第十四話 アスモデウスの迷宮Ⅲ
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こと、こと。こと、こと。
大きな鍋で、わたくしを煮る音がする。ここは魔王城の厨房。そしてわたくしは、お肉。沸騰したお湯の中でゆっくりと回転しながら、じわじわと肉汁をにじみ出させていく。ああ、なんて心地よいのだろう。身も心も、溶け出していく。このままわたくしは蕩けきって、スープの出汁と成り果てるのだ。そして、にぶく輝く銀の皿によそわれ、台車で運ばれて、朝の食卓に並ぶ。そう、魔界の姫、アスモデウス様の朝食のスープとして。ああ、なんたる光栄! なんたる僥倖か! はやく姫様にこの身を食していただきたい! 彼女の可愛らしいお口に吸い込まれ、ねっとりと舌の上でねぶられて、小っちゃな歯で甘噛みされて、無防備な胃袋へと落とされてドロドロに溶かされたい!! そして最後にはウン、げふ、げふん、何でもないです。ああ、早くわたくしを食べて! 食べてください!! ですが、そんなささやかな願いは、突然に打ち砕かれたのでございます。
ザバ~!
「!?」
いきなり水面の上に影が見えたかと思うと鍋ががくんと動き、哀れなわたくしめの体はコンロの隣の流しに、出汁とともにぶちまけられてしまいました。わたくしが子犬のような目でわけもわからずきょとんとしていると、今度は頭の上から水をぶっかけられました。
「ひゃあ、冷たい! 何ですか!? いったい誰か!?」
寒さに震えるわたくしの目の前にいたのは、白地に赤の刺繍が入った華美なドレスを纏った緑髪ポニーテールの美しい美少女でした。この御方は、ええと…、
「あたしよ、あたし! アルメダよ!! あんたこそコックのくせに鍋なんか入って何してんの、ムエッサイム!?」
そうそう、彼女のお名前はアルメダ。この暗黒の魔界の絶対支配者たる魔王イマデウス様のお妃様。…にしては何だかがさつな雰囲気をかもしていますが、まあ女なんてそんなもの。わたくしは彼女の暴挙に断固抗議することにしました。
「はい、実は朝食のスープを作っていたのですが、あいにく出汁をとるための肉を切らしてしまいまして。仕方ないので代わりにわたくし自身を使っていたのです。では、そろそろ鍋に戻りますので。もう邪魔をしないでください」
まったく、これでは姫様の朝食が台無しです。はやくもう一度煮たって美味しいスープにならないと。…しかし、なぜわたくしは自分が肉になろうなどと思ったのでしょうか。普通はそんなこと思いつくはずないのに。…そういえば、なんだかさっきから頭の中で「お前は鶏、お前は鶏ガラだ…」としきりと声がする気がします。どこかで聞いたことがあるような可愛らしい声が。それを聞くともうスープになりたくって居ても立ってもいられなくなってしまう感じなのです。あ、そうだ。はやくスープにならないと。また鍋に入ろう。
「あ、こらムエッサイム、やめなって! それ以上煮立ったらいくら魔族でも死んじゃうわよ! もう、あなたからも言ってやってちょうだい、アスモデウス!」
え? アスモデウス様ですって!? 姫様がこんな厨房にいらっしゃるですと!? ひ、姫様に早くスープを作り直さないといけない! でも、…もどかしい。ああ、もう我慢できない! いっそこの場で一思いにこの身を召し上がって頂きたい! わたくしは鍋に片足をつっこもうとしたところで踏みとどまって、抑えきれない愛にまみれた顔でがばっと両手を広げて振り向きました。
「姫様! わたくしを食べて! さあ今すぐ召し上がって!!」
「あっ、こらムエッサイム! そんな足上げたポーズで止まらないで! アスモデウスにチ○コが見えちゃうでしょ!?」
「わあ、お母様、前が、前が見えません、真っ暗けです!」
汚いものを見るような目でわたくしを睨むアルメダ様はわずかに頬を染めながらも、あわてて隣にちょこんと立っている醜いレッサーゴブリンの目を手で隠しました。って、何だこのゴブリンは? 生意気にも姫様がお召しになるのと同じドレスなんか着てますし。それに今こいつ、アルメダ様のことをお母様って…?
