疑心
「……ん?」
慎は急に意識を取り戻したかのように目を開けた。立ち上がって辺りを見回すと、そこは緑豊かな森の中だった。慎が寝ていた場所はちょうどよいくらいに窪んでおり、苔が生えて柔らかいクッションのようになっている。その苔は淡く発光しており、周りの木々や岩もまた同じように中性色の光を帯びている。葉っぱの天蓋の隙間から見える夜空は、標高の高い場所から見たように美しく、小さく見える星も周りの星に負けじと輝いている。ここまで明るい森から見てもたくさんの星が見えるこの場所が普通でないことは、慎にはすぐわかった。
不思議と不安な気持ちにはならず、月白の安否が気になった。すると足に温かいものが寄り添ってくる。見ずともわかる。しゃがみ込んで月白の両耳の後ろをかいてやる。いつもなら嬉しそうにするのに、今回だけは慎の後ろをじっと見据えている。
「おい」
後ろから声が聞こえ、驚いて慎も月白の視線に従うように振り向くと、強い光を放つ柱のようなものがあった。しかし、瞬きをするほどの眩しさなのに全く眩しく感じない。
「なんだ、このサンピラー」
何故か慎は妙に冷静だった。
「誰がサンピラーか。というかサンピラーとはなんだ」
サンピラーから男の低い声がする。壁もない空間なのに声が反響して聞こえる。
「うわ! サンピラーが喋った」
「だからサンピラーってなんだ! こっちの話を聞け小僧!」
「……はい、うん。ここどこ? もしかしてお前が連れてきたの?」
「言ったそばから貴様……ここはお前の夢を変形させた場所だ。だから連れてきたというのは違う。俺が自らここへ来たのだ」
森は全く音がしない。おそらくそれは自分の夢だから、この空間を感じたことがないからなのだろう。
「そして貴様、お前とはなんだ、お前とは。この俺を誰だと心得る。……し、神霊だぞ」
サンピラーは何かを言いかけ、それを訂正するように言いかえた。
「つまり妖である、と」
「あのような下等なやつらと一緒にするでない。これでも元は人間だ。今は幽世から離れてしまったせいでこのような姿になってはいるが、ちゃんとした人間の姿をしている」
「幽世……? どこかで聞いたことがあるような」
「俺が誰か、なんてことはどうでもいい。本題に入るぞ」
サンピラーが声を低くする。もともと低い声がさらに低くなると妙にくぐもって聞こえる。
「貴様、最近夢を見ないな?」
慎は少し動揺してしまった。何故わかるのだろう、と。
「おそらく今やっている修行というものがお前には合っていないのだろう。岩での修行はどうした? 水に波紋を描けたからといって修行を怠ってはいかん。あれはお前には向いていないが、集中力を高めるには最適だ」
「はあ……」
「そして、貴様のせいでその犬も本来の力を取り戻していない。もともと強いその神獣は、お前に随分と思い入れがあるようだな。すぐお前に懐いて完全な絆を構築している」
「完全な絆?」
「式鬼と術氏の間に必要なものだ。だが、それ故にこいつはこのようにただの犬の姿のままだ。急にできてしまったその絆のせいで、お前と犬は勝手に妖力と霊力の供給を始めている。しかしお前がまだ霊力の扱い方を知らないせいで、この犬にうまく力を送り込むこともできず、しかもお前に送り込まれた霊力がただ溜まっていくだけで、力が弱いせいで妖力に変換できないでいる。だからさっさと修行して自分を鍛え上げろと言っているのだ」
「その話と夢とは何の関係が……」
「貴様まだ気づいていないのか? この犬の権能は『記憶』だ。妖にもそれぞれ種類があってな。神に近いものほど特性がある。その特性を、"権能"という。この犬は今必死にお前の記憶の断片を集めている。だがさっき言ったように、この犬への妖力の供給量が極端に少ないせいで、この犬も力を出し切れず、集めるに集められないのだ。その犬や自分のためにも、修行には力を入れておくように」
「……それだけ?」
慎はなんとなく、それだけを言うためにこのサンピラーが現れたとは思えなかった。きっと何か、もっと深い理由があるに違いないと思っていた。
案の定、サンピラーは動揺したのか一瞬光の色が変わった。
「……貴様には強くなってもらわねばならない理由がもう一つある」
退屈になったのか月白が胡坐をかいている慎の膝の上に頭をのせた。
「貴様のなかには、もう一人の人間がいる」
