第九話 勇者 VS 魔界の勇者
眼前に切り立つ崖を見上げる魔王の視線の先。光輝く粒子をまとい、現れたのは紛れもなく勇者その人だった。
「見つけたぞ魔王…。こんなところにいたとはなあ…!」
左の口角を釣り上げてニヤリとしながら、背中の剣を引き抜く勇者。それは戦闘開始の合図。とっさに魔王も自分を捕まえていたアルメダとムエッサイムをふりほどき、同時に魔力衝撃波を放って彼らを安全なところまで吹き飛ばすと、右手にすべてを焼き尽くす暗黒の炎を灯して、迎撃態勢をとる。
「勇者、貴様なぜここが分かったのだ!?」
「匂いだ」
「匂い?」
「そうだ。お前の魔力は甘ったるい匂いがすんだよ。なんつーかこう、マシュマロみたいな?」
「だれがマシュマロ系魔女子だって!? 余はそんな食いしん坊じゃないぞ!」
「ちげーよ。そーゆー意味じゃなくって…」
そこまでのセリフを聞いて、瞬きをした刹那。勇者の姿はもはや崖の上にはなく。そのかわり、かぶっている魔王フードごしに感じる熱い吐息。
「いい匂いだ、つってんだよ、バーカ」
「ぅなっ!?」
耳のすぐ横でささやく言葉。それに対して驚く心と、意味を理解しようとする脳が拮抗してワンテンポ反応が遅れるが、それでもすぐに状況を把握するために首を声のほうに向ける。はたしてそこには、勇者の姿が。だが、近い。あまりにも近いから。二人の鼻の頭同士がぴとんと触れ合ってしまった。敵とはいえ、こんなに近くに異性の顔を見るのは初めてのうぶな魔王は、恥ずかしさのあまり、カチンコチンに固まってしまった。
「わ、あ、あぁ…」
そんな魔王にお構いなしに、勇者は触れ合っている鼻先をなぞるようにさらに顔を近づけてきた。すぐそばに感じる吐息と、ゼロ距離の肌の温もり。今日の勇者はなんだかやけに積極的だ。一方、魔王は黙りこくってしまった。
「逃げねーの?」
って言われたって、身体が動いてくれないのだからどうしょうもない。
「…じゃあもしかして…」
「え?」
言うが早いか、剣を持たない左手を魔王の細いウエストに回し、ぐっと引き寄せる勇者。腰と腰が、密着する。
「KISS、してーのか?」
「ええ~~~!?」
パニックを起こしかけた魔王は、攻撃するのも忘れ、勇者の胸板を手で押して、その反発を使って逃げようとした。だが。
「逃がさねーよ」
勇者のもはや人外ともいうべき腕力が魔王を掴んで離さない。そのうえもう一方の手で頭をホールドされ、もはや顔を背けることもできない。おかしい。今まではたとえ魔王が戦闘でボコられて這いつくばっているときでも、正義を気取ってかこんなことをする奴ではなかったのに。それどころかいやらしいことをしようとする彼の仲間の戦士を止めさえしたのに。それなのに。じわじわと迫る唇。あと1センチ、…3ミリ、…1ミリ。もう、ダメだ。零れ落ちる涙ひとすじ。滴って、地面の上ではじけて、染み込んでいく。
その瞬間、魔王の瞳に映った勇者の顔は、右から左にぐしゃあとひしゃげ、ものすごい勢いで視界の外に吹っ飛んでいった。目の前に残ったのは、右から伸びる、固く握られたワインレッドのガントレットの拳。ゆっくりとその手のひらが開き、そっと親指で魔王の頬から涙をふき取ってくれた。
「もう大丈夫ですよ」
「ア、ア…、アルメダ!」
震えるその小さな背中を抱きしめるアルメダを、安堵のあまり涙ぐみながら見上げる魔王。いつもと変わらないアルメダの笑顔が、今はとても頼もしく感じる。
「申し訳ありません、魔王様…。私が付いていながら、こんなにも怖い目にあわせてしまって…」
その申し訳なさそうな言葉に魔王は振り向き、アルメダの胸にぎゅっと身を任せる。さきほどのショックでまだうまく言葉は出ないが、せめて態度で彼女に感謝を表現したいのだ。しかし、アルメダは魔王の肩を掴むと、自分の胸の前から引き離した。
「ア、アルメダ…?」
不安と困惑が入り混じった表情の魔王に、アルメダは先ほどまでとは打って変わって引き締まった表情を見せる。
「魔王様、後ろにお下がりください。ここは危険です。まだ奴は死んではいません」
そう言って横に目を走らせるアルメダ。その先にある崖は、さきほど彼女に吹っ飛ばされた勇者が衝突した衝撃で崩れ落ちている。何も動く気配がないその場所の、積み重なった岩の一つがコトリ、と音を立てた。次の瞬間。
ドバーン!
