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 月の女神の支配する大地では、数多の精霊が美しくも残酷な食い合いをしながら暮らしていた。

 精霊たちの多くは草花や虫の化身であり、中でも胡蝶と呼ばれる蝶の精霊は魅惑的な美しさを誇っていた。胡蝶は美しく恐ろしい。多くの花たちにとって、彼らは絶対的な魅力を備えた悪魔のような捕食者である。


 そんな胡蝶の娘の一人が、今日もか弱き花の子を捕まえていた。

 辺りは翠の葉に包まれた隠れ家。

 外からは覗けないその場所で、一人隠れていたその真っ白な花の娘が醸し出す甘い香りを、胡蝶は見逃さなかった。


 白い花は月の花。この大地において、月の神力が確かなものであると象徴する尊き存在。けれど、そのように花を愛でるのは人間だけ。胡蝶にとって彼女たちは美味しい蜜を秘めた絶好の獲物でしかない。

 胡蝶は残酷な存在。世間知らずの少女ならまだしも、すでに成長してしばらく経ち大人へと近づきつつある花の子もまた、胡蝶というものがどんな性格をしているのかはよく分かっていた。


「おいで」


 それでも、手を伸ばし妖しげに微笑む胡蝶の囁きに、花の子は逆らえなかった。

 胡蝶が誘うのは蜜吸い。花の子の秘める蜜という目に見えない精気のようなものは、胡蝶にとって生きていくうえで欠かせない栄養であり、また花にとっても子孫を残すうえで重要な対価であった。

 花の子は知っていた。

 蜜吸いは耽美なもの。花にとって決して不快なものではなく、むしろその逆。

 しかし、危険なことでもある。何故なら胡蝶の食欲は旺盛なもので、時に花の精霊が秘めるすべての蜜を吸い尽くしてしまうこともあったからだ。蜜を吸い尽くされれば、その花は枯れてしまう。枯れてしまうことはすなわち、死んでしまう事。


 蜜吸いに身をゆだねた花の生命は、胡蝶の手にゆだねられる。

 心優しい胡蝶であるならば、花を枯らさないように気を付けながら蜜を吸うだろう。

 さて、この胡蝶はどうなのか。


「さあ、怖がらないで」

 ――ああ……。


 どうであったとしても、花の子は逆らえなかった。

 手招かれるままに歩み、その真っ白な手を胡蝶の手にゆだねる。手を掴まれた時から蜜吸いは始まっていた。肌を通して蜜は吸われ身体の力は抜けてしまう。

 花の子が倒れれば、全ては胡蝶の思惑通り。唇から、素肌から、胡蝶は花の子の蜜を吸い取っていった。恐怖は薄れ、快感だけが花の子を包み込む。

 だが、そんな恍惚としたときは長くは続かなかった。


「ねえ……」


 胡蝶に身を委ねてしばらくすれば、息の詰まる感覚が生じ、快感すらも薄れていった。


「もうやめて、もう……」


 蜜が尽きてきている。

 花の子は本能的に危険を感じた。これ以上吸われれば枯れてしまう。死への恐怖が次第に鮮明となっていくのを感じて、恐れおののいた。

 しかし、その花の子の恐怖を掻き立てるように、胡蝶は細い指をその背中に沿わせていく。


「駄目」


 甘い言葉を囁くように、胡蝶は花の子の耳元で言った。


「わたしに捕まったお前がいけないの。もう離さない。わたしの手の中で枯れなさい。命の消えたこの身体は残さず食べてあげるから」

「そんな……」


 戯言でもなく、怖がらせようという冗談でもない。

 息切れする花の子の背に触れながら、今も蜜を吸い続けているのがその証拠だった。

 視界すらも曇る中、花の子は恐怖と共に思い出した。


 胡蝶は恐ろしい。彼らが栄養とするのは花の蜜だけではない。草花の精霊の血肉もまた、胡蝶の一部には好まれる。多くは命を奪うほどではないけれど、時には最初から命を奪うために草花の子に近づくこともある。


「お願い、やめて。命だけは……命だけは助けて」


 花の子は必死に願った。

 胡蝶に縋り付き、泣きながら懇願した。

 けれど、胡蝶の気は変わらなかった。薄っすらと笑みを浮かべ、花の子の恐怖をさらに駆り立てるように囁いた。


「いい声。もっと聞かせて」


 泣き出す花の子の頬に手を当て、じっとその瞳を覗き込む。


「悪いけれど、こればかりは譲れない。だって、こんな光景、腐るほど見てきたのだもの。だから――」


 花の子にとって絶対的な捕食者。

 恐ろしくも美しい胡蝶の姿が目の前にある。

 逃れることも出来ないまま、絶望するしかない花の子にとって、それはあまりにも残酷な現実であった。


「諦めなさい。お前の全てはわたしが貰ってあげるから」


 そう言って胡蝶は花の子に口づけをする。

 涙と共に瞼を閉じて、花の子はじっとそれを受け入れた。

 最後の慰め。死にゆくものへの別れのキス。始終優位に立っていた胡蝶にとって、この場はすっかり自分のものであった。

 しかし――。


 胡蝶の体が大きく震えた。

 花の子が目を開けてみれば、動揺を露わにした胡蝶の大きな瞳が見えた。震えているのは胡蝶の方。花の子を見つめてはいるが、その意識は全く別の方向にある。

 花の子の視界に映るのは女の腕。それは胡蝶の背後より伸びていた。

 誰かが胡蝶の背後にいる。この場にいるのは胡蝶と花の子の二人だけではない。


「あ……ああ……」


 震える胡蝶の口から漏れるのは、言葉にならぬ声。

 女の腕はしっかりと胡蝶を捕まえ、力強く花の子からその身体を引き離してしまった。

 この場を支配していたのは誰なのか。絶望に震えるのは胡蝶の方だった。花の子はそんな胡蝶を見つめ、更にその腕の主へと視線を送った。


「諦めなさい」


 低い声で彼女は胡蝶に対して言った。


「お前の全ては私が貰ってあげるから」

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