「――は? え?」
全く理解できず慎は訊き返した。
「信じることができなくても、いずれわかることだ。言っておくが、二重人格とかそういうものではないぞ。そのもう一人というのは俺の友人なのだ」
「…………」
サンピラーの後ろに見える夜空の地平線が少しずつ温かみのある色に染まっていく。暁の空だ。
「貴様が力を使いきれていないせいで、友人の霊力が貴様に吸い取られ、今は貴様の中で弱体化している。言ってしまえば胎児と同じような状態になっている。このまま霊力がなくなっていけば、友人は貴様の中で息絶えてしまう……俺はなんとしてもそれを阻止し、友人をお前の中から救い出さねばならん。しかし、友人の今の状態からして助けるのは不可能なのだ」
慎はここにきてからずっと新しいこと、驚くことが続き何を説明されても勝手に頭が理解してくれるようになっていた。このサンピラーはただ単純に慎に強くなってほしいだけなのだ。
「夢で説教されるとは思わなかったな」
サンピラーの背後が太陽の光で満たされる。空に浮かぶ雲が朝焼けで桃色に染められる。
「ああ、そろそろ時間だな。いずれわかることだろうから、最後に一つ教えてやろう。あの幸久とかいう男、あいつは八花団、団長の一人の生まれ変わりだ」
「えっ」
「じゃあな小僧。幽世で待っているぞ」
世界が白く染められ、慎は光の世界へ引き込まれていく。一瞬、髪を総髪にした群青色の袴姿の男の背が見えた。この背はどこかで見たことがある。しかし思い出せない。慎の意識はぐんぐん現実に引っ張られていく。
目が覚め、視界には慎の部屋の天井が見える。まだ陽が昇っていない時刻のようで、部屋は真っ暗で、屋外もまだ青く薄暗い世界のままだった。
「変な夢だな……夢にしてはリアルだったけど」
すっかり目が覚めてしまった慎は、何の気なしに寝間着姿のまま外へ出る。玄関を開けようとしたとき、足元に温かいものが触れる。月白も目が覚めてしまったようで、円らな黒い瞳を慎に向け人懐っこそうに尻尾を振っている。慎は月白に微笑み、頭を少し撫でてから、青い世界へ足を踏み入れた。
日中の暑さはどこへやら。冷えたそよ風が慎の頬を撫で、髪を小さく波立たせる。冷えたアスファルトの匂いが慎の心を落ち着かせた。慎の足はいつもの修行場へ進む。月白が慎にぴったりひっついているおかげで、歩きにくいものの温かい。
森へ入りしばらく歩くと大きな岩がある。岩へ上るには、岩の緩やかな傾斜である部分を上から垂らされたロープを伝う。慣れたもので慎はすいすいと上って行った。上へつくと、暁の様子がよく見える。
何故かこの岩の上は風が強い。慎はそっと目を閉じ、意識を集中させる。弐衛門に言われた方法に、霊力の流れをイメージするというものがあった。体を霊力の膜が覆っているイメージをする。そして次に霊力を膨れ上がらせるイメージをした。
途端に慎に向かってくる風は止み、まるで慎のまわりになにか暑い壁が作られたように静かになった。目の前にある棒についた布は強風にあおられている。
「まあ、一応できるんだけどな」
これが出来た報告をしたときも、弐衛門や幸久は非常に驚いていた。
いつの間にか隣に来ていた月白の瞳に、未だに空に輝き続ける星々の光がちらついている。慎はその場に座ると、月白も慎にひっついて座る。月白が尻尾をふっているのか、何度も慎の背中に尻尾が当たる。
慎はあまりの愛おしさに強く月白を抱きしめた。月白は拒むことなく、ただあまり受け入れる様子もなく、成すがままだった。
「俺のせいなのか?」
慎は月白を抱きしめたまま訊く。
「俺のせいでお前は……」
月白は悲しそうに、それでも慎を慰めるように小さく唸った。
太陽が昇り始め、星がだんだんと消えていく。あの夢に見た世界と比べれば向こうのほうが美しいが、澄んだ空気は同じくらいに慎の肺を清らかに満たした。世界が太陽の光を受け、輝きを増す。まるで先程まで空で輝いていた、生の輝きを放つ星のように。
一時間ほどのんびり太陽が昇る様を見た後、そろそろ帰ろうと帰った頃には幸久も弐衛門も起きていた。弐衛門には、朝帰りだとからかわれ、幸久には眠気眼で怪訝そうな顔をされた。
自室に戻り制服に着替え、居間に降りると朝食の用意がされていた。弐衛門は食事を済ませ、縁側に寝転がって居眠りをしている。