と岩がすべて爆発的に吹き飛び、もくもくと巻き起こる粉塵。その中から、勇者が姿を現した! 彼はアルメダに殴られて右に曲がった頭を片手でつかむと、コキッとまっすぐに直し、間髪入れず放った気合いで、鬱陶しい粉塵を吹き飛ばした。
「なんだぁ、お前は?」
恐ろしく座った眼が、アルメダを睨みつける。魔界の全てを蹂躙し、見下ろしてきたその視線は恐怖となってアルメダの目を貫き、脳の奥深くまで突き刺さる。だがそれは、歴戦の魔将軍たる彼女にとっては、膨大な量の戦闘用脳内麻薬を放出させるためのトリガーでしかない。高ぶる闘争心を抑えながらも魔王を安全な後方に逃がし、勇者と対峙するアルメダ。
「久しいな、勇者よ。貴様が初めて魔王城に攻め込んだ時ぶりだな」
「ん~? 誰だっけ、憶えてねーや」
「無礼な! 貴様にワンパンで魔界の裏側まで吹っ飛ばされた魔将軍アルメダだ!」
「あー、そういやなんか魔王の前座でカッコつけて登場した変な緑髪ポニテの女剣士がいたなあ。あいつか。あれ以来見ないと思ったらそんなに吹っ飛んでたとはなあ。それにしてもよく生きてたもんだぜ」
「フッ、私の体力は魔界で二番目。もちろん一番は魔王様だがな。それに今の私をあの時のままの私だと思うな…!」
「フン、ハッタリか、くだらん。もう一度飛んでいきな!」
ドンッ!
という衝撃音と同時に、アルメダの眼前に勇者の体が現れた。まるで瞬間移動のようなスピードで繰り出されるタックル。あまりに唐突なその超速の先制攻撃を見切ることは不可能。そして宙に舞った、淡緑の花びらのごときアルメダの髪、そのわずかな切れ端。
「なに!?」
残像だ。インパクトの瞬間、あらかじめ攻撃を察知していたアルメダは残像を残し、ほんの一瞬だけ前もって回避していたのだ。見切れなければ、予測すればよいだけの話だ。
「フ、完全に避けたと思ったが。この予測回避奥義『霞草』に攻撃をかすめるとは。さすがだな、勇者よ」
「チッ、あの時とは違うようだな…」
いつの間にか距離を取ったアルメダは、わずかに短くなってしまったお気に入りのポニーテールを指でいじくりながら勇者の出方を伺う。そんな彼女のほうに向き直る勇者は、わずかに驚きの感情を浮かべていた。魔王のほかに一撃で倒せぬ相手がいたなんて。彼女に興味を持ったのか、勇者は動きを止め、その様子を観察し始めた。
背丈は小柄な魔王より頭一つ分は高く、スレンダーな体形をしている。剣と鎧の装備から戦士職であることがわかるが、動きを阻害するような無駄に肥大した筋肉はついておらず、鎧も主に胸と股間部のみを装甲したライトアーマーで、勇者と似たようなスピードを主軸とする戦闘スタイルを持っているように感じる。毅然としたその立ち姿は、まだ少女でありながら一切の隙という概念を捨て去っている。それでいて、恐ろしいことに、彼女は最強を誇る勇者との戦闘中の今でも、笑みを絶やさないでいるのだ。魔王ですら余裕を装いながらも、いつもどこかひきつった顔をしていたというのに。勇者は直感した。
この女、普通ではない。
「…お前、なんて名前だ?」
「さっきも言っただろう? 物覚えの悪い奴だな。私の名はアルメダ。魔将軍アルメダ。人呼んで魔界の勇者だ!」
大音声の名乗りとともに、腰の剣を音もなく抜き、左手で中段に構えるアルメダ。その剣を見た勇者は、今度は驚きを隠せない。
「それはまさか!?」
「フフ…、そう、この子は聖剣」
「バカな、魔族が聖剣を使うだと!?」
勇者が驚くのも無理はない。聖剣は魔族の持つ闇の魔力を断ち切るために作られたもの。並みの魔族なら触れただけでも体が崩れ落ちるほどの代物だ。それを涼しい顔をして構えているアルメダ。こんなことはありえないはずだ。もしかして偽物だとでもいうのだろうか?
「…まあいい。本当に本物かどうか。こいつでブッ叩けばはっきりするぜ」
吐き捨てるようなセリフに合わせて、勇者も手にした聖剣を突き付けるようにして構える。
「この聖剣マーナヴルでな!」
ドンッ!
再び地を蹴って勇者が先制攻撃を仕掛ける。対するアルメダは、なんと今度は避けようとしない。今、勇者の手には光の魔力をまとった聖剣がある。先ほどと同じ『霞草』の回避では、長くなったリーチで残像ごと切り裂かれると判断したのだろう。だが、受けようにも腕力は勇者のほうが遥かに上。魔界随一の剛力を持つ魔王ですら、パワー負けするような相手だ。ならば、いったいどうすればいいというのか!?
「鳴り響け、聖剣エルフィオーレ!」
とっさに胸の前で聖剣を横一文字に構え、その刀身を、そっと指で弾くアルメダ。
キィイイ…ン
という澄んだ美しい音色が奏でられる。
「それがどーした! 死ねッ!!」
構わずに突きを繰り出す勇者。必殺の間合い。音速の切っ先。それはまるで獲物の生き血を求め飛びかかる飛竜のように。アルメダの胸の奥に鼓動する心臓めがけ、まっすぐに突っ込んでいった。