第二話 禁忌の力! ダンジョンノート
シャワワ~~~
ここは魔王アスモデウスの私室、その奥の簡易バスルーム。魔界の王には不釣り合いに思える狭い空間に、ほわっと白い湯気がたちこめている。その中に、うつむいて力ない人影ひとり。魔王である。さきほど戦士の蛮行により穢された自分の頭を念入りに洗っているのだ。シャワーのぬるま湯に、戦いの生傷がうずく。彼女の華奢だが年の割にはつくところにしっかりと肉がついたその身体は、さきの勇者との戦いで艶めかしい傷がいくつもつけられていた。魔王には自己回復能力があるから、一晩寝ればこのような傷はすっかり治る。が、たとえ剣で傷つけられた身体が治ろうと、頭にうんこをつけられた心の傷は癒えないのだ。傷心の中、絹糸よりも滑らかな栗色の髪の毛をすでに七回も念入りに洗いなおしていた。魔王の使っている魔界シャンプーは肌に優しい高級品で、そのため洗浄力はそれほど強くない。彼女は普通の魔族よりデリケートな自分の肌と髪質を呪った。
手が疲れてきたしもういいか、と頭を洗うのを終わりにするが、今度は戦士に服ごしにガン見された胸のあたりが無性に気持ち悪い気がしてきた。仕方なく、そちらも念入りに洗う。するとなんだかちょっと気持ちよくなってしまい、その瞬間なにげに勇者の精悍な顔を思い浮かべる魔王。ところがそのイメージの中で勇者を押しのけて突如乱入してくる細マッチョ戦士と鶏がらのような僧侶。二人ともにっこら笑いながら、薄目で魔王の肢体をじっとりとなぞるように見てくる。
「ひっ!?」
恐怖のあまり我に返る。何の間違いかとてもいやな顔を思い浮かべてしまった彼女は恐ろしい嫌悪感に襲われ、うっとえずくと、ランチに食べた黒紫色毒草のサラダをリバースしてしまった。
それから少しして。体と、汚してしまったバスルームをひとしきり洗い終えた魔王は、ドラゴンの産毛で作った漆黒のバスローブを白い肌の上に羽織ると、ベッドまでやってきてどさっと倒れこんだ。仰向けになり、額に手を当て、天井を見る。涙がこぼれないように上を向いているが、それでもとめどなくあふれる涙が枕を濡らす。何も考えられない、いや、考えたくなかった。考えても未来が真っ暗で何も見えないからだ。バッドな気持ちがバッドな考えを生み、それがまたバッドな気持ちになる悪魔的ループに陥ってしまう。そのことを、外道なLV99パーティとの度重なる戦いで、何度も身をもって知ってしまったから。だから何も考えないほうがいい。思わないほうがいい。そうしてただボーっとしていた。いったいどれだけの間、そうしていたのだろう。涙が乾いてパリパリしたような感じがかゆくて気になってきたころ、部屋の外から鳴き声がした。
ミィ、ミィ~…
ミミックのミミちゃんだ。勇者たちを恐れ並み居る配下の魔物たちが逃げ出したあと、唯一魔王のもとに残ったのがミミちゃんだった。魔王はぱっと起き上ると、小走りで駆け寄って勢いよくドアを開けた。
ガンッ
手ごたえはあった。だが、そこには誰もいない。あれれ~おかしいな~とあたりを探すと、ドアの裏に小さなピンクの小箱の姿をした、ミミちゃんがいた。
「ミミちゃん! ってなんで転がってぴくぴくしてるの? フタがおっぴろげでお下品だよ」
「ミ、ミィ~…!」
まるでお前がドアをぶつけたんだろとでも言いたげな彼女(ミミちゃんはメスである)をひょいと抱きかかえた魔王は、ミミちゃんが口に紙切れをくわえているのに気がついた。
「なにこれ…? ちょっと貸してね」
ミミちゃんから紙切れをむしり取ってじっと見る。すると、それはノートの表紙の一部みたいだった。びりびりにやぶれておりタイトルの文字は全部読めなかったが、かろうじて
『…ダ…ジョ…ノ…ト…』
のように読めた。
「ええと、これ、ダンジョンノート、かな…? あれ、こ、これって…!!」
驚く魔王。なぜならば! そのびりびりの紙の端に、魔界の恐るべき秘密であることを表す666大禁忌のマークが描かれていたのである。魔王は全身の柔肌から産毛が総毛立った。
「ちょっと、ミミちゃん、これ、どこにあったの!?」
「ミィ~!!」
「あっ!?」
ぴょん!
と魔王の柔らかい胸元から飛びおりたミミちゃんは、ぴょんぴょんとカエルのように跳ねながら、魔王城の薄暗い廊下を走って行った。魔王は慌ててそのあとをぺたぺたと追う。魔界ウサギのスリッパを履いていて、とても走りにくい。…あ、転んだ…。魔王は痛いのも忘れて飛び起きると、裸足でミミちゃんの後を再び追いかけた。痛いとか言っている場合ではないのだ。なにせ魔界666大禁忌といえば、そのうち一つをとっても、少なくとも魔王クラスの存在20人分に匹敵する恐るべきパワーを秘めるといわれる秘密であり、魔界少年少女のあこがれの的なのである!
