたいつかは弱者として消え去っていくのだから。
――分かっている。
胡蝶は泣きながら心の中で喚いた。
――蟷螂に捕まった以上、どうしようもないのだって分かっているわ。
生き延びたいのなら隷属になり、尊厳を守るのなら殺されるしかないのだろう。
なんとしてでも生き延びる。そう思っていたはずなのに、いざ、白雪への想いが募れば、その足も留まってしまうのだ。
「今更……なんだっていうのよ」
泣き続ける胡蝶を見つめ、蟷螂がぼそりと呟いた。
「お前も、白雪も、今更なんだっていうのよ」
苛立ちを含むその姿は、胡蝶にとって絶望的なほど力のある蟷螂とは思えないほど、弱々しく感じるものであった。




