オンディーヌ
「ご来賓の方々、並びに保護者の皆様の――――」
うららかな入学式の日。桜の花びらはもう半分以上散り、ところどころ新緑の葉が芽吹こうとしている。
慎達の通う高校は公立高校で、地元ではそこそこ偏差値の高い高等学校として知られている。高校の名は省略されて「北高」と呼ばれている。今日はその北高の入学式である。
校長先生の話は何故か催眠効果がある。緊張が解けていた慎はうとうとしていた。しかし、慎の顔に何かがふわりと落ちてきた。黒い羽だった。それには見覚えがあり、幸久のいるほうを一瞥すると弁柄が幸久の体の中に戻っていくところだった。幸久のおかげで慎はうたた寝せずに、無事入学式を終えた。
その後のホームルームも滞りなく進んだ。幸久は窓際に近い位置で、慎が真ん中の一番後ろの席だ。そのホームルームの時間に自分達の自己紹介をさせられたのだが、幸久のときと慎のときだけ小さいどよめきと女子のひそひそ声が聞こえた。幸久のときは歓声のような黄色い声だったが、慎のときはあまり良いことは囁かれていないだろう声色だった。おそらく慎の髪と目の色のことだろう。慎は髪色や目の色のことで噂が立たれたりするのは慣れっこなので、少し節目がちでクラスの視線を気にしないようにした。
その後の自由な時間では、慎と幸久は女子に囲まれてしまった。幸久のほうは質問攻めにされても笑顔で対応していたが、慎は動揺してしまい「あっ」とか「うん」とかしか言えなかった。殆どの質問が髪や目の色に関する質問だったが、動揺のあまり自分でも何と返したのか覚えていない。
「疲れた……」
やっと帰る時間になり、慎は机に突っ伏していた。
「慎、帰るぞ」
帰る準備が済んだ幸久に呼ばれ慎は荷物を持って立ち上がった。と、同時に甘い香りがした。
「一緒に帰ろう!」
後ろから元気よく声をかけてきたのは、赤縁の眼鏡をかけたダリアだ。ダリアは運悪く別のクラスになってしまっていた。
「目が悪いのか?」
慎が気になって聞いた。
「うん。たまーにコンタクトだったり眼鏡だったりするよ」
まだ教室に残っていた生徒はダリアのことを珍しそうに見ていた。ひそひそ声も聞こえる。
「ダリア、帰るよ!」
教室の外から髪を二つ結びにした強気な感じの女子生徒が顔を出した。
「え!? ええっと……」
「いってこいよ。どうせお前帰る方向違うし」
脇から幸久が現れてそう言った。慎は初めて聞いたその情報に「えっ」と小さく驚嘆の声を上げた。
「うん……」
ダリアが寂しそうな顔をして女子生徒のもとまで歩いて行った。
「おーい幸久ー。あの賭けのこと忘れないでよねー!」
女子生徒は少し大げさに口に手を当てて言った。しかもにやついている。
「うるさい。さっさと帰れ」
女子生徒は甲高い声で笑い、行ってしまった。その後を追いダリアもどこかへ行った。姿が見えなくなる寸前にダリアが微笑みながら手を振っているのが見えたが返す間もなくダリアが見えなくなってしまった。慎は振り返し損ねた手の行き場に困っていたが、何故か幸久の肩を軽く殴るという方向にいってしまった。
「なんだよ」
幸久が慎のことを見ずに行った。
「別に」
慎が少しふてくされて言ったのを、幸久は呆れたように溜息で返した。
「そういえば、あの二つ結びの子とは仲良いの?」
帰り道の途中で慎は幸久に聞いた。
「二つ結び? ああ、高梨のことか。いや、別に。幼稚園からずっと一緒の腐れ縁だ。本当はあいつ馬鹿だから北校には来れない筈なのに、何故か急に頭良くなったんだよな」
「ふーん。それで、賭けってなんなんだ? 気になるんだけど」
それを聞くと幸久はあからさまに動揺してギクリとした。慎は怪しいと目で訴えた。
「それは、別に、なんでも……」
「例のアレが起こるかどうかを賭けているのだ」
いつの間にか幸久の体から出ていた弁柄が空中を浮遊しながら代弁した。
「弁柄……」
幸久は上にいる弁柄を睨み付けた。
「例のアレ? なんだそれ」
「こやつが中坊のときに、それは起きてな。幸久のことを好いている女子共が集まって、誰が幸久の心をつかむかという、なんともくだらん事態があったのだ」
幸久は顔を真っ赤にするどころか、反対に真っ青になって俯いていた。
「同年代のみならず、先輩やら後輩やらと多種多様な女子に言い寄られていたのだ。最後には全員で一斉に、ときたもんだ。あの時の幸久の顔は……なんとも滑稽だった」
