第十三話 アスモデウスの迷宮Ⅱ
* * *
うと、うと…。
心地よいまどろみのなか。
ぱちん!
と音を立てて鼻提灯が破裂したあたしは、その拍子に頬杖ついてた手からずるりと滑り落ちて、椅子の手すりに顔面を強打した!
ゴン!
「ぷぎゃ痛ったぁああい!?」
はっ、ここは…。
暖炉の前…。燃え尽きた薪がぷすぷすと煙を上げている。
あれ、いつの間にか居眠りしてたのか…。今何時だろう? 膝の上で開いていたノートを閉じて壁掛け魔時計を見ると、時刻は朝の七時半。もう朝か…。でもまだ薄暗いな。
あたしはひざ掛け代わりにしていたストールを今度はハンカチ代わりにしてよだれを拭きながら、揺り椅子から立ち上がった。うう、ちょっと肌寒いかな…。
ふと窓の外を見ると、そそり立つ魔王城の本殿は、雪が積もっていつもよりもますます白く見える。
あらら、どうりで寒いわけ。それにこのドレス、胸元が開いててスースーするんだよね。これで冬服がないなんて、この城は不便すぎる。仕方ないからストールをマフラーのように首に巻き付けたけど、まだ寒い。
こりゃあ中から温まらないと風邪ひいちゃうよ。こういうときは、魔界特製のヤミ茶に限るよね。あの闇を葉っぱ一杯に浴びて育ったお茶葉の風味がもー何とも言えないの。まあ舌が子供な人間どもには分からない味でしょうけどね!
さて、小間使いに持ってきてもらおっと。あたしは壁際のダッシュボードに持っていたノートを置いて、備え付けられた伝魔管の蓋を開けると、魔力を込めた声で伝魔番号を伝えた。
「番号! 3.2.6! もしもし、あたしだけど。今すぐヤミ茶を持ってきてちょ~だい! もう寒くって寒くって!」
「てやんでー、うちはソバ屋でぇ、バッキャロー!」
ガチャン、ツー、ツー…
「あ、間違えちゃった、ごめんなさい! …って、ソバって何だろ? 聞いたことないなあ、まあいいや、もう一回…ええと、番号、3.2.5だったかな。あーもしもし、あたし。アルメダだけど。今すぐヤミ茶を…」
「ヲカケニナッタデンマバンゴウハ、ゲンザイツカワレテヲリマセン、ツー、ツー…」
「あれ、おっかし~な。しゃーない、自分で取りに行きますか」
あたしは暖房のない廊下に出るべく、王室御用達のガウンをドレスの上から羽織る。ふと、ダッシュボードの上のノートが目に入った。
…ダンジョンノート。
ダンジョンノート? あれ? このノート、何だっけ。寝る前に読んでたはずなのに中身がちっとも思い出せないや。…ま、いっか。とりあえずヤミ茶、ヤミ茶っと。
鼻歌交じりで部屋を後にしたあたしの目の前に、どこまでも続く廊下が伸びる。窓がなく薄暗いが、おぼろげな魔力照明が点々と灯っているので安心だ。でも、やっぱり寒くって、両肘を抱える寒がりのポーズをしながら歩くけど、べらぼうに長いんだよね、この廊下。このままじゃ厨房に着く前に風邪ひいちゃう。
よし、こうなったら。走ってしまおうかな!
タタタ~
と、軽快なスピード。百メートルを数秒で走るあたしはガウンをマントのごとくなびかせて風のように廊下を駆け抜ける! 時折すれ違うメイドの驚く顔もなんのその。
しかし一向に厨房にたどり着かないのだった。
「おっかしーな。ここ一本道なのに。もしかしてもう通り過ぎちゃったかな?」
そう思った矢先、突如目の前に黒い影が飛び出してきた!
あたしは咄嗟に自分のブレーキを踏んだ! キキーッ! 火花を散らすあたしの踵。この急制動なら、よし、間に合…わないな!
どんがらがっしゃ~ん!
「うわーーーー!」
「きゃーーーー!」
あいたたた、やっちゃたぜ、てへ。
派手にぶつかってずっこけたあたしは、胸の上に圧迫感を感じて目を開いた。すると。
あたしの胸の双丘の上に、もう一つの双丘が乗っかっていた! だが、これは…、違う。
これはおっぱいではない! これは…
「あああああ! なんて美味しそうな桃!」
起き抜けでお腹がすいていたあたしは思わずそれにかぶりついた!
