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祓人稀有道中筆録  作者: 天城 晴巳
狛犬編
7/33

狐の嫁入り

 夏も手前、少し早い梅雨も来て蒸し暑い時期になった。

「今日も雨かぁ……」

 布団から起き上がって、寝間着姿のままカーテンから外を眺めて慎は呟いた。

 慎は朝早くに起こされるせいで、早朝に起きることに慣れてしまい幸久や弐衛門がいなくとも早起きをするようになってしまった。しかし朝早くに起きたからといっても、することはない。だから慎は、朝食を終え着替えを終えたあとは外に散歩に行くという習慣がついた。しかし、ここ連日の雨でそれもできなくなっている。

 慎の足に柔らかいものがあたる。見てみると、狛犬の大きな尻尾が当たっていた。狛犬の姿は、今や頭のない大きな白い犬となっている。狛犬は丸まって寝息を立てている。慎は狛犬が起きないように静かに部屋を出て居間まで行った。


「ご馳走さーん。あ、おはよう」

 居間では弐衛門が朝食を食べ終えたところだった。弐衛門は昨日まで仕事で夜遅くになっても帰ってこなかったため、慎は目を丸くした。

「……仕事は?」

「俺は高給取りだから、行かなくても食っていけるよ?」

「そうではなく、昨日の仕事は?」

「ああ、そっち。分家でどうにかなりそうだったからそっちに回してやった。あいつらの顔も立たせてやらにゃいかんしな」

 慎は聞き流しながら自分の朝食の準備がされている場所に座る。

「いただきます」

 慎がそう言おうとしたとき、庭に面した縁側の障子がスパンと音を立てて開き、ずぶ濡れになって息切れをしている幸久が現れた。雨合羽を着ているにも関わらず、合羽の中までびしょ濡れになっているように見えた。幸久の後ろに見える風景を見てみると、雨が槍のように降り風も吹いている。

 レインコートの中からほんの少し濡れたシュレーディンガーが出てきた。どうやら幸久は外に出ていたシュレーディンガーを迎えに行っていたようだった。シュレーディンガーは感謝の言葉を手向けるように幸久に向き直り一声鳴いた。幸久はかなり疲れている様子で今にも崩れ落ちそうだ。

「おいおい、大丈夫か? ふらふらしてるぞ」

 弐衛門が倒れそうになった幸久を抱えて言った。慎は咄嗟にバスタオルを数枚持ってきた。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 幸久は弱々しい声でそう言った。慎は幸久の顔を覗きこんで額に手を当てた。

