第128話 姫殿下
「お待たせ! また会えて嬉しいよ、お兄ちゃん」
ヴォルドルム卿に若い執事と共に連れられてきた赤い髪の女性が衝撃の一言を口にした瞬間、応接間の時間が完全に停止したかのように部屋の中が沈黙した。
「お、俺には妹は居なかったはずなんだけど……」
「え~~~お兄ちゃん。リュカの事、忘れちゃったの? 酷いよ」
「いや、悪いけど何のことやらサッパリで」
「木の上であんなに優しく抱きしめてくれたのに……私とは一夜限りの間柄だったんだね。そうやって、とっかえひっかえ色んな女の子を泣かせてきたんでしょ!?」
聞けば聞くほど、俺には訳がわからなかった。
全く身に覚えがない事に顔を青くしていると、それとは真逆に部屋に集まっている皆の顔が段々と赤くなっていく。
ジェレミアさんに至っては俺を視線で殺せそうな目で睨み付けながら、テーブルの角をギリギリと震える手で握りしめている。
その対照的に魔王……いやウェンディーナ様は口元に布を当てて何やら身体を震わせているし、彼女を連れてきたヴォルドルム卿に至っては反省猿を思わせるかのように壁に手を当てて困り果てた表情をしている。
「ねぇ~~~お兄ちゃんってばぁ」
「姫さんよ、ふざけるのも大概にしなよ。兄さん困惑してるぜ」
幾ら記憶を遡っても身に覚えのない事に困り果てていると執事と思われていた男は顔や格好に似あわず、乱暴な口調で女性を嗜める。
「だってぇ、やっと会えたんだよ?」
「その気持ちわりい撫で声を止めろっつってんだよ! 大体が姫さん、そんなキャラじゃねえだろうが! そんな事だから今の今まで嫁の貰い手が見つかんねえんだろうよ」
執事(?)のその一言で俺に甘え、じゃれ付いていた女性の表情が完全に裏返った。
言うなれば般若の面を思わせるような恐ろしい表情だ。赤い髪の女性に背を向ける形で好き勝手な事を口走っている執事の男は不幸にもソレに全くと言っていいほど気が付いていない。
「……ダマレ」
「あん? 姫さん、何か言ったかい? あ~あ、とうとう幻聴まで聞こえる様になったんだな。ますます嫁の貰い手が遠ざかったんじゃ……!?」
そう言いながら女性の方に顔を向けたところでやっと気が付いたようだが時既に遅し。
何故か怪我をして包帯を巻いている筈の右手だけでネックハンギングツリーのように硬直している執事の男の首元を掴むと、思いっきり振りかぶって男を窓の方に投げ飛ばした。
このままでは窓を破壊してしまうと思った其の時、まるで照らし合わせていたかのようにメイドが窓を開けた事により、男は窓の外へと放り投げられた。
俺も急いで窓に駆け寄り、窓から覗く外を見たのだが其処は地上まで10m以上はあろうかという断崖となっていた。
窓の外には屋敷のメイドらしき女性が箒と塵取りを持って庭を掃いていたが、ほんの少し前に男が投げ飛ばされてきたというのに何食わぬ顔で仕事をこなしていた。
運良く崖下に落ちずに済んだのだと思い、窓から離れた数秒後には『グシャ! バキッ! ゴリッ!』っという、聞こえてはならないような音と悲鳴が聞こえてきたことから、やはり投げられた男は只事ではないだろう。
と思っていたのだが、その5分後には首をコキコキと鳴らしながら何事もなかったかのような素知らぬ顔で顔で戻って来ていたのだった。
「姫さんよぉ……右手の力、シャレにならねえんだから気いつけてくれよ。俺じゃなかったら今頃首の骨折って死んでるところだぜ」
「なら、自身の発言にもう少し気を使ったらどうなの? いつか打ち所が悪くなって死んじゃうわよ」
いや、街で一番高い場所から一番低い場所に投げ落とされて、打ち所も何も無いと思うんだけど。
《なぁエスト、あの男は本当に人間か? 人間の皮を被っている翼人ってことはないか?》
《紛れもなく人間だとは思いますが、ちょっと説明がつかないですね。それとも私が知らないだけで、今の時代の人間は無茶苦茶身体能力が高いのでしょうか?》
《いや、アレは流石に異常すぎると思うぞ》
《それはそうとアチラの女性の方が気に掛かりますね。身から漏れ出す波動を見る限りでは魔力の高い人間だと分るのですが、何かが混ざっているような気配も感じられます》
「う~ん、俺の口調が治るのが先か。それとも俺が殴られ過ぎて、くたばるのが先か」
「いい加減にしなさい! 話が進まないじゃないの」
何処かボケとツッコミみたいな2人に対して、しびれを切らしたのかウェンディーナ様が鬼の形相で割って入る。
その他のメンバーは我関せずとばかりに目を瞑り、お茶を嗜んでいる。
「ほらっ、さっさと自己紹介しなさい! それとも私があなた方に代わってクロウさんに紹介してあげましょうか?」
「幾ら伯母上とはいえ、それだけは譲れませんね」
執事(?)の男から『姫さん』と呼ばれた女性は咳払いをした後に佇まいを治すと、それまでのおちゃらけた態度を一変し、真面目な表情になる。
散々ぼけていた執事の男も身なりを整えたかと思うと、鷹の様な鋭い目で女性の右後ろに控える。
「調子に乗り過ぎて怒られてしまいましたので此処からは真面目に……私の名前はリュカローネ。ドラグノア第一王位継承者でした」
ん? 『でした』? 過去形という事は今は違うんだろうか?
