第七話 初恋
魔将軍アルメダの白銀の剣が悪魔ムエッサイムに迫る。
キィィィイン…
切っ先は鋭く冷たい怒気をはらみ。それを受け、触れてもいないムエッサイムの肌の神経が切り裂かれたかと勘違いしたかのように実際に痛覚信号を放ち始めた。剣技について疎いムエッサイムにも、彼女の腕が並みの達人レベルでないことが有無を言わさず強制的に理解させられる。無理もない。弱冠十万十八歳にして怪魔ひしめく暗黒の魔界の女将軍にまで登りつめた彼女の腕は正に神技、いや、魔族ゆえに魔技か。実のところ剣の腕前に関しては、魔王を超える最強の力を持つLV99勇者と比べても遥かに上。その剣撃を受けたものはその身だけでなく心までもがずたずたに切り裂かれ、再起不能に陥ると言われている。そう、彼女は剣の申し子、いや、すべてを切り裂く剣そのものと言ってもいいかも知れない。そんな彼女を前にして、ムエッサイムはしかし、不可解にも余裕のような表情を浮かべ、両手を広げて言い放った。
「かなりの腕をお持ちのようですな。いいでしょう。ほぉら、お斬りください。存分にやってもらって構いませんぞ」
「…このアルメダ、無抵抗の相手など斬らん。無粋だ」
「まあまあ、そう言わずに。さあ!」
剣士としてのプライドからか、ムエッサイムを斬ることを拒むアルメダ。そんな彼女の剣の刀身を、いきなりむんずと掴むムエッサイム。
「せっかくこんなにいい剣をお持ちですのにもったいない」
「…なんのつもりだ…?」
「こういうつもりですぞ!」
次の瞬間。掴んだ剣を、ムエッサイムはなんと自分自身ののど元に突き刺した! そしてほとばしる鮮血。
「バカな…!? 勝てないと悟って自害したか!?」
これにはさすがのアルメダも意表を突かれて驚きを隠せない。だが彼女はこの後さらに驚くことになる。なぜなら、致命傷のはずのムエッサイムが、けたけたと楽しそうに笑っているのだ。
「貴様、いったい…!?」
事態の異様さに、剣を引き抜きバックステップで距離をとり警戒するアルメダ。一方のムエッサイムは喉に空いた穴からぼどぼど流れ落ちる自分の血を、いつの間にか手にしていたワイングラスに注いで、ぐびぐびと飲み始めた。
「いやあ、いつ飲んでもわたくしの血は格別! どうです、あなたも一杯いかがですかな?」
「笑止! そんな気色悪いものが飲めるか!」
「それは残念。それにしても。わたくしの血もおいしいですが、あなたの血もきっとおいしいんでしょうなあ、アルメダさん?」
そう言ってぺろりと舌なめずりをするムエッサイム。その言葉に、なぜか驚いて顔を赤らめるアルメダ。
「き、貴様、まさか私が今日、女の子の日だと知っているのか!?」
「え、ええー!? いや、違います! そういう意味じゃなくて…」
「おいアルメダよ。どういう意味なのだ? 女の子の日って?」
さっきまでアルメダの後でべそをかいていた魔王は、興味深々の顔で彼女の脇をつんつんして質問してきた。まだ子供でそういう経験がない魔王はアルメダがいったい何を恥ずかしがっているのかわからないのだ。アルメダは、珍しく魔王が自分から寄ってきてくれた、その嬉しさで一瞬のうちに恥ずかしさを忘れ去ると、またもや興奮してしまった。
「あああああ、魔王様! まだそんなこともご存じないなんて! なんてピュアーな心をお持ちなの!? お持ち、おもち、おモチよりも真っ白だわぁ! よぉし、このアルメダがピンク色に染め上げてあげます! そこの茂みでじっくりとお教えいたしましょう! ささ、こちらに、魔王様! おべんきょしましょ、おべんきょ!」
頭から湯気を出して口からよだれを垂らすアルメダに引っ張られ、もじゃもじゃ生えた茂みに連れていかれそうになる魔王。事案発生一歩手前でそれを引き留めたのは、なんとムエッサイムだった。
「ちょっとアルメダさん! あなた、いったいなんてことしようとしてるんですかな!?」