「かぷっ」
「ぎゃあーーー!?」
「も、桃がしゃべったぁあーー!?」
なんと、最近は桃がしゃべるのか!? まさかこの桃、遺伝子組み換えなんじゃ…。
「桃じゃないよ!」
「うわ、またしゃべった!? って、ああっ!? あなたは…!」
ひょこっと桃の向こうからまだ幼さが宿る小さな愛らしいお顔が見えた。
「桃じゃないよ? アスモデウスだよ、アルメダお母様」
「アスモデウス! アスモデウスじゃないの!」
そう、この子は魔界の王妃たるこのアルメダの可愛い可愛い最愛の娘、アスモデウスちゃんなのです! と、いうことは、この目の前の桃は…。
「桃じゃなくってあなたの桃尻だったのね、アスモデウス! でもパンツはどうしたの? 履いてないじゃない」
あたしはもっともな疑問を口にしながら、目の前の可愛らしいお尻とその向こうの可愛らしい顔を交互に眺めた。
あ、顔が真っ赤になった、カワイイ!
「その、あの…、怒らないでくださいね。実は、おねしょをしてしまって…」
「まあ! もー、しょーがない子ねえ!」
「み、みんなには内緒にしておいてくださいね、お母様?」
「ふう、しかたないわねえ…。わかったわ。お母様とアスモデウスの、二人だけのヒ・ミ・ツ、よ!」
そう言って、ちょんとアスモデウスのお尻をつつくと、ぴくんとその身体を震わせた。
ああ、まるで小動物みたい。
「ちょ、お母様、お尻つっつかないでぇ!?」
「あ~ら、ごめんねぇ。あんまりかわいかったもんだから、つい」
「もう、お母様ったら!」
ぷんすか怒りながら、横たわる私の頭の上にすっくと立つアスモデウス。
私はその眺めに、思わず鼻血を噴射した。
ズピュー!
「うわぁ!?」
「あらまあ、アスモデウスのお尻が真っ赤になったわ!」
おサルさんみたいでカワイイ!
でもアスモデウスはまくったスカートの中を見て困り顔。
「まあ、どうしましょう、血が…!」
「ごめんねぇ、汚しちゃったわぁ」
「いえ、それよりもお母様が心配です…」
ああ、自分のドレスよりもあたしのことを心配するなんて!
優しいアスモデウスは、手に持っていた布きれをひねって太いこより状にすると、あたしの鼻の穴にぎゅっと詰めてくれた。布に吸われて、瞬く間に鼻血が止まる。でも…。
ふと感じるものがあったあたしはむくっと起き上った。
「アスモデウスや、この布はもしかして…」
「はい、私がさっきまで履いていたお気に入りのパンツです。でも、大事なお母様には替えられませんから…」
ああああああ! なんてこと!
なんて、なんて健気なのぉおおおお!?
あたしは感極まって、アスモデウスの華奢な体をぎゅうっと抱きしめた!
「やだ、お母様? 恥ずかしいです…。私、もう子供じゃありませんのに…」
「ああああああ、なんて優しい子なのぉーーーー! できることならあたしが代わりにパンツになってあげたいわァーーーーー!!」
「やぁん、鼻血ついちゃう…!」
はっ、しまった!?
そうだった、あたしのせいでアスモデウスのドレスとお尻とパンツを汚してしまったのだった…。
可哀想に、どうしよう。
そうよ洗濯、はやく洗濯しなくちゃ!
「お洋服を洗わなくっちゃ! さ、おいで、アスモデウス! ランドリーに行きましょ!」
「あっ、お母様…!」
いきなりぐいっと手を引かれて戸惑うアスモデウス。
だけどあたしはお構いなしに廊下をずんずん引っ張ってゆく。そして五分ほど歩くと、右手に部屋の入口が見えてきた。
あった、あそこだ! ランドリーだ!
さ、血が渇く前にちゃっちゃと洗っちゃいましょ。
あたし達は部屋に入った。そこは厨房だった。
「あれ?」
「もう、お母様ったら。ランドリーは二つ先の部屋ですよ」
「ああ、そうだった。さ、そっちに行きましょ」
あたしとしたことが、とんだドジ。
でもまだ起きたばかり、寝ぼけてるから仕方ない。
さあ、見えてきた二つ先の部屋。
到着!