最後のほうは弁柄は笑いながら話していた。慎は嫉妬とも冷やかしともつかない眼差しを幸久に向けた。幸久は思い出したくもないというような顔をしている。その顔を見ると、慎は幸久を哀れに思ってしまった。
幸久が本当に怒ったのかどうかは定かではないが、弁柄を鬼のような形相で睨み付け、「戻れ」と凄みをかけた。すると弁柄は強い力に吸い寄せられるように幸久の体に戻って行った。最初は抵抗していたがその抵抗も無駄に終わった。どうやら幸久が強制的に戻したらしい。
幸久は溜息をついた。
「今のは忘れてくれ」
「ああ。ずっと覚えておくよ」
「てめえ……」
家まで着くと玄関先でシュレーディンガーが出迎えてくれた。しかしシュレーディンガーはすぐにそっぽを向くと玄関を見つめた。
「どうした、シュレ。お前だったら玄関くらい開けられるだろ?」
シュレーディンガーは不満そうに鳴いた。不思議に思った幸久は玄関の戸に手をかけた。が、玄関には鍵がかかっているらしく動かない。
「ニエのやつ、どっか出かけたのか?」
幸久がポストから鍵を取り出し、鍵を開け家に入る。慎とシュレーディンガーもそれに続いた。
「あー、疲れた」
慎はそう言って居間の畳の上に寝転がった。シュレーディンガーは慎の腹の上に乗って丸まった。
「ちょっとは家事くらい手伝えよなー……」
幸久が溜息をついて洗濯物を片付けに行った。
「晩飯は手伝うよー」
慎が力なく言った。しかし幸久はもうとっくに向こうへ行ってしまったらしい。
慎は未だに、あの金魚鉢に見えた影が気になっていた。慎がシュレーディンガーの存在を忘れて金魚鉢があるほうへ寝返りをうったせいで、流れ落ちるようにゆっくりとシュレーディンガーが慎の腹から落ちた。
慎は金魚鉢を見つめてまたあの影が現れないかと期待していた。何故かあの影が気になる。何故なのかは慎にもわからなかった。あの影に少し、妖の気を感じたからかもしれない。
しばらくして、慎は自分の腹の上に何か冷たい物が乗っている感覚で目が覚めた。
「シュレ……」
慎は自分の腹の上にはシュレーディンガーが乗っていると思ってそれを撫でた。しかし、猫の柔らかい毛はどこにもなく、冷たく滑らかなものが手に触れた。流石に違和感を感じた慎は眠気眼で自分の腹の上に乗っているものを確かめた。
人の下半身。それは慎の体の上で馬乗りになっている。慎は訳も分からずゆっくりとその下半身に繋がる上半身を見た。そこには玉のような美しい肌を露わにした妖艶な美女がいた。女は怪しい笑みを浮かばせ、大きな鋭い瞳で慎を見下ろしていた。
しかしこの女、明らかにおかしい。女から伝わってくる体温が、まるで死人のように冷たいのである。見た瞬間、人間ではないことがなんとなくわかっていたものの、驚きで叫び声を上げた。
その声に馬乗りになった女はきょとんとし、それと同時に幸久が駆け付けた。
「どうした、慎!――オンディーヌ? 何やってんだよ、お前」
「何って、この新人くんの寝顔があんまり可愛いものだから、つい」
オンディーヌと呼ばれた女は色っぽい声でそう言った。
「ねえ、幸久。この子、髪が赤毛だわ! それに目がとても綺麗! もしかして、クォーターなの?」
「そんなことはどうでもいいから、さっさと退いてやれ」
幸久はオンディーヌをどかして、慎を立たせた。
「えっと、これがダリアの――」
「使い魔だ」
「はじめまして、慎くん」
オンディーヌは露わになった豊満な胸の谷間を見せびらかすように少し前かがみになって言った。露出の多い服が風も吹いていないのに、まるで天女の羽衣のように空中でふわふわと動いている。
「ああ、よろしく」
慎はなるべくオンディーヌの耳飾に視線を集中して作り笑いをした。
その時、玄関の戸が開いてダリアの声がした。
「お邪魔しまーす。ねえ、ここにオンディーヌきてない? 昨日から見かけなくって……」
そう言ってダリアが居間の扉を開けた。そしてダリアの表情が凍り付いた。
「チャオ~」
オンディーヌが慎の肩に手をかけ、体をべったりと慎にくっつけながら言った。
「チャオじゃないでしょ! 慎から離れなさい!」
ダリアが顔を真っ赤にして怒った。
「怖い怖い。ただこの子がどんな子か知るためにあんたの元から離れてただけじゃないのよ」
「そのことも怒ってるけど、新人の慎を怖がらせちゃ駄目でしょ!」
「え、いや、俺は別に――」
