禁断の果実
目の前の机に木が置かれている。
その背丈30センチほどの木の枝にはには3つの実がぶら下がっている。
昨晩、仕事終わりに会社の同期の藤田と立ち飲みの居酒屋でビールを何杯か飲み、終電で自宅の最寄駅に帰ってきた。前を見ると駅前のロータリーに軽バンが停まっていて、その前で長机を広げている中年の男がいた。
11月に入って夜はかなり冷え込むのに、変な奴だなと思って、無視してその前を通り過ぎようとした時、男が「そこの兄ちゃん。あんたにはこの机の上に置かれた木にぶら下がる3つの実が何色に見える?」と話しかけてきた。厄介なのに絡まれたと思ったが、ほろ酔いだったのもあり、つい立ち止まってその木を見た。ぶら下がる実は細長い楕円形で、色で言うとちょうど柿ような橙色をしていた。
「うーん、柿みたいな色ですかね」
「兄ちゃんそいつは食べごろだ。どうかな、この木買っていかないか」
「買うって言ったって見たこともない植物の実なんて食べないですよ。だいたいこんな時間に駅前で露店を出してるなんてあなたは一体何者なんですか」
「確かにそれもそうだな。この木はこの世界の理に作用できる力を持つ“禁断の果実”さ」
中年の男は自身の正体については一切語らなかったが、いきなり突拍子のないことを言い出した。
「この世界の理に作用するって言ったって木で世界が変えられるなら誰も苦労しないですよ」
「変えるのは木じゃなくてこの実とそれを食べるあんただがな」
「そんな細かいことは今はいいじゃないですか。今日は寒いしこの通りお酒も飲んで酔っ払ってるので風邪もひきたくない。すみませんが、もう帰りますね」
「俺にはこの実が緑に見えるって言ったらどうだい」
「え?どう見たって緑には見えないでしょう?からかってるんですか」
「いや、俺には深みのある緑に見える」
「そんな訳が……あ、分かりました。色盲ですよそれ。ほら、色が他人と違って見えるアレですよ」
「俺は色盲でも無いし、もし俺が一般的な色盲だったら橙色は黄色や茶色に見えるだろう。緑には見えない」
「そうしたらあなたには、本当にこの実が緑に見えている訳ですね?」
「ああ、間違い無くな。つまり俺にとってこの実は食べごろじゃないってことだ。この禁断の果実は人によって色の見え方が変わるんだ。どうだい面白いだろう。買う気になったかい」
中年の男は鼻を鳴らした。
「いやいや、買わないですよ。あなたが緑色だと嘘をついている可能性もありますし、世界のことわりを変えると言ったって、一体世界の何を変えるかも分からない」
「俺が嘘をついているかどうかは証明の仕様が無いな。この実が持つ力についてもこの実の所有者、つまるところあんたがこの木を買わない限り教えられない決まりになっているんだ。さあどうする」
正体不明の中年の男はこの木を買わない限り、こちらの質問に答える気はないようだ。だが、初めて会うのにも関わらず、不思議と彼が嘘をついているようには思えなかった。目の前の男からは、そう言った類の気迫を感じるのだ。
「はぁ、分かりましたよ。そこまで仰るなら値段次第で検討しますよ。それで、そんな世界の理に作用できる禁断の果実が3つもついた木は一体おいくらなんですか?」
「3000円でどうだ?3000円でこの実の持つ力を使えるなら破格だと思うが」
3000円……いかにも胡散臭い値段設定だ。
しかし自分でもなぜだか分からないが、目の前の植物に興味が湧いていた。
「わかりました。3000円ですね」
そう言って財布から3000円を抜き取り男に手渡した。
「確かに3000円受け取った。これであんたはこの木の所有者って訳だ。では、今からこの実を食べることによって世界の何を変えられるのかを教えよう」
男は一見ガサツな性格に思えたが、上着の袖を左、右の順で丁寧にまくり、いきなりパンッと勢いよく合掌した。男は教えると言っておきながら全く口を開こうとしない……。
