第86話 逃げた先にて
風の精霊フィーと同化して空から街を脱出した俺は、かつてゴブリンを洞窟ごと討伐した谷から時速40kmで30分程、北に行った場所まで飛んできたところにある森の中で地面に足を下ろした。
本当は此れから先の長い旅をもう少し楽にするように、より遠くまで飛びたかったのだがエスト曰く此処から先はワイバーンなどの危険級な魔物の生育地なので空を飛ぶことは勧められないとの事らしい。
身体を一時的に譲渡していたことに関しては極簡単に元に戻すことが出来た。
其の時にフィーから『もう少しマスターの体温を感じたかった』とかなり落ち込んでいるような念話が届いたが、外で眠りにつくときに俺の代わりに身体を動かしてほしいと頼むと元気よく返事をしてきたが、その際に他の精霊からも交代制ですよと突っ込みを受けていた。
一応は周囲に目が無い事を確認していたのだが、念には念を入れて鬱蒼と茂っている森の中に着地したのだが、此処で新たな問題が2つ浮上した。
森の木々が夕焼けで赤く染まりつつあったのだ。
こんな森の中で暗闇になってしまうと、危険度が格段に増してしまうため早めに森を脱出して見通しの良い場所まで移動しなければならないという事が1つ。
もう1つは街から脱出する事ばかり考えていた所為で食料の準備を全くしていなかったこと。
喉の渇きを潤すための水については魔法でどうにかなるが、食料は野生動物を狩るか果物が実っている木を探すか、将又近くの村まで我慢するかの3択しかない。
いっそのこと、魔物を倒してその肉を食すしかないかと思っていると。
《マスター、それは流石にお勧めできません》
《やっぱり魔物を食べるのは非人道的という事か?》
《それもありますが、魔物の身体に流れている血液には人体に対して非常に毒性の高い成分が含まれています。中にはほんの一滴だけでも目に入ると、失明を引き起こしてしまう物も存在しています》
毒に侵されただけなら最悪、回復魔法でどうにかなると考えていたのだがエストの言葉を聞く限りでは可也認識が甘かった事を思い知らされた。
此処で考えていても何も始まらないので森から抜ける最短ルートを聞きながら、周囲に目を瞠りつつ鬱蒼と茂っている草むらを一歩一歩確実に歩いて行く。
《そういえば此処から先はワイバーンとドラゴン種の生育地の為に空を飛んで移動するのは危ないと言ってたけど、森の中を歩く分には問題ないのか? 別の魔物の襲撃は別として》
《精霊と同化しているとはいえ、空を飛ぶには風属性の魔力を常に放出し続けなければなりません。その為、たとえば空に浮きながら【ファイア】を使うという事が出来ません》
《まぁ一度に2種類の魔法を行使するなんて事は出来なさそうだしな》
というか空を飛ぶこと自体、普通ではないので当然の事ながら資料は存在しない。
《そのため万が一にでもドラゴンと遭遇してしまった場合は逃げに徹しなければなりません。魔力で空を飛ぶマスターと、自身の翼で自由に空中を移動するドラゴンとではどちらに有利が火を見るよりも明らかでしょう》
《でも歩いている方が安全だと如何して言い切れる?》
《ワイバーンは如何か分かりませんが、ドラゴンはとある理由で人間並に知能が高い生き物です。その為もあってか、地上には余程の事が無い限り降りてこないんです》
某漫画とか小説では人語を理解し、話すことが出来る存在として描かれているから何となく知能が高いというのは説得力があるが、此処はフィクションとは違い現実だ。
《聖域に到着すれば分る事なのですが、今現在聖域にはエルフ族、ドワーフ族と並び数多の獣人族が存在します。その中には竜人族という種類も居るのですが、今魔物となっているドラゴンは彼等から袂を絶った存在と言われています》
《聖域で暮らしている者達は多種族との交友を大事にしている為、別れた彼等はそれに我慢できなかったのでしょうね。昔、人や多種族と比べて格段に身体能力が優れている自分達が如何して細々とこのような場所で隠れていなければならないと異議を申し立てた竜人族と、それとは反対に他よりも優れているからこそ手を取り合って生きて行かねばならないと言った温厚派の竜人族が諍いを始めたのが事の始まりでした》