「ちょっと熱あるんじゃないのか? とりあえず風呂入ってこい。」

 慎はそう言いながら、雨合羽を脱ぐのを手伝った。案の定、雨合羽の中もびしょ濡れだ。


 慎の言った通り幸久は風邪をひいていた。しかし熱はたいしたほどでもなく、家にある薬を飲んで安静にしていることになった。

「昼飯何がいいかな? やっぱりお粥かな?」

 布団を敷いて寝る準備をしている幸久に慎は訊いた。この言葉に幸久の顔は不満の表情をした。

「俺お粥嫌い」

「病人は黙ってろ」

「訊いてきたくせに何なんだ」

 幸久は敷き終わった布団の上に座り、疲れたように溜息をしたあと咳をした。そこで弐衛門が入ってきた。妙に上機嫌である。

「明日恭子さん来るんだって~。やったぜ」

 そう言って慎の隣に座った。

「幸久お粥嫌いなんだって。なんかいいもんある?」

 慎が弐衛門に訊いた。

「雑炊」

 弐衛門が少し考える素振りをしたあと、閃いたように言った。

「雑炊も嫌い」

「お前意外と好き嫌い多いな!」

「――さっきからくだらない話題で楽しそうにしてるよねェー」

 急に聞こえた女の声に驚き、三人とも声のするほうへ目を向ける。いつ来たのか、幸久の机の上に足を組んで座っているオンディーヌがいる。少し呆れたように笑っている。

「おい。机の上に座るな」

 そう言う幸久にオンディーヌは笑顔で返し、浮かぶように机から離れそのまま幸久に抱き付いた。そして後ろから回した手を幸久の額に当てる。

「どう? 私の手、冷たくて気持ちいいでしょ」

「体も冷たいせいで寒気が止まらないから離れろ」

 それでも冷静な幸久だが、確かに小刻みに震えている。

「で、さっきの昼食の話だけど」

 オンディーヌが幸久から少し離れて慎に視線を移しながら言う。

「ん?」

「ポトフなんてどうかしら? 野菜も入ってるから栄養は結構とれると思うわ」

 オンディーヌは幸久にばれないように、幸久のほうを一瞥した。

「ポトフってなんだ?」

 弐衛門が、誰に訊くでもなく訊いた。

「フランスの家庭料理よ」

「フランスのスープ」

 慎とオンディーヌが同時に言ってしまったせいで、弐衛門は驚いてしまったようだった。

「えーっと、フランスの家庭料理のスープか」

「給食で出たと思うんだけど」

「給食のメニューなんて覚えてるわけないだろ」

 幸久がくしゃみをしてくれたおかげで話題を戻すきっかけができた。

「でも俺、ポトフなんて作り方知らんぞ」

 慎がそう言うとオンディーヌはくすっと笑った。

「ご安心を」

 オンディーヌが右手を出す。その右手の上にどこからともなく水が現れ手紙の封筒の形を作っていく。

「とっておきの精鋭を呼んでおいたわ」

 手紙の封筒の端に「chere ami」と書かれている。

 突然玄関が勢いよく開けられた音と階段を駆け上がる音がした。そして慎達がいる幸久の部屋の襖が大きな音を立てて開け放たれた。そこにはやはりダリアが立っている。

「お前ってうちの玄関を乱暴に扱うことしかできないの?」

「幸久が風邪って!」

 弐衛門の指摘を無視してダリアが心配そうに眉をハの字にして言う。慎はただただダリアの登場の速さに驚くことしかできなかった。

「すぐ治るって」

 幸久が呆れたように言う。

「そうそう。幸久には鬼公がいるから、こんな熱、明日になれば下がってるよ」

「鬼公って何?」

 慎は幸久とも弐衛門ともつかずにとりあえず訊いてみた。

「かなり前に説明した、幸久のもう一体の式鬼だよ」

「えっとー……あ、代々受け継がれてきたって言ってたやつか」

「治癒の物の怪だ。普段は一緒にいないんだよ。な?」

 弐衛門が説明しながら幸久に訊いた。幸久は熱のせいなのか気だるげに頷く。その様子を見かねたのかダリアがわざとらしく咳をした。

「ポトフ、作ればいいんでしょ? 材料はあるの?」

 オンディーヌを睨みながらダリアが言う。オンディーヌはダリアの視線に気づき、頷く代わりにニコリと微笑み幸久に寄り添う。

「さあ。どうなんだ?」

 慎は幸久を見て訊いたが、幸久は明らかに限界を迎えているようだった。薬のせいか眠気に襲われ項垂れている。

「あちゃー。もう寝かせておいたほうがいいな」

 弐衛門がそう言って布団に寝かせた。ダリアは安堵の溜息をついて階段を下りていった。

「にしてもなんでこんなことになってんだ?――ああ、こいつ、熱のせいで忘れてたな」

 弐衛門が幸久の勉強机の引き出しから、赤墨でよくわからない文字が書かれた札をとりだしながら言った。

「何それ」

「鬼公を封印しているものだよ」

「なんで封印してんだよ」

「力が強すぎて、幸久でも制御不可能な時があるから封じ込めてんの。実際鬼公のせいでこいつの親族に近付いた人間が妖気にあてられて死んでるし。それで親父がこいつに封じ込めたんだ。えーと、確か……おい、幸久、どうやって封印を解くんだった?」

