第十五話 アスモデウスの迷宮Ⅳ
* * *
夢を、見た。
それは光輝く幸せに満ち溢れた光景。おおらかで偉大な父、魔王イマデウス。明るく美しい母、アルメダ。二人に囲まれて楽しそうに笑う、王子の俺。白亜の宮殿を背に、果てなく広がる青空の下、緑あふれる庭園で、とても楽しい黄色く柔らかな時間が流れていく。そこに料理長のムエッサイムが、食べきれないくらいのご馳走を運んできた。むちむちしたドラゴンのモモ肉、ねじくれキノコパスタ、魔界草のフレッシュサラダ。どれから食べようか目移りしてしまう。俺は短く切ってある太いねじくれキノコを指でつまむと、口の中に放り込む。ぬめぬめとした舌触りで、ちゅるんとのど奥にすべり込んでいく。うまい。もう一つ。今度は口をすぼめて、吸い込むように食べようとすると、誰かが俺のズボンを引っ張った。いったい誰? 口にキノコを咥えたままそっちを向くと、そこには小さな女の子がいた。
ピンク色の髪をした、愛らしい少女。だけど、その顔はどこか悲し気だった。指を咥えて、じっと俺のキノコを見つめている。俺はちょっと考えて、テーブルが高くて料理に届かないのだと悟ると、すっとその場にしゃがんでみた。顔の高さが、少女と同じくらいになった。そこにうりうりと咥えたキノコを突き出す俺。子どもじみてるかもしれないけど、ちょっとからかってみたくなったんだ。すると、少女はキノコの先っちょをぱくっと咥えてしまったではないか。思わず見開いた俺の目の前で、少女が嬉しそうににっこりと笑った。ドクン。俺の心臓が大きく鼓動する。彼女があんまり愛くるしくって、光り満ちた世界がさらにまばゆく輝いて感じる。 するとどうだろう、不意に俺は、目の前が真っ白になった。
「うぅ~ん」
……あれ。また夢、か。…俺、またいつの間にか眠っていたのか…。なんかあごのあたりがすーすーする。よだれを垂らしていたらしい。それに身体が、重い。混濁する意識のなか、張り付いたまぶたをゆっくりと開いていく。星の光が見えた。夜空? 違うな。本物の星じゃない、絵に描いたようなキラ星の形の光。青白く、幻想的に、深い紺碧の瞳の中にたゆとう光。ああ、なんて綺麗なんだろう。何秒かの間、俺はその美しさに見とれていた。そして、気づく。なんだこれ。口の中で何かがもにゅもにゅ蠢いている。え、なに? なんだこれわぁああああ!?
「んふ、むちゅ、れろ、ぴちゃ…」
「んむ~~~!!???」
俺はまだ夢を見ているのか…? だって俺の目の前に、女の子の顔がドアップで大接近しているじゃないか! その瞳の中には、星形の魔力光がゆらめいている。魔王クラスの魔力の持ち主に発現する五芒星魔眼の光。妖しく瞳を輝かせながら、俺の体に馬乗りになってる! 道理で身体が重たいはずだ。しかもしかも。この子、何してるんだ…? え、これって、うおおおおおーーー!!!???
マジか!? これ、俺の口の中に舌、突っこんじゃってるよ!? ベロチューだよ!? ディープキスだよ!? 情熱的なベーゼだよ!!? 舌と舌が絡み合っちゃってますよォーーー!? 生まれてこのかた十数年、初めてのキスがまさかこんなどエロ、もとい、えらいことになっちゃうとは、夢にも思わなかったぜ。人生、捨てたもんじゃないな。…なんて、そんなこと思ってる場合じゃねえ!! 俺は目の前の美少女の頭を両脇から掴むと、力任せにグイッと引き離した!