朝食を終え皿洗いを手伝いながら、男に言われたことを思い出す。「団長の一人の生まれ変わり」……。ほぼ信憑性のない話であるものの、何故かそんな気がしてしまう。だいたいあれはなんだったのだろうか? 夢である筈なのに夢である気がしない。触れることはできないのに確かにそこに存在する、雲のような夢だった。
慎はあんな夢を信じ切っている自分に呆れて少し口元が緩んでしまった。
「やっと昔の記憶を見たのか?」
幸久が皿を拭きながら言う。
「え?」
「妙にそわそわしてるし。夢で何かあったかと思ったんだけど」
どうやら慎は自分でも気づかないうちに、自分の落ち着かない気持ちを表に出していたらしい。
慎はあの男のことを話すべきかどうか迷った。何故か話してはいけない気がした。しかしあの男は自分のことを誰にも話すなとは言っていない。とはいえ、男の存在が危ないものであれば、きっと心配させてしまう。
「いや、前と同じで両親と車に乗ってるだけの夢で終わったよ」
嘘をついてしまった。嘘をつくなと言われたのに。
「そうか? でも、また夢を見れたのはいい兆候だな」
幸久は最後の食器である湯呑を拭き終わり、慎に笑顔を向ける。慎も笑顔を返す。
「あ、そういえば。"権能"ってわかる?」
慎がそれを訊くと、幸久は驚いたように目を丸くする。
「お前、どこでそんな言葉を……」
「あ、いや、その……あれ、読んだんだ! 和綴じの資料!」
慎が焦ったようにそう言うと、幸久はその様子を不思議そうに見ていたが、納得してくれたようだ。
「"権能"といえば、妖や神がもっている特徴のことだな。ちなみに弁柄の権能は"山火事"、つまり"火"だ。権能の種類の中で最も多い。次に多いのが"水"、その次が"風"だ」
「へー。月白は……"記憶"、なのかな?」
慎がどぎまぎしながらそう言うと、また幸久は不思議そうな顔をした。
「お前、やっぱり今日なんか変だぞ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよ」
「……ま、おそらくはそうだろうな。慎が徐々に覚えていない記憶を夢に見るということは、月白の力が関与している可能性はかなり高い」
突然家のインターホンが鳴る。弐衛門が「はーい」と出て行く音が聞こえた。幸久も慎も、こんな朝早くからの来客を不思議に思い、玄関まで出て行く。
そこには落胆した制服姿のダリアがいた。赤縁の眼鏡をかけて俯いているため表情がわからない。
「どうしたー、こんな朝早くに」
弐衛門が快く迎えながら言う。慎はダリアがここに来た理由がよくわからなかったが、幸久はどうやらわかっているようで澄まし顔をしている。
「今日は……」
いつもとは打って変わった暗い声でダリアが呟く。
「ん?」
「今日は期末テストの結果発表だよ! 不安だから幸久のつくるコーヒー飲んで落ち着いてから行くの!」
「補習まっしぐらだ……」
期末テストの結果が出され、御手洗の周りの空気だけが暗く淀んでいるように見える。
「ひゅー」
「わかりきってたことだろ」
慎は抑揚のない声でわざと囃し立てる言葉を使い、幸久も冷たい対応をする。
「幸久くん、結果どうだった?」
クラスの女子が幸久に話しかけてきた。御手洗は慎と幸久にだけ聞こえるくらいの舌打ちをしたが、慎は興味のない人間の恋愛事情には全く関わる気もないので他人の反応を観察していた。
「なんで言わなきゃいけないんだ?」
幸久が感情の籠っていない声で言う。女子のほうもその応えに困惑したようで、次の言葉が出てこないようだった。
「虐めてやんなよ幸久」
御手洗が成る丈明るい声で言ったが、歯ぎしりをしながら言っているせいで滑舌が悪く聞こえる。
御手洗が発言すると、女子は好機が見回ってきたように逃げ出してしまった。
「で、何位?」
慎が女子を見送りながら訊く。
「一位ですけど」
幸久はそう言いながら、無表情でピースサインを二人に向けた。
御手洗は明らかに怪訝な表情をしている。慎はただただ感心していた。その後の御手洗の荒れ様は言うまでもない。
三人は屋上で風を浴びていた。この間幸久が屋上の鍵を開けたままにしていたため、屋上への出入りが可能になっていたのだ。このことは、この三人を含め、ダリアと高梨だけの秘密である。
「あぁ~夏休みかぁ~」
御手洗が気だるげに手すりに背を預けながら言う。