 弐衛門が問いかけると、目を半開きにした幸久がめんどくさそうに布団から手を出して、札に触れる。すると、札に水のような波紋が広がり、赤墨の文字が浮かび上がり、文字の形をそのままに円を作り出した。円の中央から白く細い煙がするすると出てくると、そのまま幸久の身体に溶け入るようにして消えて行った。

「これでよし」

 弐衛門が安心しきった声色でそう言う。

「今のが鬼公?」

「うん」

 赤墨の文字が消えた札を幸久の枕元に丁寧に置きながら、弐衛門は安直に答えると、ダリアが入ってきた。

「冷蔵庫から勝手に冷えピタ持ってきちゃった。材料もなんとか揃ってたから作れるよ!」

 幸久の額に丁寧に冷えピタを張りながらダリアは言う。幸久はすっかり眠りについている。ダリアはその様子に微笑みながら布団を優しくたたく。

「風邪のときは寝るのが一番だねー。さ、ポトフ作りますか!」

「まだ昼までかなり時間あるんだが……」




「そして出来上がったものがこちらになります!」

 弐衛門が出来上がったポトフとその他諸々が乗ったお盆を幸久に突き付けながら言う。作り始めた時間はかなり早かったが、弐衛門が邪魔をしたりダリアが案外料理下手であったことからちょうどいい時間にポトフが出来上がった。そしてダリアがブイヨンを作ろうとしてそれを片付けるのにも時間がかかった。

 慎は「何が精鋭だ」と言いたげな咎める目線を、幸久の隣にいるオンディーヌに向けた。しかしオンディーヌは意地悪く微笑むだけだった。

「下で騒いでたのは聞こえてたけど、なんとかできたんだな。よかったよかった」

 だいぶ顔色の良くなった幸久がへらっと笑う。鬼公という物の怪がどれだけの力を持って幸久の体を癒したかがわかる。幸久はポトフをスプーンで掬い飲む。

「うん、うまい。」

「よか――」

「ほんと!? よかった~」

 慎と弐衛門が安堵の声をもらした瞬間、二人の倍に安堵したダリアの声に遮られた。慎はダリアを呆れた様子で見つめたが、本人は全く気付かない様子で微笑みながら幸久を見ている。その慎の様子をオンディーヌと弐衛門がやれやれといった表情で伺っていた。




 翌日、幸久の熱は下がったもののまだ安静にしておこうということで、幸久は学校を休んだ。御手洗と高梨に今日幸久が休むことを伝えると、二人とも大した驚きを示さなかった。

「ふーん。今年初だな」

 御手洗が鼻の頭を搔きながら言う。

「え? 幸久って毎年寝込んだりしてんの?」

「小学生のころから、幸久は学校休みがちだったのよ」

 高梨がダリアの腕に絡みつきながら言う。その様子に少し衝撃を受け、ダリアの表情を見るが、赤縁の眼鏡をかけたダリアは表情一つ変えずに高梨と談笑していた。


 昼休みの時間。慎は弁当を食べ終わると図書室に行って読書をするのだが、その図書室に弁柄がやってきた。いつ来たかはわからないが、座って読書をしている慎の前に、机をはさんで仁王立ちに立っていた。

「うわっ!」

 慎は思わず驚いて声を上げてしまった。慎の他にも読書をしている人がいたのでその人達に睨まれたが、慎は蠅を掃うふりをした。ちらりと弁柄のほうを見るとメモ書きを見せられた。達筆な字で「屋上」と書かれている。その字はどこか見覚えがあったので、弁柄に促されるまま屋上へ足を進めた。

