第十六話 アスモデウスの迷宮Ⅴ
突如部屋の中に入ってきた、二人目の母上。いったい何が起こっているのだろう。
「ほら、忌々しいゴブリン捕まえてきたわよ。また逃げると思って身構えてて正解だったわ」
「えーと、母上? どっちが本物なんだ…?」
「本物? ユウ、あんた何わけわかんないこと言って、って、うおっ!? あたしがもう一人いる!?」
そう言って今にも飛び上がりそうな派手なリアクションで叫んだのは、今しがた部屋に入ってきた方の母上だ。その手にはアスモデウスに化けていたゴブリンを吊るしあげている。一方、もう一人の母上は驚く様子もなく、静かに微笑みながらこう言った。
「あらあら、私の偽物まで出てくるなんて、いったいどうしたことでしょう。何か良からぬことが起こっているのかしら」
「ちょっとォ、偽物はあんたでしょ! どー見たってあたしが本物のアルメダちゃんでしょーが!」
そう言って後から入ってきた方の母上(紛らわしいから母上Bと呼ぶことにする)は、ゴリラのようにドンと自分の胸を叩いて、たゆんと揺れるのも気にせずにもう一人の母上(こっちは母上Aと呼ぼう)を睨みつける。一方の母上Aは対照的に、まるで一輪の花のように動じず、じっとゴリラのような(そぶりの)母上Bを見つめている。いったいどっちが本物なのだろうか。俺の目に装着していた幻術破りの軽魔審眼は魔力が切れてもう動かない。というか、暗黒の粒子になって消滅してしまった。魔族はすぐ物をポイ捨てして周囲を汚すもんだから、こんなふうに使えなくなったものは消滅するように細工がしてあることがある。そういえばこれをくれたのはムエッサイムだったな。まだ予備を持っているかもしれない。
「おいムエッサイム、軽魔審眼、余ってないか?」
「申し訳ございません、王子。あいにくもう持ち合わせがございません」
「そうか…。おい、どっちが本物だと思う?」
「…。さあ、わたくしには分かりかねますなあ」
「そうか」
まあ、ただのコックがそっくりな二人から本物を見分けられるとは期待してなかったが。やはり王子であるこの俺がなんとかしなければ。そうこうしていると、しびれを切らしたのか母上Bが叫んだ。
「ちょっと、なんとか言いなさいよ、この偽物野郎!」
「止めてくださるかしら。あなた、そんな野蛮な様子でよく王妃が務まりますこと。あ、偽物でしたわね、ほほほ…」
「ぬぅあんですってェ~!?」
「何でもありませんことよ?」
「ムッキーーー!!!」
怒り狂った母上Bが捕まえていたゴブリンを放り投げて、母上Aに掴みかかる。慌ててゴブリンをナイスキャッチするムエッサイム。母上Bに襟首を掴まれて、母上Aはその可憐な表情を苦しそうに曇らせた。大変だ、やめさせなければ!
「止めるんだ、二人とも!」
俺は狂った闘牛のようにいきりたつ母上Bから母上Aを開放し、母上Bを突き飛ばした。その拍子でハイヒールのかかとが折れて、近くテーブルの上に倒れ込み、飾ってあった花瓶にどたまをぶっつけびしょ濡れになる母上B。
「うぎゃあー! お、親に向かってなんてことすんの、ユウ!」
ひっくり返った花瓶を頭にのっけたまま、ずぶ濡れの母上Bが叫ぶ。だが、俺は気にしない。
「いやあ、さっきからどうも、あんたのことが母親に思えなくってさ。どっちかってゆうと、憎むべき敵のような気がしてならないんだ。何故かはわからんがな」
「まーあ、なんて子かしら! このろくでなし! 親知らず!」
「それを言うなら恩知らずだ。親知らずは奥歯だろが。やっぱりな。王子であるこの俺の母上がこんなに馬鹿でがさつなわけがない。それに比べて…」
俺の後ろで憂いを帯びた瞳で肩を震わせている母上A。可憐だ…。不思議だ、まるで同い年くらいの美少女のようにしか見えない。それに全然俺と似ていない。妹のアスモデウスともだ。…この人、本当に俺たちの母親なんだろうか…? あれ、俺、なんでそんなこと考えちゃうんだろう? …ん? なんだか首筋がじんじんするな。なんか魔力っぽい熱を感じる。あ…? 頭の中から不思議な声が聞こえる気がする…。
『アルメダは魔界の王妃。アルメダはお前の母。母親なのだ…』
…。あ、そう、そうだっけ、そうだった。そうだよ。このアルメダという少女は、俺の、母、親…? いや、俺の母ちゃんはもっとこう、トドみたいでオバさんパーマで…、バリボリせんべい食べながらぶっこらと屁ぇぶっこくような…。
『うるさい、黙れ! アルメダが母親ったら母親なのだ!!』
ええ…? びっくりしたなーもー。いきなり怒鳴るなよ。そんなこと言われたって、納得できねえよ。第一、その設定は無理あるだろ。このアルメダって子、どー見ても俺と同い年くらいだぞ。もっと説得力持たせろよ。誰か知らねーけどオメーあったま悪いなあ。バカなんじゃねえの?
