第六話 悪魔の契約
突如現れた謎の男、ムエッサイム。白い長袖シャツに赤のネクタイ、灰色のズボンといったオッサンスタイルをした七三分けの彼は、歴戦の勇士である魔将軍アルメダにまったく気取られることなく背後をとり、彼女の形の良いバストを鎧の下に差し込んだ手で鷲掴みにしていた。不覚を取ったアルメダは、しかしどこか安心した表情だ。
「よ、よかった…。エロいムエッサイムは本当にいたんですね、魔王様! やはりあれはエロ本…!」
「よかない! てゆーか、意味わからんわ! なんだよ、ムエッサイムって! 悪魔召喚の呪文エロイム・エッサイムじゃなかったの!?」
つっこむ魔王。すかさずムエッサイムは見た目によらぬ怪力でアルメダをぽいっと放り出すと、ビンの底のような厚いメガネをくいっと上に押しながら魔王に向けて口を開く。
「悪魔っ娘コスのお嬢さん。あなたですね、私をダンジョンノートから召喚したのは」
「え、私? …じゃなかった、余が? 知らぬぞ?」
感情的になっていたためか、一瞬、素のしゃべりが出そうになる魔王。慌てて口調を魔王っぽく戻す。が、偉そうな口調とは裏腹にその顔は召喚なんて知らないよとばかりに困惑している。
「いいえあなたです。『えろいむえっさいむ』と言ったでしょう。あの呪文は普通の人が言うと普通に悪魔が召喚されるのですが、エロい人が言うと、このわたくし、ムエッサイムが召喚されます。そういう仕様です」
「ち、違うもん、いや違うぞ、余はエロくない! そうだ、アルメダが、あやつが言ったときに召喚されたに決まっておる!」
汗を垂らしながら言い訳っぽくわめく魔王。さっき放り投げられたが受け身を取って無事だったアルメダは、そんな彼女のほうを見て、鼻息を荒げている。それはさっきムエッサイムに胸を揉まれたからではない。見た目は清楚な美少女である魔王が、それでいて実はむっつりスケベかもしれないという可能性にひどく興奮するのだ。
「あああああ、魔王様! まさかあなたがエロい人だったなんて! きっといつも私のこと見て微笑みながら、アルメダのおっぱいカッコいいなあ、何カップかなあ、とか想像してたんですね!!」
「そんなわけあるか! てかそんなことより、突然現れたこいつは何者なのだ!?」
うっとおしい話題を振り切るように、びしいっとムエッサイムを指さす魔王。それを見て、ムエッサイムはすっと片足を引き、片手を後ろに、もう一方の手を前にして執事ポーズでかしこまり、自己紹介を始めた。
「わたくしムエッサイムは、ダンジョンノートの管理人でございます。ノートの中で眠ったまま、長きにわたりその禁断の力を託すにふさわしいお方を待ちわびておりました。そして現れたのが強大な魔力を持つあなたなのです、偉大なる魔王アスモデウス様」
「お、おお、そうであったか! いきなりセクハラするからてっきり野生の変態かと思ったではないか。ではさっそくその力、余のために使って見せよ」
「かしこまりました。では、まずこの契約書にサインしてください」
そう言ってムエッサイムは懐からびっしりと小さな文字が書かれた一枚の紙切れを出すと、魔王に渡した。
「ふむ、契約書にサインか。なんか大人っぽくてかっこいいな、一度やってみたかったんだ」
魔王は契約書片手にうれしそうな顔で、着ているローブの胸元から、中に貫通穴の開いた大きな細長い金色の針と、どくどくと蠢くグロテスクな赤い心臓のようなものを取り出した。それらがいったい何なのかわからないムエッサイムは好奇の目でそれを見た。
「ほう、何やら異な物を出されましたな。それは何です?」
「え、なにって、血ペンだろう。お前、魔族なのにこんなことも知らぬのか。無識なやつよのう」
魔王はこんなこともしらんのか、と憐れむような表情をしつつ、ムエッサイムに見せてやろうとして金色の針を斜め上に突き出した。