 しかし、ここで現実に戻る。現実と理想は常に違う。それは学校でも同じことだ。当然、屋上への扉には鍵がかかっていて入ることができなかった。

「やっぱり夢は夢で終わるんだな……」

 慎はひとり言を呟いてみた。しかしここで弁柄が不思議そうな顔をする。

「何を言うか。この扉はさっき幸久が外から鍵を開けているから入れるぞ」

 弁柄はそう言った。

「え? いや、でも開かないし」

「そりゃあ誰も使ってなかったら老朽化で開くに開かなくなるだろう」

 そう言われて慎は力いっぱい扉を押してみた。しかし扉は少し軋むだけでびくともしない。

「軟弱なやつだ」

「ちょっとは手伝ってくれてもいいんじゃないの!?」

「男ならそれくらい開けてみせろ! 何を扉一枚に手こずっているんだ!」

 弁柄の言う通りだったのだが、慎はムキになって扉を蹴破った。すると扉が金属が壊れるような音をさせたものの、しっかりと開け放たれた。その先には、雨上がりの清々しい空気と美しい青空が広がっていた。慎は初めて来た屋上に魅せられながら、足を踏み入れた。強くはないものの、髪が風に煽られる。慎の目の前には奥行が2メートル程しかなかったため、横を向いた。

 

 その先にはレジャーシートを敷いてその上で煎餅を頬張る幸久がいた。少しサイズの大きい服を着ていたため、風が吹く度に服がふくらみふわふわと揺れていた。幸久が背筋をピンと伸ばしていたせいかどうかはわからないが、妙にその空間だけ別世界のような神秘的な雰囲気が漂っていた。

 幸久はこちらの存在に気づいてはいるが、こちらを見向きもしなければ声をかけることもしなかった。仕方なく慎は無言で近付いて行った。近付いても幸久は煎餅を頬張ることしかしなかった。

「何してんの」

 沈黙に耐えかねた慎から声をかける。

「見ての通り」

 幸久が涼し気に答え、湯呑に入ったお茶を啜る。湯呑を茶托に乗せ、自分の隣を手で軽く叩いた。座れ、ということらしい。慎が指示通り、靴を脱いで座ると幸久は溜息をもらした。しかしその溜息は疲れというよりは、落ち着いたときに出るような溜息だ。

「で、何しにきたんだ?」

 幸久に煎餅をすすめられたあとに慎は訊いた。

「恭子さんだけがくる予定が近所のおばちゃんたちが集まってうちで井戸端会議中。そのおかげで弐衛門も俺も家から追い出された。俺、病人なのに……」

「どうやって来た?」

「愚問」

 上からそう聞こえ、見上げてみると弁柄がふわふわと宙に浮いていた。そして誇らしげにふふんと鼻を鳴らす。それだけで慎は納得した。

「ところでなんで呼んだの」

「一人は暇だからな」

「…………」

「それに、今日は警告をしにきたんだ」

 幸久がそう言ったとき、山のほうから雷のような音が聞こえた。

「警告?」

「今日は狐の嫁入りがある」

「天気雨? それがどうした?」

「天気雨っていうのはな、狐が大行列をつくっているのを人間に見られないように仕組んだものという説がある。そしてそれを見た者は戻ってくることができない」

「……まじで」

「しかも、その雨は本物の雨ではなく狐たちの怪火という話もある。早めに帰ってくるように」

 確かに空にはちらほらと黒ずんだ雲がある。そして未だ鳴り続ける山の轟音に目を向けながら、慎はふとあることを思い出した。

「ダリアは?」

「ん?」

「ダリアにも言っておいたほうがいいか?」

「いや、あいつはオンディーヌがいるから大丈夫だろ。問題はお前だ」

「俺?」

「お前はまだ未熟だ。それ故に妖が寄り付きやすい。妖は自分達が視える奴が珍しいから、自己顕示のためにこっちに近付いてくる。俺達みたいな仕事をしている人間には式鬼がいるから近寄ってこないが、お前みたいに見習いの間、弱い式鬼を持っている人間には近付いてくる」