(ミミちゃん、あんなスゴいの持ってるなんて! 禁忌の力! あれが手に入れば、くそ生意気な勇者どもを血祭りにあげられる! 愚かな人間どもを根絶やしにできるんだわ!)
魔王は興奮で鼻息を荒げながら、玉座の間の裏側、私室に面した通路をまわり、1階へと降りる階段を進み、星ひとつない空の下で中庭を突っ切って、城壁の側面に作られた切り立った足場を器用に登っていく。すぐに城壁の上に到達すると、そこから外に見えるは黒雲の下で荒れくるう漆黒の海が、雷に責められて悲鳴のようなうねりをあげる恐ろしい姿。吹き荒れる風に乗って、魔王城がそびえるこの絶壁の『魔王島』に激しい怒りの怒涛をうちつけてくる。いつもの魔王ならその美しい光景に恍惚として、身を投げ出さんばかりにノリノリになってしまうものだ。しかし今は目もくれず、城壁の先に突き刺さった形で天まで続く『古の魔王の槍』と呼ばれる斜塔に走りこむミミちゃんを追う。
塔の前にたどり着き、入るのを一瞬ためらう魔王は、この中がちょっと苦手だった。塔内部は濃密な魔力に満ちており、生半可な者が通れば魔力に溶かされ、下級モンスターのスライムになってしまう。ミミちゃんのような肉を持たない魔物は平気で通り抜けられる。魔王も強大な魔力を持つので溶かされることはない。のだが、服の隙間から入り込んだねっとりとした魔力が彼女の柔らかい肉体を求めてまとわりついてくる感触が、どうにも好きになれないのだ。が、ここでもそんなことを言っている場合ではない。ミミちゃんを見失わないよう、魔王は恐る恐る塔に足を踏み入れた。濃密な魔力の中、上に続くらせん階段をなかば泳ぐかのように進んでゆく。そうしてしばらく苦労しながら登っていくと、やがて上に巨大な横穴が見えてきた。
「あ、あれは…」
この古の魔王の槍は、その先端が魔界を常に覆う黒雲の上まで斜めに突き出た巨大な姿をしている。そしてその斜めになった巨体を支える支持部のような部分が途中突き出ており、同時にそれは魔王島の隣にぽつんとたたずむ『絶望の小島』と呼ばれる小島に突き刺さり、そこへと行き来をするための連絡路にもなっている。天然の魔力結界が湧き出る絶望の小島に渡るには、古代の魔王が結界を破るために突き立てた槍だと言い伝えられるこの塔を通るしかないのだ。そんなことを昔、父に本で読んでもらったなあなどと思い出しながら、ミミちゃんが軽快にその連絡路に走り込むのを目で追う。少し遅れて魔王もそこにたどり着くと、急勾配で下に続く連絡路のらせん階段を降りるでなく、なんと最下部まで続く真ん中の吹き抜け部分へとダイブした! き、危険だ! 大丈夫なのか!? だって魔王は飛べないのである!!
「へーき、へーき」
そう、平気なのだ。なぜなら、充満する濃密な魔力がブレーキの役目を果たしてくれるからである。勢いよく落っこちて潰れたタマゴみたくなることもないのだ。そのことを彼女は身をもって知っていた。幼いころここに遊びに来たとき、謀反をたくらむ大臣に突き落とされたことがあるだ。そのときは頭から落っこちたが、たんこぶ一つで済んだのだ。大きくなった彼女なら無傷で降りられること請け合いである。そう思ったのは、彼女の誤算であった。
「うぁ、ま、魔力の抵抗が、きつい…!?」
まだ小さかったあのときと比べて成長して大きくなった魔王の身体は、想像以上の魔力抵抗を受けてしまったのだ。ひらひらしたバスローブもばさばさとはためいてめくれあがり、無防備になってしまう下半身。そこに、もにょもにょとした魔力の渦がぐぐっと当たってはお腹側と背中側とににゅるりと押し分けられる。そして彼女の敏感な肌をぐりぐりとこすりながら、上のほうへと吹き抜けていく。
「ひぃ!?」
くすぐったいような、なんともいえないような感触。たまらずにローブのすそをつかみ、それを意外に肉付きの良いふとももでぎゅっと挟み込んで魔力が直接当たるのを防ぐ。そのままの恰好で耐えながら降下を続け、やっとのことで最下部に尻もちついて到着したときには、魔力にねぶられて全身汗だくになっていた。バスローブが太ももにぴっちりと張り付いて気持ち悪い。足が動かしにくくまた転びそうになるが、なんとか踏みとどまる。すると、横から光が差しているのに気がついた。そちらに目を向けると、開けっ放しになったままの古くて大きな扉があった。普段は使う者もおらず内側から鍵がかかっているはずの扉。それが今開いているということは、どうやらミミちゃんはもう外に出て行ったらしい。ならば、立ち止まってはいられない。
魔王はいまいましい古の魔王の槍から出ると、まだまとわりついている魔力の残渣をぱんぱんとはたき落とし、深呼吸とともにぐっと伸びをした。気持ちを切り替える。そして、いざ。禁忌の力、ダンジョンノートを求めて絶望の小島へと足を踏み入れた。