いいところで邪魔をされたアルメダはぷくうっと頬を膨らませて不機嫌さ爆発だ。
「なによ、いいじゃないの、女の子同士なんだから。あんたら男だって男同士でアレを見せっこしたり×××っこしたりするんでしょ?」
「しませんよ! 何言ってるんですかあなた! 脳みそ腐ってるんじゃないですか!? とにかく、アスモデウス様はまだ子供なんですから変なことしてはいけませんぞ!」
ぐいっと魔王の手を引っ張ってアルメダから引き離すムエッサイム。
「ささ、アスモデウス様、あのおっぱいだけは立派な変態女は放っておいて。早くわたくしと契約してダンジョンノートの力を得るのです。さすれば勇者を倒し、また幸せな暮らしが出来ましょうぞ。ご両親も待っておられるのでしょう?」
「…」
「アスモデウス様? どうなさいましたか?」
「…余の両親はもういないのだ。母は余を生んで死んだ。父は勇者に負けて逃げたのだ…」
「なんと…。それは、お辛いですなあ…」
「だが、余は負けない。余は勝つ。勇者に勝つのだ。勇者に勝って、恐怖に満ちた暗黒の魔界を取り戻すのだ。そしてまた、お父様といっしょに…」
小さなその手を固く握りしめ、うつむく魔王。その瞳の中、並々ならぬ決意が、うっすらにじむ涙にゆらめき、輝きを放つ。その気高い姿に、一瞬、ムエッサイムは見入ってしまった。と、彼のほうを見た魔王は何かに気付き、ローブの胸元を引っ張って中に手を入れ、もぞもぞと何かを探し始めた。角度的にけっこうローブの奥のほうまで見えてしまいそうだったムエッサイムは思わず目をそらしてしまった。こんな子供相手になぜ、と自分に戸惑うムエッサイムは、魔王に年齢以上のカリスマ的な魅力をうっすらと感じとったのかもしれない。
「ムエッサイム、はい、これ」
「え? あ、アスモデウス様?」
上目遣いの魔王は、すっと手をムエッサイムに向けて上に伸ばした。そこに持っていたのは、黒くて可愛らしい悪魔っ娘らしいハンカチだった。
「首、血が出ているぞ。痛いだろう、これで縛るとよい」
「ア、アスモデウス様…」
「どうした、ムエッサイム?」
「首を縛ったら窒息してしまいますぞ、はは。それに傷はもうふさがっております」
「そうか。余と同じで直りが早いんだな。じゃあ付いてる血だけふいてあげる」
「ええっ!? だ、大丈夫、自分でできますから!」
慌ててハンカチをひったくって、残っていた血をごしごしふき取るムエッサイム。その額には汗が浮かんでいる。なぜだ。なぜならば。ムエッサイムは柄にもなく緊張していたのだ。実にこのムエッサイム、女の子に優しくしてもらったのは生まれてこのかた初めてのことだった。
「あの、アスモデウス様、その、わたくしのような見ず知らずのオッサンになぜ優しくしてくださるのです?」
「お前は余を助けてくれると言った。それに、血が出ていた。痛かったであろう?」
「…」
その言葉を聞いて、ムエッサイムはいらだちを隠せなかった。愚かにも自分を信じ切っている。そして心配してくれている。純真で、無垢な言葉。そう、心の根底に幸せな記憶、優しい思い出が満ちている者特有の純粋さ。この子が持っているものはそういうものだというイメージが彼の脳裏に浮かび上がった。この子は矛盾している。悪の化身たる魔王であるのに優しくあろうとしている。いや、逆か? 優しい心の持ち主なのに魔王であろうとしているのか。まあ、どちらでもよいか。優しさ、幸せ。そういったものとは無縁に生きてきた彼にとっては、この上なく不愉快な存在に違いないのだ、このアスモデウスという娘は。闇の中に生きているくせに無邪気に輝きを押し付けてくるこの小娘を、この小娘を、この小娘を。めちゃめちゃに、めちゃめちゃに、ずたずたに。ずたずたに、ずたずたに、ぐちゃぐちゃに。滅茶苦茶にして引き裂いてしまいたい。暗く、暗く、暗く冷たい絶望という暗黒の闇の奥底で。
これが、悪魔ムエッサイムの初恋だった。