オンディーヌとダリアが睨みあっている間にいる慎は気まずくて仕方なかった。幸久のほうを一瞥すると、幸久は怪訝そうに睨みあう二人を見つめていた。他所でやってほしい、と言いたがっているようだ。
しかし、結局耐えられなくなったのか、幸久は二人の間に割ってはいった。
「はいはい、やめたやめた。この件に関しては、ダリア。お前が悪い」
幸久が大きくため息をついてそう言った。そしてその言葉を聞いたダリアは愕然とし、オンディーヌは勝ち誇った顔をした。
「な、なんで?」
ダリアがショックを受けた顔で聞いた。慎もこれは気になったので耳を傾けた。
「オンディーヌはお前の使い魔だぞ。その使い魔が勝手に主人の側を離れるってことは、お前のことをオンディーヌが認めていないからだ。言っただろうが。服従させろって」
厳しい顔でそう言う幸久はいつものような母親面ではなく父親面だ。
「で、でも……」
ダリアは悲しそうに俯いた。
「そうそう。これがこの子のいいところなのよ」
オンディーヌはふわりと優雅に宙に浮かび、ダリアの肩に優しく手を置いた。
「この子はそういうの得意じゃないのよ。私を人間と同じように扱ってくれる良い子よ」
ダリアはその言葉を嬉しく思ったのか明るい表情をして顔を上げ、オンディーヌを見た。
「ま、だからこそ丸め込みやすいんだけどね」
オンディーヌはそう言ってダリアにデコピンを喰らわせ、姿を消した。
慎は、精霊のくせにまるで悪魔のようだ、と思いながらオンディーヌが姿を消した場所を見つめた。
「私って、向いてないのかな……」
ダリアが落ち込んだ声を出した。デコピンされた辺りを摩りながら大きなため息をついた。
「そんなことはない。お前だって素質があるんだから。自信を持て」
幸久がダリアの頭を軽く小突いた。ダリアは膨れっ面をして幸久を見上げる。
「たっだいまー」
ちょうどその時弐衛門が帰ってきた。
「おお、お揃いで」
弐衛門はけらけら笑いながら言った。後ろには三十路過ぎくらいの綺麗な女性がいた。
「恭子さん! こんにちは」
幸久の顔がぱっと明るい笑顔に変わった。
「こんにちは、幸久くん。あなたが慎くんね。ニエちゃんから話は聞いてるわ」
「ど、どうも」
恭子が優しい笑顔を浮かべて慎に会釈し、慎もそれに応えた。ダリアは不満そうな顔で恭子を見ている。その様子をオンディーヌが後ろからニヤつきながら見ていた。
「恭子さんは俺達の母親みたいな存在なんだ。ガキのころからずっと育ててくれた」
弐衛門が心底嬉しそうに紹介してくれた。その間恭子は息子に贈るような温かい眼差しを弐衛門に向けていた。
「恭子さん、今日はもしかして恭子さんが晩飯を?」
幸久が恭子に歩み寄った。幸久が犬だったら尻尾を振っているかのような喜びようだった。
「そうよ、料理といってもお刺身なんだけどね。鰆が手に入ったからご馳走してあげたいなと思って。でも来るのは早すぎたわね」
「俺と恭子さんの二人でさっき買い物に行ったんだ! 鰆の卵もあるぞ」
「それは豪勢だなぁ」
そんな他愛のない会話を弐衛門、幸久、恭子の三人で繰り広げているなか、慎とダリアは完全に置いてかれていた。
「私、帰る」
慎が呆然と三人を見ていると、ダリアが怒ったような声色でそう言った。オンディーヌも少し驚いた様子だ。
「そう言うなよ。せっかくきたんだし、昼飯でも――」
「いい」
慎が宥めるも、ダリアはつんとした態度をとって三人を押しやり玄関まで大股で歩いて行った。弐衛門は「もう帰るのか?」とダリアに聞き、幸久は顔を顰めてダリアを睨み、恭子はきょとんとしてダリアを見ている。
慎が急いで追いかけた。オンディーヌもそれに続く。
「おい、ダリア」
ローファーを履いているダリアを、慎は居間の戸を閉めながら呼び止めた。その呼び止めに答えるかのようにダリアは静止した。しかしすぐに動き出して玄関の戸を開けた。開け放たれた玄関からふわりと風が入り、その風にのってダリアの甘い香りがした。そしてダリアは長い髪をふわりと風に靡かせながら、少し顔が見える程度に振り向いた。
「私、あの人嫌い」
ダリアはそう言い捨て、ぴしゃりと玄関の戸を閉めた。玄関には居間から聞こえる三人の楽し気な会話が虚しく響いていた。
慎は困ったようにオンディーヌを見ると、オンディーヌは目を見開き唇をへの字にするというなんとも奇妙な表情をしていた。その目は何かに期待をよせているように爛々と光っていた。