つくづく怪しい男だと思っていたその矢先、唐突に耳鳴りと激しい目眩が襲ってくる。それを追って脳みそをすり鉢で潰すような頭痛もしてきた。あまりの痛みと気持ち悪さに耐えられず、体が四つん這いの姿勢になり、数秒後には嘔吐していた。約30秒ほどその状態は続いた。それと同時に自分の頭の中にこの実の食べ方、実を食べることによる作用といった情報が詳細に頭の中に入ってきた。状態が落ち着いてきて、大きく深呼吸を3回して顔を上げる。
目の前からは、中年の男と長机、軽バンに至るまで消えていた。あるのは地面に置かれた一本の木。
不思議な体験を前にして、状況を飲み込めないまま木の生えた植木鉢を抱えて家に帰り、部屋の机の真ん中に置いてシャワーを浴びた。
あの男は一体何者だったのだろう。先程の嘔吐で酔いが覚めてしまったので、家にある缶ビールを開けて、一気に飲み干したが、それでも先刻頭に流れ込んできた情報に納得できなかったので、そのまま滑り込むようにベットに潜り込み、目を閉じた。
朝になった。机の上には3つの橙色の実がぶら下がった木が置いてある。昨晩の不思議な体験は、夢だったというオチはどうやら無かったようだ。
今日は土曜日ということもあり、仕事は休みだ。朝から平日は沸かさない週末限定の湯船に浸かりながらあの禁断の果実の木について考えた。
風呂を上がって適当な服に着替えて椅子に座り、じっくりと木を観察した。
実の色は昨晩と同じ橙色でその他の箇所も昨晩と変わった様子は無かった。湯船にも浸かってある程度落ち着いたので、昨晩の苦痛と同時に頭に流れ込んできた情報を整理しようと思う。
まずは実の食べ方について。
この禁断の果実は皮が薄く、特に皮を剥いたりせずに食べれるようだ。そして食べる時にスイカを食べるときのように“塩”を振って食べなくてはならない。
次に実が世界にもたらす作用、即ちこの実が禁断の果実と呼ばれる所以について。
それがなんとも恐ろしい。
実を食べる時に特定の人物を1人思い浮かべながら食べることで、その想像した人物を初めからこの世に存在していなかった事に出来る力を持っている。ただし、実を食べた張本人には、消した人間の記憶が保持される。
補足として、思い浮かべる人物を直接見たことがなくても実の効果は適用される。“織田信長”を本能寺の変で討った“明智光秀”の存在を消すことも可能な具合と思ってくれればいい。また、塩を振る作業を怠って実を食べた場合、誰を思い浮かべて食べても、自分の存在が無かった事になる。
まるで映画や漫画の様な話だ。あまりに馬鹿げている。だが、昨晩の不思議な体験を思い出すと本当なのではないかと思ってしまう。
こんなにも恐ろしい力は倫理的に考えたらあってはならない。
だが、自分には、どうしても許せない、憎くて仕方のない人間が1人いる。
自分が中学生になる直前の春休みに40歳の若さで父親は他界した。原因は心臓の病だった。
母はそこから女手一つで自分が大学を卒業するまで育てあげてくれた。そんな母に少しでも親孝行できるように上京したい気持ちを堪え、就職先は実家の近くにしようと考えていた。だが、母は自分の気持ちを見透かすように「私のことはいいから思いっきり、上京してきなさい!」と背中を押してくれた。都心での仕事は想像より忙しく、実家に帰れるのは、せいぜいお盆と年末だけになってしまっていた。
今まで育ててくれた感謝の気持ちとそばに居て親孝行をしてあげられない申し訳なさから、それほど自分の生活に余裕はなかったが、せめのもの気持ちとして、毎月の給料から母の口座に5万円を振り込んでいた。
毎年実家に1人で帰るたびに「あんたそっちに彼女の1人や友達でもいないのかい。私は心配よ」なんて言われるので、彼女はいなかったが、去年の年末には仲の良い会社の同期の藤田を連れて3人で年末を過ごした。
「藤田くん、こんな息子だけどどうか仲良くしてやってください。ちょっと当たりが強い時もあるけど、根はすごく優しいのよ」
「全く、息子さんもこんな素敵で明るいお母さんがいるなんて幸せものですね。こんな年末にお邪魔しちゃって、すみません」