 そう言い終わると、どこからともなく大きな烏が現れた。幸久は手に持っていた煎餅を割り、その欠片を烏に与えた。烏は食べにくそうにしている。

「おまけに、お前は狛犬を置き去りにしているからな。妖たちはお前を完全に警戒してない。見ろ、寂しそうに玄関の前に座ってたから連れてきたんだぞ」

 幸久はそう言ってどこから取り出したのか子犬サイズになった首のない狛犬を抱えた。慎は狛犬の惨状を見て、呆然としながら口をパクパクさせることしかできなかった。

「貴様なんてことを!」

 声を出したのは弁柄だった。

 その声がうるさかったのか幸久は弁柄を自分の体の中に封じ込めた。

「今の弁柄の様子を見てわかると思うが、この狛犬はどうやら相当格式が高いらしいな。あの弁柄がこの狛犬に畏敬の念を抱いているようだ」

 狛犬が幸久の手の中でジタバタと暴れ抜け出すと、慎の横に寄り添うように座った。

「可愛いもんだな」

 幸久が皮肉を吐いた。

「なんでこんなに小さく……」

 慎がやっと声を出した。

「お前と離れていると霊力の供給量が減ってこうなるらしいな。お前たちはもう完全に式鬼と術氏の関係だが、距離があるだけでこうはならない。もっと特訓を重ねないとな」

 幸久はそう言うと狛犬の前足を持ち上げて弄んだ。そんなことをされている狛犬があまりにも不憫で、慎は思わず吹き出してしまった。


 そこで慎はハッと思い出した。

「そういえば幸久って、割と風邪ひきやすいのか? なんか高梨がよく寝込んでたって言ってたんだけど」

 慎にそう言われ、幸久は「あー……」と言って、飲んでいた湯飲みを置く。

「昨日、ニエも言ってたけど、俺の持ってる鬼公っていう式神は治癒の物の怪で、割となんでも治してしまう。どんな大きな怪我でも病気でも、こっちが大量の霊力を供給してやれば、二・三日で治してしまう。それで……あー……」

 何故か幸久はそう言いながら、照れくさそうに、困ったように言葉を詰まらせる。

「こやつはあの物の怪がついているからと調子に乗り、余裕ぶっこいて妖に突撃していく故、物理攻撃でも呪詛でもなんでも全て体にそのまま受け止めてしまう。つまり、特攻馬鹿だ」

 その声は幸久の陰から頭だけだしている弁柄の声だった。

 弁柄の言葉に、幸久は恥ずかし気に項垂れる。

「そのせいで、物の怪の力で体を治すのだが、その治すのにもまた霊力ともに妖力を使う。体の消耗と気の消耗が合わさって、結果寝込むということだ。本当に、こやつはただの阿呆なのだ」