「傍に控えているこの者は、部下の中では一番信頼がおける従者のシュナイドです」
「皆さま、初めまして。お転婆姫の従者をしているシュナイドと申します。これからも思わず手を出してしまうほどに物凄く苦労を掛けてしまうと思いますが、どうか見捨てないようにお願いいたします」
真面目な挨拶ではなかったんだろうか……一つも笑っていない鷹の様な鋭い視線で所々に鋭利な棘のような言葉を混ぜながら、冗談を言っている。
「コイツの事は一先ず置いておいて、私が貴方をお兄ちゃんと呼んだ理由だけど、私はこのデリアレイグで貴方に助けて貰って、その時に一晩だけだけど『お兄ちゃん』と呼んだ事が新鮮でね」
「そうは言うけど、俺には心当たりがなさすぎるんだけど」
「まぁそれはそうよね。其の時は訳あって姿を変えていたから憶えてないのも無理はないわ」
リュカローネ姫はそう言うと服のポケットから、何やら見覚えのある魔道具を取り出して掌に載せた状態で俺から良く見える様に、前へと手を突き出した。
見せてくれた魔道具はレイヴが『クレイグ』に姿を変化させるために使っていた魔道具と瓜二つだった。
「これは姿見の魔道具……って言っても、レイヴの持っている魔道具のレプリカだけどね。で、これを使うとどうなるかと言えば」
そう言って手に持っていた魔道具に血を一滴たらして力強く握りしめた次の瞬間、リュカローネ姫の身体から眩い閃光が迸ったかと思えば、その姿は徐々に縮まって行き光が収まる頃には小学校低学年くらいの少女が大人用の大きな服に埋もれている状態になっていた。
其処に居た少女は嘗てデリアレイグに隣接する森でスライムに襲われて逃げていた……。
「りゅ、リュリカ?」
「やっと思い出してくれたんだ。久しぶりだね、お兄ちゃん♪」
そうかリュリカがリュカローネ姫だったんだ。
というか目の前で変身を見せてもらって漸く彼女が誰か判明するんであって、行き成り『お兄ちゃん久しぶり』と言われて対処できるわけがない。
件の少女リュリカはというと、そのままでは非常に不味い恰好だという事で数人のメイドによって運ばれてきたカーテンのような大きい布で部屋の一部に囲いが作られて、その中で着替えているようだ。
布の内側に入って直ぐにまばゆい光が放たれた事から姿を元に戻したと考えられる。
因みに執事の男はというと、それまでの態度から絶対に着替えを覗きに行くのではないかと思っていたのだが、リュカローネ姫が着替えている方に背を向けてドッシリと胡坐をかいて座っていた。
流石に主の着替えを覗くかのような不埒な事はしなかったか……。
それにしても気になったのは布の向こう側に行く、リュリカの姿をしたリュカローネ姫の右腕。
身体の縮小に伴い右腕を覆っていた包帯も緩み解けかかっていたのだが、その包帯と皮膚の隙間から見えたのは蜥蜴や竜を思わせるかのような、黒光りする鱗と人間の物とは思えない鋭い爪だった。
エストの台詞じゃないけど、リュカローネ姫は人間じゃないのか……?