『…』
何だ? 黙ったぞ…。
『ぅ、うるさい…』
え?
『ぅう、ぐす、ひっく。うる、さい…』
え? なになに聞こえな~い。
『ぅうううるさい! うるさい、うるさい、うるさいーーー!!! 黙れこの…、バカ、アホ、ええと…、バーカ! バカバカ!!』
うわっ!? 頭の中で怒鳴るな! 脳みそが破裂しそうだ!
『わーーー、わーーー、わーーー!!! アルメダが母親なの! 母様なのぉーーー! わぁああああああ!!!』
わ、わかったよ、アルメダが母ちゃん、いや、母上だ! いいなぁその設定、イエスだね。ステキさ! ………。優しそうな顔つき。魅力的な微笑み。間違いない。アルメダは俺の母上だ。
「アルメダは俺の母上、母上なんだ…」
「…ど、どうしたのですか、ユウ?」
…あ。気が付くと、アルメダ、もとい母上Aが心配そうに俺にささやいていた。
「…なんでもないです」
てゆーか、あれ? 俺、今、何考えてたんだっけ? …頭がぼんやりして思い出せない。…まあ、いっか。そんな俺の様子を見て怪訝な顔をする母上Aの華奢な肩を抱きとめながら、俺は雌ドラゴンのようにいきり立つ母上Bに言い放った。
「よく聞け、こっちの母上Aが本物の母上だ。母上B、てめーの正体はどーせゴブリンかなんかだろう。その下品さが何よりの証拠だ!」
高らかに宣言した俺は、びしぃっと母上B、いや、偽物に向けて指さした。俺の言葉を聞いた偽物は、ずっこけてマタグラをおっぴろげたまま、怒りの握り拳をぷるぷると震えさせている。どう見ても王妃のふるまいではない。
「さあムエッサイムよ、この不埒な偽物をしょっぴけい! すでに捕まえたゴブリンといっしょにな!」
「はい、かしこまりました…」
俺の命に従い、ムエッサイムは偽物の手を掴んで立ち上がらせた。が、偽物はムエッサイムを振り払うと、顔を真っ赤にさせて怒りながら、俺たちのほうにダッシュした。迅い。一瞬で距離を詰めた偽物は、今度は俺の首根っこを掴んでがくがく振りながら、キーキーとわめき出したではないか。
「きーーー! あんたって子はぁ~! こんなことならさっきぶった切っておけばよかったんだわ!!」
「うわっ、や、やめろォー!」
「いいこと、ユウ! あんたはね…」
「な、なんだよ!?」
「あんたはあたしが、このあたしが育てたんだよ! この…あたしの…」
「うおお!?」
「おっぱいによってね!!!」
むぎゅ~~~!
こ、これは!? 何だろう、柔らかい。そして、暖かい。すんすん、とってもいい香り。はっ、これは、この温もりはもしや…!? なんということだろう! 俺は今、偽物の胸の谷間に顔をうずめているのだ!! あれ、この感触、どこかで…。あ…。ああ、これは…この懐かしい漢字は。忘れもしない遥か時の彼方。真実の記憶、偽りの現在。
思い、出した…! アルメダは俺の母ちゃんではない。俺の敵、魔王の右腕である魔将軍だ。そして、俺も魔族の王子なんかじゃなかった。そう、俺は。
「俺は、勇者だ!!!」