 そこまで言って鼻で笑った弁柄の頭を押さえつけ、幸久は弁柄をまた自らの影にねじ込む。

「妖力も使うってどういうこと?」

 慎は弁柄の言った言葉が引っ掛かり、懸命に弁柄を影に押し込んでいる幸久に訊く。

「ほら、俺は半妖だから、霊力も、微量だけど妖力も持ってる。それで、俺には人間の部分と妖の部分が存在してるんだ」

「人間の部分と妖の部分?」

「俺にもよくわかんないんだけど、まぁ二重人格ってことではないんだよ。自我は俺一人だけなんだけど……うーん、説明し辛いな」

 幸久は困ったように笑う。

「とにかく、その妖の部分の姿でいるほうが、鬼公の力も最大限に発揮されて、回復が速いんだよ。で、その分妖力も霊力も使うから、療養のために寝込むってわけ」

 そう答えながら、幸久はまた余計な口を挟もうとする弁柄の頭を殴って押し込んだ。

 言い終えたと同時に昼休み終了のチャイムが鳴った。

「お前……俺の大切な読書の時間を返せ」

「いやいや、お前が訊いてきたんだろうが……じゃあな」

 幸久は早々と片付けを終え帰って行った。狛犬は置いて行った。



 下校の時間になると幸久の言葉通り天気雨が降った。狛犬はすっかり元の大きさに戻っている。

 慎はしばらく下駄箱でぼーっとしていた。特に意図はなかったが、雨が止むまで居ようと思ったのかもしれない。

「慎? 何してんの?」

 ダリアが後ろから声をかけてきた。

「お前こそ、こんな時間まで学校で何やってるんだ」

「私はクラスの仲良いグループと一緒に駄弁ってたの」

 ダリアがニコニコしながら言う。慎もつられて微笑む。

「天気雨だねー。虹見れるかな?」

「どうだろうなー」

 他愛ない話をしていると雨も弱まった。

「じゃあ、俺そろそろ行くわ」

「え……」

 ダリアが不安げな顔をする。

「どうした?」

「……ううん、気をつけてね。また明日!」

「うん、明日」

 ダリアと笑顔で別れたあと、慎は小走りになって帰路につく。狛犬も楽しそうに走りながら慎の後を追う。昼休みに幸久に言われたことを思い出して、少し不安になりスピードを上げる。

 しかし、今度はダリアの言葉を思い出す。虹……ここ数年見たことがない。虹なんてしょっちゅう見るものでもない。もしかしたら出ているかもしれないと、慎は何気なく足を止め、まだこの時間帯には日の高い太陽を見る。小ぶりの雨が陽の光に照らされサンキャッチャーのように輝いている。連日の雨のせいで、山には霧が立ち幻想的な風景が広がっていた。

 にしても周りには人っこ一人いない。やはり狐の嫁入りがあるからなのか。そう思っていると、山のほうへ続く道から何やら太鼓や笛の音がする。

 その音を聞いた瞬間、全身の毛が逆立ち、氷水を頭からぶっかけられたような感覚を覚えた。音のする方を凝視する。

「やばい……」

 慎は無意識にそう言う。だんだんと暗闇と音が近付いてくる。慎は恐怖に足がすくみ動けないでいた。

 後悔した。もっと早くに学校を出ていれば。あのときダリアに話しかけられなければ、と。突然慎は強い力に引っ張られ、何か柔らかいものの上に乗る。そのまま風を切るような勢いで暗闇から遠のいていく。そこで慎は気絶してしまった。






「慎?」

 母親の声で気が付く。慎はまたあの夢を見ている。あの夢の続きだ。

「その若さでまだ死にたくはないだろう。今すぐ止まるのだ!」

 慎は口を開く。もうその声は既に子供の声とは思えぬ神妙な声色だった。

「死にたくなければここで止まれ!」

 母親は豹変した息子をぽかんとして見つめる。父親も驚いて今にもハンドルを誤りそうだった。

「何言ってるんだ慎。ここにいたほうが危ないんだぞ?」

 父親がなるべく優しい声で言う。しかしその中には焦りも含まれていた。

「この先にここよりも危険があるから言っているのだろうが! わからんやつだな!」

「いい加減にしろ! どこでそんな口のきき方を覚えたんだ!」

 父親が逆上して声を荒げる。その瞬間咽かえるような瘴気が辺り一面を包み込んだ。まるで車が太陽の雲のかかった部分に突入したかのように。

 慎は心臓に冷たいものが流れ込むような感覚を感じる。しかし、子供の慎は動じることはない。今や違うものが子供の慎の体を完全に憑依している。

「手遅れになってしまった……」

 子供の慎が呟く。父親がまた何か言おうとしたが母親がそれを遮る。

「もう助かる可能性はほぼない。すまない……」

 子供の慎に憑依している者が俯く。視界には子供の慎の足元が見える。

「――わかりました。しかし、息子の慎だけでも、助けていただけますか?」

 母親がとても丁寧で神妙な声色で言う。子供の慎は驚きの表情で顔を上げるが、すぐ真剣な表情をする。

 子供の慎が口を開いた。



 大きな犬の遠吠えと共に空間が割れ、慎の意識は外に引きずり出される。

 目が覚めると狛犬が淋しそうな声を上げて慎の顔を覗きこんでいる。

「あれ、俺…………うわ、汚っ!」

 慎は地べたで寝ていた。しかもまだ水たまりが残っているため、制服は道路の砂の混じった水でびしょ濡れだった。辺りを見回すと、そこは佐竹家の家の前だった。慎は拍子抜けした顔をする。

