第十八話 アスモデウスの迷宮Ⅶ
魔将軍アルメダの狂気に圧倒されて壁際まで押し込まれた勇者は、今まさに命の危機に瀕していた。だが、そんなときに彼は一つの違和感を感じていた。
(おかしい…? 確かにこいつは強かったが、腕力は俺がはるかに上のはず。なのにどうして押し負ける!)
下がるところまで下がり、もはや後がなくなった。背中には壁、目の前にはじりじりと迫る刃がもうすぐ目の前だ。
「くっ、バカな…! 超最強であるこの俺がこんな!?」
「ブッ殺ォオオオオーーー!!!」
「おやおや、お困りのようですなあ、勇者さん」
「!?」
突然の声に目を横に滑らせると、勇者のすぐ横で使い魔ムエッサイムが壁にもたれかかっていた。彼はおもむろにズボンのポケットからよくわからない銘柄のタバコの箱を取り出すと、くいっと振って器用に一本だけ突き出させた。それを咥えて先端を指先でこすると、まるで手品のように赤く火が点いた。すぅーっと胸いっぱいに吸い込んで、溜めて、一拍おいてふぅーっと吐き出す。もくもく。
「げほっ、ごほっ!」
「おっとすみません、タバコは苦手ですか。そういえばあなた童貞でしたっけ。道理で」
「はあ? タバコとそれと関係ねーだろ! ガキだと思ってバカにしてんのか? つーかてめー、確か使い魔のムエッサイムとかいったな!? 俺はてめーみてーなバカと煙は大っ嫌いなんだよ! どっちもうっとおしいからな!」
「おや、バカは好きかと思ってましたがね。だってあなた、アスモデウス様のことを…」
「うるせぇ黙れ! 違う! そんなんじゃねーよ! ってか呑気に話してる場合じゃねえ! 見りゃ分かんだろ! 真っ二つにブッ殺されちまうだろーが!」
「はて、そうでしょうか?」
「なんだと…って、あれ!?」
ムエッサイムがあごでしゃくった先。そこには剣を下ろし、しゃがみ込んで煙にむせるアルメダの姿が! さっきまでの恐ろしさとはうってかわってけほこほと可愛らしく咳をしている。まあ、可愛らしく、というか涙目のその姿は実際に可愛いかったりする。大人しくしていさえすれば普通に美少女なのだ。実に残念である。
「けほ、こほ…!」
「おやおや。見てください勇者さん、どうやらアルメダさんも処女だったようですなあ」
「だからタバコと関係ねーつってんだろ! いい加減にしろよこのセクハラ野郎!」
「まあまあ落ち着いて。せっかくのチャンスですぞ」
「む…! そういやそうだな。来い、マーナヴル!」
勇者の掛け声に呼応して、魔王城の上空で放り出されていた聖剣マーナヴルが虚空から空間を超えて顕現する。がしぃっとそれを掴み、同時にアルメダの手にした聖剣エルフィオーレを向こうに蹴っとばす。そしてマーナヴルの切っ先を、まだむせてしゃがんだままの彼女に突き付けた。
「悪く思うなよ、アルメダ。俺とお前はもともと死闘を繰り広げた敵同士だからな。せめて一息にとどめを刺してやる」
振り上げられた剣の真下に、アルメダの無防備なうなじがさらされている。勇者が少し力を込めれば、次の瞬間彼女の首ははね飛ばされ、その白いドレスは深紅色に染まることになるのだ。魔将軍、アルメダの最期。
「う、けほ、げほ…!」
「さあ、念仏でも唱えろ!」
「あ、ごほ…あ、…!」
咳込みながら、勇者の足に追いすがるアルメダ。その往生際の悪さに失望を感じた勇者は、身にまとう光の粒子を前方に高濃度圧縮し、ハンマーのように彼女の上から叩きつけた。
ドーンッ!