「そんな、ご丁寧にありがとうございます。こちらこそこんな家でよければ自分の家みたいに気楽にくつろいでね」
「ありがとうございます。ゆっくりしていきます」
「あらそうだわ、年越しそば。藤田くんは天ぷらどれにする?エビ、イカ、かき揚げたくさんあるわよ」
人懐っこい性格の藤田をどうやら母はすぐに気に入ったらしく、2人は以前からの友達の様に打ち解けあっていた。あんなに楽しそうにしている母は久しぶりで、そんな母と藤田を遠目で見ているのは、気持ちが良かった。
今年の梅雨明けの朝に久しぶりに母に電話を掛けた。梅雨の生暖かさが後を引き、頭の片隅に低気圧を感じる目覚めの悪い不安を煽られる様な朝だった。電話が繋がるといきなり「新婚生活はどう?結婚式すごく楽しみにしてるわ!」と言われた。
何の話か全く分からなかった。自分には結婚どころか彼女もいないのだ。自分を弱音一つ吐かずに育て上げてくれた強い母親もついにボケだしたのかと思い、心配になった。
「夢でも見たの?結婚どころかまだ彼女も出来てないよ」
「冗談やめてちょうだい。あなたが先月唐突に電話で報告したんじゃない。びっくりしてお父さんみたいに心臓が止まっちゃうんじゃないかと思ったわ」
先月は仕事が忙しく、母には電話していない……。
「あら、そういえば携帯の番号変わったって言ってなかったかしら。前と同じ番号じゃない?」
ん?変えていない。特段電話番号を変える理由もないし、キャリア決済は後1年も残っている。
母はさっきから一体何を言っている……?
「そうそう、ちゃんとお金も昨日振り込んでおいたわよ。口座見てくれた?」
冷や汗をかいた。朝と低気圧のせいでもないもっと別の種類の不安。
「あんたも漢だわね。見直したわ。籍を入れた半年後に結婚式だなんて。でもお金は心配しないで。あんたが毎月送ってくれたお金にちょこっと足すくらいで済んだから。私、いつかこんな時が来ると思って、送ってくれたお金1円も使ってなかったのよ」
母は詐欺にあっていた。頭の中に正三角形ができた。頂点A、B、Cの代わりに息子、電話、お金と書いてある。重心にはOの代わりに“詐欺”の二文字。
「か……母さん落ち着いて。落ち着いて。落ち着いて聞いてほしい」
「なによ、落ち着いてるわよ」
「それ、詐欺かもしれない……。結婚もしてないし、携帯電話の番号も変えて無いんだ」
「そ、そんな嘘やめて頂戴!私が息子の声を間違えるわけないじゃない!」
「声なんてボイスチェンジャーかなんか使えば今の時代簡単に変えられるよ!」
「そんな、じゃあ私は……」
母さんはまんまとオレオレ詐欺にはめられたのだ。
もちろん警察にも被害届は提出したのだが、犯人の足がつくことは無かった。
事件以降一度だけ母に会いに行った。
以前の弱音ひとつ吐かない強い母の面影はもう無くなっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、あなたからもらったお金を……。ごめんなさい、ごめんなさい」
正直お金なんかのことはどうでも良かった。一体誰が母さんを陥れたのだ。
母さんをはめた詐欺の犯人だけは、絶対に許さない。犯人を貶めるためなら禁断の果実だろうが何だろうが使えるものは全て使う。一度深呼吸をして、キッチンから塩を取ってきてた。木についていた実を1つもぎ取って、塩を振り、力強く噛んで飲み込み、すぐに母に電話を掛けた。
「あら、どうしたのいきなり?」
「母さん。詐欺には気をつけて」
「何よ、いきなり。私がそんなものに引っ掛かるわけないでしょう」
どうやら実の力は本物だ。母さんを詐欺から救うことに成功した。
「それだけ。元気な声が聞けて嬉しいよ。またね」
ふと、残った2つの実を見ると、その色は深みのある緑色に変わっていた。詐欺の犯人の存在を消した週末の休みは、肩の荷が降りて、体が軽く、なんだかどこにでも行ける気がした。