「あ、あのー、アルメダ様」
「何よ!? チ○コ隠しなさい!」
「はっ、すいません、ついうっかり。ところでその、お隣にいるのはいったい?」
「はあ? あたしの娘でしょうが」
「なんと!? ま、まさか、か、かか、隠し子ですか!?」
「はあ!? 隠し子? ふざけないで!! なんで隠さなきゃなんないの? こぉ~んなに可愛いのに!」
そう言ってアルメダ様は、イボイボだらけのゴブリンほっぺにすりすりと頬ずりを始めました。うわぁ…。
「あ、あの、ばっちいから頬ずりは止めたほうがよろしいかと…」
「まあひどい! ぜ~んぜんばっちくなんかないですゥ! アスモデウスのほっぺは魔界で一番キレイなのよォ! こんなのやっても平気なんだから! ペロペロレロ…」
「ひゃあ、くすぐったいです、お母様!」
わたくしはそのおぞましい光景にあっけにとられて、しばし呆然と眺めておりました。…ん? アスモデウス? アスモデウスですと!?
「アルメダ様! そんなゴブリンにアスモデウス姫様と同じ名前をつけるなんて、とんでもないことですぞ!」
「はあ? ゴブリン? 何のこと?」
「だから、あなたがペロペロしているその醜いレッサーゴブリンのことです!」
義憤にかられたわたくしは、アルメダ様の暴挙に断固抗議いたしました。ですが、その言葉を聞いたアルメダ様は、一瞬顔が凍り付いたかと思うと、すっと立ち上がったのです。そして、おもむろに腰に手をやると、どこからか一振りの剣を取り出して抜き放ち、わたくしに突き付けたではないですか!? びっくらこいて鍋ごと床に転がり落ちるわたくし。ああ、痛い。そんなわたくしを冷たく殺し屋のような目で見下ろすアルメダ様は、低くドスの効いた声でおっしゃいました。
「貴様、このコック野郎。あたしの可愛い可愛いアスモデウスをゴブリンなんかと一緒にして、ただで済むと思うなよ…? さっき自分は肉だとかほざいていたな…。なら、あたしが今ここで三枚におろしてやるよ。この聖剣エルフィオーレでな…!」
「そうですわ、お母様! はやくその無礼で不味そうな肉野郎をずたずたに切り刻んでやりましょう! おい糞コック、貴様のように料理も満足にできない無価値なクズは粉々にしてぶさいくなブタッ鼻オークのエサにでもしてやるわ!」
アルメダ様のスカートを引っ張りながらキャッキャとはしゃぐゴブリンは、わたくしを指さして醜い顔を更に醜く変形させてあざ笑ったのでございます。下等なゴブリン風情が高位の魔族であるこのわたくしを…。そのときゴブリンの顔に、わたくしを捨てた妻の顔が重なって見えたのです。ゆ、ゆるせん…! 次の瞬間、わたくしは衝動的に拳を振り上げてゴブリンに殴りかかっていました。いやはや年を取ると我慢が効かなくなっていけない(相手がもし凶暴な妻だったらわたくしは返り討ちにあって殺されていたかもしれません)。しかし、その拳はゴブリンに届く前に、アルメダ様に受け止められてしまいました。
「止めてくれるな、アルメダ様! わたくしにも守るべきプライドというものがあります!」
「待て。…貴様、何者だ…?」
「へ? アルメダ様? 何者って、わたくし、ムエッサイムです。どう見たってコックのムエッサイムでございましょう?」
「いや、違う…」
「違いません! 本物のムエッサイムです!」
「そうじゃない…」
「そうです!」
「違う、そうじゃなくて!」
そう言って、アルメダ様は、視線をゆっくりと右斜め下に向けました。そう、あのゴブリンのほうに。
「アスモデウスは、とってもいい子だわ。魔族のくせに、それはもう可哀想になるくらいに優しい子なの。そんなあの子が、あんな暴言を吐くなんて、魔界と人間界がひっくり返ってもあり得ない。あるはずがないんだ…! 貴様、あたしの可愛いアスモデウスではないな…?」