「幸久はバイトだよなー。慎は?」
御手洗が慎に訊く。幸久が夏休みにバイトをすることを初めて聞き、慎は答えに当惑した。
「慎も俺と一緒でバイトだよ」
幸久が助け船を出す。しかし慎もバイトをすることになっており、思わず疑問の声を上げそうになった。
「まじかよ。俺なんか補習と部活三昧だわ」
「頑張れよ」
あからさまに落胆する御手洗を見て、とりあえずバイトのことは後々聞くことにした慎はせせら笑った。
「俺達も最初の一週間は講習あるからな」
幸久がせせら笑っている慎に意地悪い笑顔を向け、追い打ちの言葉をかけた。
「嘘だろ?」
「ざまあ」
夏の日差しが三人の肌を灼く。生暖かい風が三人の髪や服をなびかせていた。
「そういえばなんでお前ら部活してないの? 普通入ってなきゃいけないだろ」
「そりゃ、そこはボウヨウ様の力だよ」
「出たよ、ボウヨウ様」
御手洗が呆れたように言う。
「いいよなーお前らは。いるかどうかも定かじゃない存在のおかげで部活も入らなくていいなんてさ」
「え?」
御手洗の不可解な発言に慎は幸久を見たが、幸久は慎を目線で牽制した。
「そのボウヨウ様のおかげでボウヨウ祭が行えるんだろうが」
「あ、そういえば今年のボウヨウ祭って夏休み前にあるんだろ? なんでなんだ?」
「色々あるんだよ」
慎は二人の会話について行けず、吹き付ける風にまどろんでいた。ふとあの夢に見た世界と、サンピラーの姿をした男を思い出した。
――幽世にいるということは、ボウヨウ祭のときに会うのだろうか。
帰る時間になり、部活へ行かなければならない御手洗を二人が見送った。
「テストも終わったし、さっさと夏休みの課題を終わらせられるな」
幸久が伸びをしながら言う。
「そういえば、バイトって何のバイト?」
「勿論、ニエの手伝いだよ」
「え、いや、俺は妖怪退治とかできないけど……」
「安心しろ。お前とダリアの社会科見学みたいなもんだから、お前たちが直接手を下すことはないだろう」
「ふうん……あと、ニエが存在しないことになってるのか? ここでは」
「違うよ。成人してない人間にボウヨウ様は見えないだけだ」
慎は幸久のその言い方に違和感を感じた。
「どういうこと?」
「ああ、言ってなかったか。ボウヨウ様っていうのは、この土地に昔からいる神様のことだ」
「ニエのことじゃないのか? ボウヨウ様ってのは」
「確かにニエのことだが……うーん、ちょっと説明長くなるけど。ボウヨウ様っていうのは、元々別の名前を持っていたこの土地の神様のことだったんだ。ある年、ここは飢饉に襲われて、神頼みも通じなかったそうだ。そんなとき、この村に訪れたのがニエの先祖だった。そしてニエの先祖が、土地神の代わりを買って出たんだ。そのおかげでこの村は救われ、ニエの先祖がボウヨウ様って呼ばれるようになったんだ。だから、佐竹家はこの村の人間にとっては一番妖に近い存在、という概念がある。その概念によって、『妖は普通視えないものだから、妖に最も近いボウヨウ様も視えない』っていう謎理論ができて、十の歳になるとボウヨウ様が視えなくなり、成人を越えると視えるようになる」
「じゃあ今、十歳の子どもはニエが視えないの?」
「そういうことになるな。しかも視えなくなるのは佐竹家現当主だけだから、ニエが今の代を継ぐ前はみんなニエが見えていた」
「ていうか俺達は成人も超えてないのに、なんでニエが視えるんだ?」
「ニエが視えていいようにしてるんだ。どうやってるのかはわからないけど」
「じゃ、じゃあさ。あいつ、よくコンビニとかスーパーに買い物行くけど、店員がもし未成年だったら? どうやって会計するんだよ」
「そこもまぁちょちょっとやってどうにかしてるな。というか俺に訊くなよ。そこら辺知りたかったらニエに訊け」
「いや、いいわ。あいつ説明下手だから」
「やっぱお前もそう思うか。たまに変なこと言い出すからなぁ」
その後、幸久がとある畑のある民家に足を踏み入れて行った。
「野菜もらいにいくから、ちょっと待っててな」
慎は幸久にそう言われ、大人しく門外で待つことにした。畑の奥に犬小屋が見え、柴犬が暑そうにしながら日陰に寝そべっている。この暑さにばてているのか、舌をだらしなく口から出している。
慎はその姿がとても微笑ましく思え、早く家に帰って月白に会いたいと思った。