あたし達は部屋に入った。そこはまた厨房だった。
「あれれ?」
「もう、お母様ったら。ランドリーは三つ先の部屋ですよ」
「あれ、そうだったっけ。じゃ、そっちに行きましょ」
やれやれ、昨日は激しい戦闘があったから。きっとまだ寝たりないんだ。…ん?
戦闘? 誰と?
あたし王妃様なのに。
そっか、夢。夢でも見たんだろう。ぷるぷると顔を振って眠気を振り払う。
さあ、ランドリーはすぐそこだ!
到着!
あたし達は部屋に入った。
「やった、厨房についたぞぉ! って、あんれぇ~!?」
「もう、お母様ったら。ランドリーは五つ先の部屋ですよ」
「…。そ、そうよね。そうだったわよね…」
こんなに何度も間違うなんて、はっ! まさか若年ボケ!?
そんな、この賢いアルメダちゃんが!? ありえない。
だってあたしはこの魔界を守る最強の魔将軍…、あれ?
違うな、あたしは王妃、…だっけ? だったよね。あー、何だろう、頭がもやもやしてきた。
そうこうしてるうちに五つ先の部屋。
「また厨房!?」
「もう、お母様ったら。ランドリーは十五個先の部屋ですよ」
「ぐ、ぐぬぬ…うおお!」
あたしは駆けた。
「もう、お母様ったら。ランドリーは三十七個先の部屋ですよ」
「うおおお!」
駆け続けた。
「もう、お母様ったら。ランドリーは百七十六個先の部屋ですよ」
「うおおおお!」
「もう、お母様ったら。ランドリーは千二百…」
「ぬおおおおお!」
「もう、お母様ったら。ランドリーは…」
「ぬぐおおおおおおお!!」
* * *
それから。
いったいどれだけ走っただろう。あたしは目の前の部屋に息も絶え絶え這い入った。
「ぜぇ、ぜぇ…。ま、また…。また、厨房…だと?」
「もう、お母様ったら。ランドリーは百万とんで五千六百…」
「も、もういいわ、アスモデウス。ここ、ここで洗いましょ…!」
「え? でも、ここは厨房。お芋を洗う場所であって、パンツを洗う場所ではありませんよ」
「いいの。よくコックがscritterでお鍋でお風呂とか自撮りしてるでしょ。洗濯ぐらい、かまやしないわ」
scritterは、死霊の叫び声を使って文章を伝える魔界のコミュニケーションアプリだ。手軽に友達に呪いの言葉を投げかけることができるので若魔物達に大人気。当然あたしの携帯魔力通信端末にも入ってる。でも叫び声がうるさいからって、城内はマジフォン禁止なんだよね。マジうざい。
っと、今はそんなことを言っている場合じゃない。ほら、鼻に詰めていたパンツが鼻血でカピカピになっちゃってる。
幸いコックもいないことだし、ちゃっちゃとやっちゃおう。
「えーと、流しは…」
ざっと目の前の二十メートル四方はある厨房内を見渡す。
かなりの広さだが、この城はランダムに雑魚モンスターが湧き続けるので、これでも全然足りないくらいだ。さっきどの部屋に入っても厨房だったのも、彼らの食事をまかなうためたくさんあると考えれば合点がいく。
さて、部屋の中央には調理台が並び、その奥の壁面に大きな食器棚、その隣に拷問用具を改造した魅惑的な調理器具がずらりと壁掛けされている。
流しはそのすぐ下だ。
が、あたしの目はそのすぐ横のコンロに目が行った。
大きな大きな鍋が、コトコト音をたてて湯気を上げている。どうやら調理中のようだ。が、コックはいない。きっとトイレでウンコでもしてるのだろう。
しめしめ、今のうち。こっそりと洗ってしまおう。
アスモデウスを連れたまま狭い調理台横の通路を抜けて、流し台の前に到着。とりあえず持っていた血染めのパンツをそのへんのボウルに入れて、蛇口から水をぶっかける。ぶっかけながら、なにげに隣の大鍋を覗き込む。あわよくばつまみ食いしてしまう魂胆である。
「げっ、なにこれ」
一見鶏がらに見えるが、大きい。
大きいんだけど、なんだかすごく不味そうな肉だ。ボコボコと湧き上がる沸騰した泡にあおられて、ゆっくりと回転している。薄気味の悪いそれから、なんだか目が離せなくなる。それはなおもゆっくり回転し、そして、不意にぐりんと向きを変えた。
目が、あった。その瞬間、あたしはあまりの恐怖で凍り付いた。
「あ、あんた…、ムエッサイム!?」