ぬるちゅぽんっ
「あんっ…!」
口と口が、離れる。互いに突き出したままの舌の間を、きらめく粘液の糸が名残惜しそうに繋いでいるが、それもすぐ重力にひかれて、ぷつっと切れた。その先っぽが、少女の小さな顎にぴちゃっと貼りつく。それをゆっくり指ですくって、ぺろりと舐めるその仕草は、まるでスローモーションのように俺の脳裏に焼き付いた。それからしばし沈黙したまま、見つめあう。少女は俺を見下ろしながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。きっと俺の顔は真っ赤になっているのだろう。情けない話だが、はっきりいって今の俺は脳が半分沸騰しかかっているみたいだ。荒い鼻息が、抑えきれないんだ。一秒ごとに段々といてもたってもいられなくなって身をよじろうとするが、少女がどっかりと腰の上に座り込んでいて、動けない。いや、正確に言えば俺の力なら小柄な彼女をどかすことは簡単なはずだが、なぜか力が入らないんだ。もしかすると、俺は心のどこかで、ずっとこのままでいたいと思っているのかもしれない。
「ふふ…。おはよう…目が覚めた?」
「…お、お前、いったい何のつもりだ…?」
「なんのって、おはようのあいさつよ」
あいさつ? あれが? 俺にはどう見てもキスにしか思えないんだが。これはちょっとヤバい。いや、ちょっとどころか、かな~りヤバい。
「こんなことしちゃダメだろうが…!」
「なんで?」
「なんでって、そらお前…俺たち、兄妹じゃあないか!!」
「だから何?」
「え、何って、あれだ、その…」
「いいじゃない、だってアスモデウスはこんなにもユウ兄様のことが大好きなんですもの」
ま、まずいですよ、アスモデウスさん…! あなた、俺の妹なんですから! …って、い、いかん、混乱して思考が弱気になってしまっている…! このまま迫られたら俺、なし崩しでどうにかなっちゃいそうだよ。だってこいつ、美少女。俺、童貞。イコール俺、エロス、我慢できない。あああああ、なんでお前は妹のくせにこんなに可愛いんだよォーーー! って、あれ? 妹? こいつ、俺の妹だっけ…? 俺、妹いなかったような気がするんだが…。なんかヘンだな。頭がもやもやする。
「どうしたのユウ兄様? ぼんやりしちゃって」
「…いや、何でもない」
「そう。じゃあ続きを楽しみましょう」
「え、続きって?」
「わたし、まだ物足りないの…」
やめろ。そんなもの欲しそうな目をするな。だけどそんな思いは声に出ることなく、俺の体はアスモデウスを受け入れつつあった。彼女の左手がそっと俺の頬に添えられる。そして、上気した顔がゆっくりと近づいてくる…。あ、ダ、ダメ、そんな、ダメだ…キスしちゃらめぇー!?
バタンッ!
「な、なんだ!?」
突然の衝撃音に思わずドアのほうを向く俺たち。そこには二人の人影があった。
「ハァ、ハァ…見つけたわ、アスモデウス…って、ひぃ!?」
「ご自分のお部屋にいらっしゃったとは、探し回る手間が省けましたぞ、って、うわ!?」
息せき切って真っ先に入ってきたのはドレス姿の少女だった。彼女の名はええと、そうだ、アルメダ、魔界の王妃にして俺の母上だったな。俺と同い年くらいに見えるが、それはあり得ないので、たぶん気のせいだろう。それとその後ろからこっちを覗き見るメガネのオッサンはコックのムエッサイムだったっけ。二人とも俺たちを見てぎょっとした顔をしている。無理もない、年頃の王子と姫がベッドの上でいちゃこらしているのだから。
「ご、誤解だ! 母上、ムエッサイム、俺は何もやましいことなんて…」
「あら兄様、さっきわたしと熱っついベーゼを交わしたばかりじゃありませんの~♡」
「あ、あんた、ユウ、よりによって妹に手を出すなんて…! あたしの可愛いアスモデウスになんてことしてくれちゃってんのよ!?」
まずい、まずいよ! このままじゃ俺、変態ってことにされちゃうよ! 俺、何もしてないのに! …いやキスはしたけど。不可抗力だし。あれ、不可抗力だし!
「し、しかたなかったんだ、母様! あれはコイツが勝手に…」
「だまらっしゃい! あんたなんか息子でも何でもない! この聖剣エルフィオーレの錆にしてやるわ!!」
キィイイン…
響き渡る音とともに、母上の手に聖剣が顕現した。
「え、冗談だよな? 母上…?」
「うがるるる…」
ダメだ、完全に鬼ババの形相になってる。本気で俺を殺す気だ…! クッ、こっちも聖剣マーナヴルを召喚して対抗を…、って、聖剣? 俺、聖剣なんか使ったことないはずだよな…。だってただの王子だし。わけわかんないこと考えてないで早く逃げないと。でも、身体が動かない。アスモデウスのお尻が岩山のように重たく感じるんだ。何だこれ、まるで何かにエネルギーを吸い取られているような…。
「さーあユウ、念仏でも唱えなさい!」
「く、くそったれー!」
今にも俺の首を掻っ切ろうとする母上。しかし幸いにもそれを制止する者がいた。コックのムエッサイムだ。
「お待ちください、アルメダ様! あれは、あの姫様は…」
「邪魔しないで! アスモデウスがどうしたっていうの…はっ、もしかして!?」
「はい。魔審眼を使ってあれの正体をよくご覧になってください」
「わかったわ。魔審眼、発動…!」
黒い魔力光が母上の左目に集まり、その目が赤く染まる。そして俺たちをじっと見て、ヒェッという顔になった。いったいどうしたってんだ?