 そして何か違和感があることに気付く。家ではない。それより前。狐? いや違う。目の前にいる、狛犬の頭が見えている。

「幸久! ニエ! 大変だ!」

 慎は玄関を勢いよく開け開口一番に大声を出す。すると仁王立ちで腕を組み、眉間に皺を寄せた幸久が視界に飛び込んできた。

「遅い! どれだけ心配したと思ってる! 早く帰ってこいって言っただろうが!」

「え、いや、あの……」

「ダリアに連絡しても自分より早く帰ってしまったと言うし! 今の今までどこで何してたんだ!」

「ご、ごめんなさい……」

 弐衛門が後ろからスキップをしながら「おかえり~」と言ってきた。そして狛犬を見て叫んだ。

「ああ!」

「うるさい!」

「いや幸久、見ろよ! 狛犬に顔が!」

「――あぁ、ほんとだ」

 幸久がようやく落ち着きを取り戻し、慎はほっとした。

「見た感じ大きい柴犬だな」

「可愛い顔しやがって」

 弐衛門は狛犬の耳の後ろをかいて楽しそうにしている。狛犬も気持ちよさそうに目を細めていた。

「名前どうする?」

「さて、どうしたものか」

「なんで犬拾ってきたみたいな会話してんだよ」

 慎が呆れたように言う。

「いやいや、これも大事なステップの一つだ。名前をつけてやることで絆が深まり、また名前をつけた者に縛り付けられる。つまり、ほぼ契約の儀に等しい」

 弐衛門が馬鹿にしたように言うので、慎は弐衛門を睨んだ。

「う~ん。毛の色が白だから『シロ』はどうだ?」

「ありきたりすぎて笑うわ」

 幸久が鼻で笑いながら言う。慎も思わず笑った。

「シロが単純というなら『月白』はどうだ? 月白っていう色の名前からとったんだけど」

 この名づけ方に慎は少し感心してしまった。

「まーた色の名前か」

「また?」

 幸久の呆れ声に慎は反応した。

「弁柄の名前も『弁柄色』っていう色の名前からとってるんだ」

 慎は適当な相槌をうった。

「やっぱりここは名づけに関しては事欠かないダリアに決めてもらおう」

 幸久は携帯電話を取り出しダリアに連絡する。

 数秒して会話は終了した。

「なんて?」

「『ジョン』だって」

「あいつ絶対適当に考えただろ」

 慎は溜息をつく。

「もういいよ、月白で。お前は今日から月白」

 狛犬が嬉しそうに一声鳴いた。

「じゃあ、その狛犬どのタイプにする?」

「タイプ?」

「札に封じ込めて呪縛型にするか、自らの影か体内に隠れさせる開放型にするか」

 慎は眉間に皺を寄せる。

「体内に……?」

 慎に怪訝そうに言われ弐衛門はきょとんとしたが、すぐに慎が考えていることに気付いて快活な笑い声を上げた。

「すまんすまん、言い方が悪かったな。体内にっていうのは、つまり幸久と弁柄みたいにするってことだよ。道化させるってニュアンスに近いな」

「あ、そういうことか」

「ちなみに影に隠れさせるっていうのは、影は自分の分身みたいなものだろ? つまり体内に潜ませてるのとほぼ同じ、と考えてもらっていい」

「それってどっちのほうがメリットあるの?」

「メリット? タイプの? そうだな……式鬼を多く持ってる奴は呪縛型の方が多い。お前は開放型でいいんじゃない? 式鬼を増やしていきたいんだったら、後から変更も可能だし」

「じゃあそうする。閉じ込めるのは可愛そうだ」

 慎がそう言って月白を見ると、月白は嬉しそうに尻尾をふり舌を出した。


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