「ぅぐぁあああ!」
魔族の弱点である光の魔力が猛烈な勢いで体力を奪っていく。彼女の淡い褐色の肌が、ちりちりと音を立てて焼けこげ始めた。
「終わりだ」
勇者は無慈悲な表情で力を込め、破壊の魔力に満たされて冷たい輝きをこぼす聖剣を、足下で悶え苦しむ少女に向かって振り下ろした。
シュッ…
「ま、もらな、きゃ…」
「!」
ぴた。
アルメダの首まであと皮一枚のすれすれの距離で剣が止まった。予想外の出来事に困惑する勇者。何か得体の知れない力によって聖剣の強大な破壊パワーが押しとどめられているのだ。よく見ると剣のすぐ下、アルメダの首筋に奇妙な文様があり、うっすらと光を滲ませている。どうやらそれが彼女のことを守っているようだ。
「なんだこの呪いのマークみてーのは。魔族がするタトゥーか…?」
だが。それが発する魔力は魔族の闇の魔力とはまた違う、今まで感じたことの無い感じで…いや待て、覚えがある。そう、子どものような奇妙な声が頭の中に響いた時だ。これはあの時、自分の首の後ろから発していた魔力と同じものではないのか。いったいどういうことだろうか。一瞬考え込んだ勇者は、息苦しそうなアルメダの声を聞いて我に返った。
「けほ、ぅう、まも、らなきゃ…あ、アスモ、デウス…わたしの、アス、モ…」
「なんだと!?」
それは信じがたい光景だった。その身を光に焼かれてもう力が残っているはずのない彼女は、首に押し当てられたマーナヴルの膨大な魔力のパワーを自ら押し返して、立ち上がろうとしているのだ。
「ア、アスモデウスを、守らなきゃ…!」
「バカな、そんな体で立ち上がるというのか!?」
だが同時に。徐々に光の魔力が首を守っている文様の魔力防御壁を蝕み、刃は少しずつアルメダのしなやかな肉に食い込んでいく。両断される文様。つぅっ、と流れる鮮血ひとすじ。
「守るんだ、あたしのアスモデウスを、魔王様、を…たとえこの身が朽ち果てたって…!」
勇者はその言葉に耳を疑った。自分の命を犠牲にしてまで主君を守るというのか? 信じられない。だって魔族は自分が助かるためには平気で仲間を見殺しにするような連中のはず。実際、初めて魔界に攻め込んで以来、そういう場面を何度も見てきたのだ。
例えば、とどめを刺そうとすると頼んでもいないのに近くに潜む仲間の居場所を吐いて命乞いをし、隙を見て逃げ出そうとする。町を守るはずの屈強な兵士が、女子供を盾にして真っ先に退散する。盾にされた子供たちは子供たちで、誰かを生贄に捧げて自分だけ助かろうと、いさかいを始める。母親が小さな子供を差し出して「この子はどうなってもかまいません、どうか私だけでも助けてください」と懇願してきた時には怒りを通り越して呆れ返ったものだ。
そんな下劣で邪悪な魔族の将軍であるはずのこの少女は、今、魔王のためにその命を懸けようとしている。
「アルメダ、お前…」
勇者は思わず剣に込めた魔力を緩めた。
「あれえ? 勇者さん、殺すんでしょ? アルメダさんを」
「ムエッサイム…。ああ、そうだな。確かにこいつは倒すべき敵だ。だが…!」
目の前で首筋を剣の前にさらして血を流し、息を荒げてふらつきながらも立ち上がろうとする少女。彼女の額から零れ落ちた汗の筋が頬をつたい、その細い顎の先からぽたり、ぽたりと零れ落ちては、重厚な毛の絨毯へと染み込んでゆく。首の後ろから前に向けて流れる細い血の筋は、滝のように流れる汗と合わさって、ひらけたドレスの胸元へと吸い込まれていく。彼女の命は、今、自分の手の中にあるのだ。
ゾクゾクッ!
サディスティックな興奮のあまり鳥肌を立たせた勇者は、その逸る気持ちを落ち着かせながら、剣の力を更に弱めてみた。すると呼応するようにアルメダがゆっくりと立ち上がっていく。あくまでも立ち向かうつもりのようだ。だが、楽に立てるわけではない。絶妙な力加減で、勇者が負荷をかけているのだ。その苦痛を感じながらも少しずつ立ち上がるアルメダが吠える。
「はぁ、はぁ…。絶対に、倒れるもんかぁーーー!!!」
決して折れない彼女の姿は魔界の勇者の二つ名に恥じない気高さだった。これは期待通り、いや、それ以上の逸材かもしれない。もしかするとこいつなら、最強になってしまった自分の強さについてこれるんじゃないか。普段はしかめっ面しかしない勇者は、まるで新しいおもちゃを与えられた子供を思わせる満面の笑顔を見せた。
「あはは! お前、けっこう面白いな!」