「うげっ、あ、あれは…!」
「ええ、わたくしには最初っからそう見えておりましたがね。どういうわけか他の皆さんには姫様に見えてしまうようですなあ」
何だ、いったい何をまた驚いているんだ? 意味が分からないが、母上は鬼のような形相から一転、憐れむようにこちらを見はじめた。
「あ、あーっと、ユウ、よく聞きなさい。あんたを殺すのは止めたわ。あんまりにも哀れだし。だからもう、そんな気持ち悪いことはやめなさい、ね?」
「俺は最初から何も…」
「いいえお母様、やめません! わたしにはもっと兄様が必要なの。だからこんなことしちゃう!」
「むぐっ!?」
むっちゅ~れろれろぺろん!
不意を突かれた俺は、またもやアスモデウスの小っちゃな舌の侵入を許してしまった。や、やめろ、そんなに吸い付くな! また母様に殺されそうになるだろうが…!
「ああっ、そんなことを!? もうキモすぎて見てらんないわ…ムエッサイム、これをユウに渡してやってちょうだい…」
「おや、これは…。はい、かしこまりました、アルメダ様」
猛烈なキスの快感に悶絶する俺の横に、いつのまにかムエッサイムがやってきた。そしてアスモデウスの柔らかだが肉を通して肋骨の感触も感じる脇腹を掴んでいた俺の手をとって、何かを渡そうとする。
「むぐっ、むぐぐ?(何だこれ?)」
「これは一見ただの赤いカラコンに見えますが、魔道具の一つ、軽魔審眼でございます。これを目に装着すれば誰でも簡易的に幻術を見破ることができまする」
「むぐぐむ?(幻術?)」
「はい。さあ王子、その目でしかと真実をご覧ください」
まるで媚薬のようなアスモデウスの唾液を飲まされて判断能力を失っていた俺は、なかば言いなりのようにそのカラコンを着けてみた。指先が震えてうまく着けられないと思ったが、不思議なことにそれは自分から眼球に向かって引っ張られるかのように吸着してくれた。すると視界が真っ赤に染まり、うすぼんやりとそのへんの浮遊精霊やらムエッサイムたちの生命力の光やらが見て取れるではないか。これが母上得意の魔審眼の視界というものか。
それにしても。さっきから目の前に見えるイボイボした肉の塊は何だろう。おかしいな、そこには一心不乱に俺の唇に吸い付くアスモデウスの可愛い顔があるはずなのに。これじゃあどう見たってゴブリンじゃないか。しかも一番ブッサイクな奴。レッサーゴブリンだ。…ん、ゴブリン? って、ええええーーーー!!?? ゴブリンだとォーーーー!!!?
「ぷはっ! くそ離れろ、この野郎ォーーー!!」
「わっ、な、なんですの、いきなり!」
「なんですのじゃねえ、この薄汚いゴブリン野郎がっ! オエ~、ペッペ! ぅう、ちっくしょお…~!!」
「兄様ひどい! こんなにカワイイアスモデウスちゃんですのに~♡」
ふ ざ け ん な。
「死ねッ!!!」
次の瞬間、気が付くと俺は聖剣を顕現させ、アスモデウスに化けていた糞っ垂れゴブリンめがけて一直線に振るっていた。
斬ッ!
剣が深々とベッドに突き刺さる。その衝撃は床を貫通し、断続的に下の階からズシーンという破壊音と甲高い悲鳴が聞こえてきた。ちょっと力が入りすぎてしまったか。だが当のゴブリンは器用に剣を回避して、ムエッサイムと母上をごぼう抜きにして部屋の外に走り去った。
「ちぃッ、逃げられたか…!」
開け放たれている部屋の入口を呆然と見つめる。俺はいつの間にか、悔しさで涙目になっていた。天国から一転、急転直下の大地獄。嗚呼、なんてこの世は理不尽なんだ。こんな思いをするんなら正体に気付かなければよかったと一瞬思いかけたが、傍から見た姿を想像して、あわててバカな考えを打ち消す。やっぱり美少女は本物に限るぜ。
「大丈夫よ、ユウ」
「え?」
部屋の外、廊下の方から声が聞こえてきた。母上の声だ。でも母上は部屋の中。ほら、そこでにこやかに立っているじゃないか。…それにしても息子の俺が言うのもなんだが、笑うとホントかわいいな、この母上は。とても二人も生んだとは思えない。…あー、まあ、今はそんなこと思ってる場合じゃない。なんて思っていると、開け放した入口のドアから母上が入ってきた。って、ええ!?
「は、母上が二人!? しかも…」
その手には首根っこを掴まれたゴブリンがぶら下がっているではないか。アスモデウスのドレスを着てるということは、さっき逃げたやつに間違いない。俺は二人の母上を見比べて、アホのようにぽかんと大口を開けて立ち尽くした。