風が孵化する。
油膜めいた君の皮膚をいつ破ろうか?
上位構築めいた夢から覚める。
よっと。
横臥していた僕は重たい腰をあげた。
ぴゅー。ひゅるりり。
薫風がひとつ吹いた。
ちりーん。
風鈴もなる。庇護された朗らかな音。
「ふう、風が気持ちいい。まるでセックスのよう」
僕の横にいる君が呟いた。「おもしろい例えだね」
僕はその畸形な身体を覘きながら、
沈澱していくシンボルを心の奥で感じた。
リトマス試験紙のような彼女の足首を、
僕は両手で壊してしまうように強く握る。
「ふう」これで目が覚めるだろう。
彼女は唖然としているが別に嫌っているわけではなさそうだ。
「どう? 気持いい?」
「……うん」
「さっきの風とどっちがいい?」
「……これ」
彼女は林檎のように真っ赤になった。
こんな日には散歩するにかぎる。
壁に囲繞されている1号公園にやってきた。
相変わらず恋人――君は来ない。
彼女はめったに部屋からでない。なんでだろう? たぶんあの外見に関係あるんだと思う。
とか言っててこの次の話とかその次の話とかで家の外部に出るんだけど、そんなメタな話はいらないか。彼女は「……」無言で僕を見送った。たぶん行かないでほしかったんだと思う。でも、今生の別れじゃあるまいし、百鬼夜行小説でもない。ただ数分間さ。このお話でも君の出番はあまりないんだ。ごめん。
おっと、メタがすぎたかな。――閑話休題
いつも君と一緒にいる。それは恋人同士だから。
でもたまには一人になりたいときがあるものさ。人間だもの。
だから僕はこの孤独趣味を純粋に楽しめそうだ。
これは君への刃こぼれした優しさなんだろうね。
君も一人でテトリスでもしといてよ。
流星群がブランコに宿る。
プラネタリウムの美しさが目に浮かぶ。
公園は夜だった。歪んだ日夜はおもしろい。家を出たのが確か……夕方の5時だったはず。
てくてく。てこてこ。
目の前にシャケ色の人物が歩いてきた。
てくてく。てこてこ。
僕はスルーしようとした。けれど――
「あの~」
僕に用があるのだろうか? 声が掛かった。
それは湾曲した流体細胞の塊だった。
彼は鹿爪らしい様子でこう言った。
「僕の顔を描いてくれませんか」
「うん?」一瞬意味がわからなかったけど、
よく見るとその塊は顔がなかった。のっぺらぼう。
「じゃあ、僕がレイアウトしてあげる」
お気に入りの四次元カバンから蛍光ペンを出して、
その顔に嘘を描いた。
「ありがとう」彼は満足したのか帰って行った。
ダミーの顔でもいいんだろう。
自己同一性を求めていたんだろうな、と僕は思った。
そうさ、人生は人生ゲームのようなモノ。一歩歩けば竜巻で振り出しに戻る。彼はそれが怖かったのだろう。
「ふう~」溜息ひとつ。
そろそろ帰ろうかな。
結局、一人にはなれはしなかった。でも、なんだか、心地よかった。
てってって。とっとっと。
僕は歩いて帰る。
一歩ずつ踏み出して、
それはまるで自首するかのように、
散文詩のように、
奇麗な音韻を踏んで、僕は歩く。
「やっぱり風が気持ちいい」
声がする。君の、五十嵐坂祈りの耽美な美声。
おや、そういうことだったのか。
僕は理解した。そしてカバンの間隙から――
四次元カバンのなかにはひとつのモニター、が見えた。
「君、いたんだね」
「そうよ、ずっといたわよ。物語の最初から、ね」
「まるで、――」
「うん、人生ゲームのように、ね」
ふふ。キメラ化した電波に接続した恋人は笑う。
その笑顔がなんとも……いえない。好きだなあ。
「ね」
「ね」
チューブをチューニングしたばっかだから、
音が清冽だ。君の声が春雷のように聞こえる。気持ちさっぱりだ。耳朶を舐めるよう。
「ねえ」
「なーに」
「この風は君にどんな祝福を与えるんだろう?」
「私は風を感じられないわよ。このモニター越しの世界じゃあ」
「そうか……」
「でも、きっと――」
君は言う。
「私たちへのご都合主義でも歌ってくれているんじゃないかしら」
ふふ。僕は笑う。そうだね。「僕もそう思うよ」
「うんっ。私家で待っているわ。君が帰ってくるのを」
「うん。じゃあね」「じゃあ、ね」
通信は切れた。交差点の信号のように。すぐ。
――そうだ。
いいことを思いついた。
この風を持って帰ろうと思う。君のために。
僕は君を愛しているんだから。
カバンをごそごそ、
お。これこれ。
僕はカメラを取り出して、
カシャリ。
風を記録した。写真に収めることに成功した。
これで土産ができた。君への幾何学模様。愛のプレゼント。
うん。
僕は歩く。僕と君の家に向かって。
考える。にこにこしながら僕は考える。
現像しないとわからないけど、きっと、この風は透き通っているんだろう。
まるで君の白い皮膚みたいに。
と。