そんな考えを持てる者が先祖、もしくは自分自身だというなら知性があっても可笑しくはないか。
この話をしながらエスト達に方向を教えて貰いつつ森を移動し続けて4時間近くが経過したが、とうとう森から脱出できないまま、周囲は一筋の光すら差し込まない完全な暗闇へと変化した。
《マスター、これ以上の移動は危険です。此処は私達に任せてお休みください》
この『任せる』というのは街を脱出した時の様に身体を一時的に精霊へと譲渡し、俺の身体を精霊に動かして貰いつつ、自分自身は寝るという物だ。
意識を譲渡しようがしまいが、結局は俺の身体は動き続けるので疲労回復にならないんじゃないかと思ったのだが、この世界に来る時に体力MAXになっているため別段問題はなかった。
体力があるとはいえ、眠気は容赦なく訪れるが。
精霊は寝なくても良いのかと質問した時には『精霊は人とは違い、眠る必要はない』という答えが返ってきた。
ちなみに身体を譲渡の順番は精霊同士の話し合いの結果、契約した順番という事で風⇒火⇒水⇒土の順になった。
一番最初に契約した無は良いのかと聞いたところ、必要に応じて割り込むという形になったのだが、当然の事ながら割り込まれる精霊が下剋上を申し立てたが、エストのとある一言で全員が黙ってしまった。
その一言を言うときに何故か念話が聞こえなかったので後から皆に聞いたところ、『お願いですから何も聞かないでください』と4人揃って震えるような声で言っていた。
その後、取り敢えずは水で空腹を紛らわせた俺は順番通りにサラに身体を譲渡して眠りについた。
そして俺が完全に意識を無くしてから1時間が経過したころ、精霊同士での会話が始まった。
《マスターは余程疲れていたのですね。身体を譲渡するや否や眠りに陥るだなんて》
《信じていた者達に掌を返すかのように裏切られたのですから致し方ありませんわ》
《マスターの許可さえ頂けるのなら、物理的に生きている事を後悔させるものを》
《言うまでもないとは思いますが、決して負の感情に囚われてはなりませんよ? 私達は前とは違うのですから》
《分かっております。ですが、先程からマスターに危害を齎そうと企む不逞の輩に対してならば別に問題はないでしょう?》
そう言うや否や周囲の草むらの中から飢えたウルフの群れが次々とクロウに襲い掛かってくる。
その数、ゆうに30頭は確実に超えている。
《マスターの御身体を決して傷つけてはなりませんよ》
《当然です。骨も残らず、綺麗に焼き尽くして差し上げますわ》
《ちょっと待ちなさい。今の聖域は食料難に陥っていますからね。例のカードがあるので心配いらないとは思いますが、マスターが聖域に快く迎えられるように成るべく外傷を目立たせずに始末してくださいな》
《他人事だと思って無茶ぶりを言いますね。まぁ後でマスターに喜んでいただけるのであれば、苦にはなりませんけどね》
「グギャン!」
「グアゥ!」
成るべく無傷で始末と言われた赤い髪のクロウ(中身はサラ)は次々と襲いかかってくるウルフを余裕で躱しながら、ウルフの頭部に掌を置くだけで次々とウルフが悲鳴を上げて地面に倒れ伏してゆく。
《脳を瞬時に沸騰させて死に至らしめるなんて、流石は火を司る精霊ですね》
戦闘が開始されて僅か10分ほどで周囲はウルフの死体で埋め尽くされたのだった。
仲間が簡単に殺された事で逸早く逃げ出したのも何頭かいたが、『マスターに危害を及ぼそうとして無事に帰れるとでも?』と口にしたサラによって、例外なく一頭残らず皆殺しにされた。
最初の外傷のないように始末との取り決めで倒れたウルフはそのどれもが、ただ大人しくクロウの足元で眠っているかのようにしか見えなくなっている。
知らない者がこの現状を見たら一瞬、クロウがウルフを手懐けているように思えるかもしれない。
実際はウルフは既に全員息絶えてはいるのだが……。