「うわっ、危ない! 刺さったらどうするのです!?」
「なんだ、せっかくよく見せてやろうとしたのに」
喉元の数センチ先で止まった針先を見て冷や汗を垂らすムエッサイムだが、魔王は危ないことをしたという認識もないようだ。なんと無神経な娘であろうか。無神経な彼女は相手の危ないという抗議も気に留めることなく、一方的に説明を始めた。
「この金色の針は鉱山に住み着く黄金サソリの毒針だ。真ん中に毒を通すための穴が貫通しているだろう、ほれ」
「ひっ!?」
またも無神経に突き出された針が、今度はムエッサイムのメガネの先数ミリのところで止まる。恐怖のあまり七三分けの髪が逆立ち、分け目のところから斜めに生えたモヒカンのようになってしまった。いい年した大人のコミカルな姿に、魔王は思わず大爆笑。
「うはははは! なんだその頭は!」
「あなたのせいでしょうが! ああひどい、髪型が台無しです! 毎朝モテるために三十分もかけてセットしてるのに…!」
「その顔で怒ると面白いぞ、あはははは!」
「ああもう! もういいから! はやくサインしてくださいよ…」
「おっと、そうであったな。いいか、この針の太いほうをだな、こうしてこの真っ赤な竜の心臓にぶっ刺すと、ほれ! 針の細いほうの先っちょに血液が自動で送り込まれてペンになるのだ! これが魔界の大発明ブラッドペンシル、通称『血ペン』だ。どうだすごいだろう!」
言葉の通りにしてペンを完成させると、得意げにふりふり振って見せる魔王。勢いよくぶんぶん振る。振るから。ペン先から血が飛び散ってムエッサイムのズボンにかかってしまった。
「あああああ、わたくしの一帳羅が!」
「…なぜ避けんのだ、まったく」
またもや無神経な一言。この魔王、お姫様生活が長かったためか、世界が自分を中心に回っていると思っている節がある。ムエッサイムはぐっと何かをこらえると、ひきつった笑顔をつくった。
「…いやあ、じつに素晴らしいペンですなあ。さすがは魔王様。さあ、その素晴らしい書き心地を、はやくその契約書にサインして試してみてはいかがですかな?」
「よし。見ているがよい、余のペンさばきを。ふんふふ~ん♪」
ムエッサイムによいしょされてご機嫌な魔王は、鼻歌交じりにすらすらとサインした。そして書き終わるのを見届けたムエッサイムは間髪入れずに契約書をひったくり、なんと態度を豹変させてバカ笑いを始めたではないか。
「ひゃははははは! 馬鹿め! 内容を確認せずに書きおったわ! 読みたくなくなるようにわざと小さい字にした甲斐があったというものよ! これで契約は成立! やっと忌々しいノートの呪縛から逃れることができるぞぉ! さあ小娘、代わりにノートに取り込まれてしまえい!」
先ほどまでの理知的な雰囲気から一転、ひしゃげた顔で下品に笑うムエッサイムは、その豹変ぶりにきょとんとする魔王を指さして高らかに言い放った。そして一秒経過。二秒経過。三秒経過。し~ん。静まり返ったその場はなんだか微妙な空気に包まれた。
「あれ? な、なぜだ、なぜ何も起きん!? 奴は確かにサインしたはず…!」
慌てて契約書を見返すと、名前の欄にへたくそな文字が這いずり回っており、かろうじて「あむもでぅむ」みたく読めなくもなかった。
「うわ字ぃ汚っ! ってこれ名前間違ってるや~ん!? 幼稚園児かおまえは!」
「う、うぅ…ひどい、わたし、いや、余は字、下手じゃないもん、上手だもん…うぐ、ひっく…」
皆に褒められて育った魔王は悪口攻撃の耐性が低いのか、涙目になってしまった。それを見たアルメダは鬼神のごとき表情で割って入るとムエッサイムののど元に剣を突き付けた!
「貴様、ムエッサイム! 魔王様を愚弄するとは、不敬であるぞ! この魔将軍アルメダが成敗してくれるわ!」