ていうか今更気づいたんですか。この人、どれだけ鈍感なのでしょう。どう見たってそれゴブリンですから。アルメダ様は目でも腐ってるんじゃなかろうか。だけどゴブリンの奴めは、しれっと知らん顔で気味悪くぶりっこぶるのです。
「まあ、ひどい! なんてことおっしゃるの、お母様! わたし、本物のアスモデウスです。その証拠に、こんなにもお母様のこと愛してるんですもの!」
ゴブリンは歯の浮くようなセリフを言いながらアルメダ様に飛びつくと、ほっぺにむっちゅ~とキスをしたではありませんか。思わずふにゃ~と嬉しそうに顔を蕩けさせそうなアルメダ様は、もう一方の頬をぎゅっとつねって正気を保つと、同じ手で左目を覆い、つぶやいたのです。
「魔審眼!」
すると彼女の左目は血のスクリーンで覆われ、魔力を帯びて紅く輝き始めました。魔審眼は物の本質を見抜く高度な魔法スキルでございます。これを使えるのは魔界広しと言えども魔将軍クラスの実力者のみ。…それをなぜただの王妃のアルメダ様が使えるのだろう…? そういえばさっきは聖剣まで使っていたし。何かが、ひっかかる。不自然というか、おかしい気がするのです。ですが、それが何なのかがわからない。うっすらともやがかかってきた頭で、ぼんやりとアルメダ様を眺めておりましたが、いつの間にか彼女の顔は真っ青になり、滝のような脂汗が流れているではありませんか。鈍感なアルメダ様も、やっと偽物の正体に気が付いたと見えます。それにしても、なんという嫌そうな表情なのでしょう。ああ、素晴らしい。美少女のこういう顔はなんともそそられるものがあります。
「き、ききき、貴様、ゴ、ゴゴゴゴ、ゴブリンですってェ!?」
「んも~、お母様までひどい! こんなにカワイイアスモデウスちゃんですのに~♡」
「おえ~、気色悪ッ! 離れろ、この偽物めが!」
「…チッ、魔審眼か。バレちゃあしょうがねえ、あばよ!」
「あ、こら、待て!」
ピュー!
スタコラサッサとばかりに脱兎のごとく走り去るゴブリン。それを追ってアルメダ様は厨房の外に飛び出しましたが、すぐに浮かない顔で戻ってまいりました。そしてぴょんと小ジャンプで調理台の上にお尻をのせて座ると、足を組み、あごに手を当てて考えるポーズで黙りこくってしまいました。
「………」
「逃げられたようですな」
「…ええ。あのゴブリン、いったい何者なの…。このあたしの音速の足から逃げ切るなんて、普通じゃない。それにいったいなぜアスモデウスに化けて…、はっ!? 本物のアスモデウスは大丈夫かしら!?」
ふたたび顔を真っ青にさせたアルメダ様はお尻の筋肉だけでバインッと調理台から降り、着地やいなや駆けだそうとしました。あ、アルメダ様…!? わたくしは慌てて彼女の肩を掴んで引き留めたのです。
「ちょっと、何で邪魔するのよ!? 早くあの子のところに行かないと…」
「アルメダ様…」
そのとき、わたくしは彼女の美しい後姿を見て思わず衝動的にその背中に組み付きました。そしてふりふり揺れるポニーテールを引っ張り上げ、ドレスの襟を引っ張ってエロやかなそのうなじを露わにさせてしまったのです。
「ぎゃあ!? な、何すんのムエッサイム、この変態、痴漢魔! あたし子持ちの人妻なのよ!?」
「おや、おかしいですなあ。確かにあなたはとってもセクシーですが、子持ち人妻のようなオーラは感じませんぞ。そういうの、わたくしにはわかるのですよ。それに…」
わたくしの目の前で艶やかになまめくアルメダ様の首筋。うっすらと小麦色をしたその健康的な肌に、あざのように浮かび上がった紋章。それは、まぎれもなく。
魔界の666大禁忌が一つ、ダンジョンノートの紋章だったのです。