辺りを見回すと、この一軒家の周りは大体が田んぼだった。田んぼには既に水がはられており、夕焼けになろうとしている空をうつし出している。
家の中から、腰を曲げた老婆と幸久が談笑しながら出てきた。老婆は手を振って幸久を見送り、幸久も手を振り返していた。手には大量の野菜が入った袋がいくつも握られている。
「夏野菜?」
慎はわかりきっていることを聞いた。
「ああ、食うか?」
幸久が数袋、慎の手に預け、自分が持っている袋から大きく真っ赤に熟れたトマトを差し出した。
「サンキュ」
慎は器用に袋を腕に回し、トマトを受け取った。艶やかなトマトは立派に育っており、中身がはちきれんばかりに膨らんでいる。今まで氷水にでも浸っていたのか、少し冷たく濡れている。
幸久は胡瓜を取り出して、しゃくっととても小気味のいい音を出して齧った。
「うん、美味い。天野のばあちゃんが作る野菜は天下一品だな」
慎もトマトを齧ってみる。トマトは殆ど酸っぱさを感じない。トマト特有の甘さが慎の口の中に広がる。皮も柔らかく、舌触りもよい。
冷たいトマトが熱い口内を冷やして潤してくれる。じんわりと冷たいものが喉を通って行く感覚が心地いい。
慎はちらりと幸久を見た。
「やっぱりどんなに旨い胡瓜でも、味噌つけて食べたほうがいいな」
幸久がひどく後悔した顔をしている。
「なあ、幸久」
「ん?」
「…………」
慎は夢で言われたことを幸久に言ってしまおうとしていた。しかし、これを話すことによって、幸久を見る目や幸久が自分を見る目が変わってしまうかもしれない、と恐れていた。
「なんだよ」
幸久が少し焦れったそうに慎の顔を覗きこむ。
「……幸久って八花団の団長の生まれ変わり?」
言ってしまうと心の重荷が外されるどころか、また重石が追加されたような苦しさが胸部の内側を締め付けた。
幸久は呆けた顔をして立ち止まってしまった。
慎は顔から火が出る思いでいた。なんてことを言ってしまったのだろう。洞穴があれば一周り早い冬眠をしてしまい気分だった。幸久が何か言ってくれればいいのだが、幸久は否定するわけでも肯定するわけでもなく、未だに慎の顔を一心に見つめて呆然としている。
慎は少し冷や汗をかく。
「……お前、今とんでもないこと言ったぞ」
幸久がやっと口を開き、あまりの唐突さに慎は飛び上がった。それと同時に、咄嗟に俯いてしまった。幸久がどんな相好をしているのか、確かめたくなかった。
――何故言ってしまったのだろう。
そんなことしか頭に浮かばないくらい冷静でいられなかった。頭に熱がこもり火照ってきた。鼓動が妙に重く動く。
幸久は何を言うのだろうか。
突然、慎の背と膝裏に何かがぶつかり、慎は前のめりに倒れ四つん這いの状態になった。
「おっす」
慎の背にタックルをしてきたのは弐衛門だった。コンビニに行っていたのかビニール袋を提げている。
そして慎の膝裏にぶつかったのは月白だった。ちょうど膝カックンのような形になってしまったため慎は力が抜けて立てなかった。月白はそんな慎の周りをくるくる走り回っている。
「お~、野菜大量ですな。明日は夏野菜カレーに決定!」
「そして今晩のデザートはとうもろこしだ」
慎はゆっくり立ち上がった。月白がくるくる回るのを止め、尻尾を振って慎の様子をうかがっている。
「お前さぁ、なんで月白を家に置いて行くんだよ。玄関前でじっとお前のこと待ってて、不憫で仕方ないわ」
弐衛門が頭上から慎に話しかける。
「いや、お前が前言ってた影にしまうやり方が分からなくて……」
慎は顔を上げながら応える。その時、慎はようやく幸久の表情を垣間見ることができた。特に気にしている風ではなかったが、慎はなんだかんだ言って真偽がどうなのか気になっていた。幸久が知る由もないことを、何故知りたがるのかはわからなかったが、心が夜の海のように深く静かに騒めいて落ち着かなかった。
「は? そんなん妖が知ってるからこっちがどうこうしてやる必要ねぇの! 月白がお前の影に入らないのは、なんか理由があるからじゃないのか? 知らねえけど。さ! 帰って飯だ、飯!」
弐衛門はそう捲し立てると、よっぽど腹が減っているのか、足早に家路を急いだ。幸久もそれに付いて行くように歩いて行く。
慎は潮騒の音が耳の奥から聞こえてくるようなものを感じながら、家路の先を歩く二人の呼びかけに応え、傍らにいる犬と共に駆けた。