休み明けの月曜日は、週末同様に不安要素が取り除かれた分、身体中から力が漲る。
いつもより一本早い電車に乗り、会社の最寄駅にあるコンビニでサイズSのホットコーヒーを淹れ、会社に到着する時に丁度飲み干せる位の速さで歩いた。午前の仕事は、最新のコンピューターみたいに早く正確にこなせた。
そんな浮かれていた自分が異変に気づいたのは昼休憩の時間になってからだ。普段昼休憩になると真っ先に話しかけてくる男の姿が見当たらないことに気づく。
朝から藤田の姿を見かけ無い。藤田本人どころかオフィスの中には藤田のデスクすら無い。まるで初めから藤田が存在していないみたいに。会社のホームページの社員一覧からも彼の名前と写真だけ綺麗に抜き取られていた。
考えられる可能性は1つ。母を詐欺に嵌めたのは、藤田だった。蒸発する様に全身の力が抜けていくのを感じる。
会社の同期であると同時に、たった一人の心を許せる友達だった。
上京したての自分に東京の歩き方を教えてくれたたった一人の友人。去年の年末に2人で実家に帰った親友。母と楽しそうに話していた彼の姿は、偽りだったのか。自分のたった一人の友人は、道化師だったのか。確かめる術は無く、どうしたらいいかも分からない。
何もしたく無くなっていた。でも、このやり場のない思いは、何かしていないと耐えられないので、ただ無気力に働き続けた。
それでも時間だけは進み続け、気づけば年末になっていた。会社の忘年会で課長と仕事の話している時にうっかり藤田の名前を口にした。
「藤田?どこの部署だ?どうした?飲み足りてないんじゃないか。若いのは飲んでなんぼだろ。誰かこいつの酒を頼んでやってくれ!」
あのうざいくらいに人懐っこい藤田を知っているのはこの世で自分だけ。いっそ、忘れられたら楽になるんじゃないか。実を食べた時に自分の中からも藤田の存在が消えていたら良かったのに。酒を飲んだらそんな考えが浮かんでくるので、それを打ち消すためにもっと酒を飲んだ。
課長が酒を煽り、その酒をひたすら飲む作業を機械のように繰り返していたら、なんだか全部がどうでも良くなってきた。久しぶりに顔が茹で蛸みたいに真っ赤になるまで酒を飲んだ。若いのは酒を飲んでなんぼと言うのはあながち間違いでは無いのかも知れない。毎年の面倒な会社の忘年会がなんだか居心地良く感じてきた。
2次会も終わり、気づいたら最後の5人になっていた。残った5人のメンバーでキャバクラに行くことになった。店の名前は、"マリブコーク"。
癖のある甘ったるいマリブコークは苦手だが、今の悪酔いした自分には、ぴったりの店名かもしれない。
酔っ払って見るドレス姿のキャバ嬢達は、各都道府県から1番可愛い子を選出し、集合させたのでは無いかと思える程に"キラキラ"して見える。
“マツリちゃん”、“ラムちゃん”、“サトミちゃん”……
まるで回転寿司に来ているのではないかと思えるくらいに女の子が入れ替わる。
5人目あたりに高知県代表の“ヒナリちゃん”が隣に来た。スレンダー体型で、美人系統の綺麗な子だった。一緒に話していると、心が浄化されそうな透き通る声をしていて、縫い物にも向いてそうな繊細な指を持っている。
一目惚れだった。
「ヒナリちゃんは高知県出身?」
「お兄さん、いきなり出身地当てゲーム?でも残念、私の出身は福島県なの」
「福島県ね。確かにそんな気もしてたよ」
「えー、それはずるいよ。お兄さんの出身は福島県かな。理由は一緒だとうれしいから」
「正解。なんでわかったの?」
「それ、絶対嘘の顔してる。本当は?」
「茨城県だよ。理由はヒナリちゃんの隣にいるから」
「もー、お兄さんってば」
こんな時間が永遠に続けば良いと思う。自分の出身は長野県だが、ヒナリちゃんと一緒にいる間だけは茨城県になれるのだ。
欠かさずしていた毎月の母への振り込みもせずに、預金を食い潰す勢いでヒナリちゃんの所に通い続けた。同伴もたくさんした。
「今日もありがとう。本当にヒナリちゃんといる時間楽しいんだ。またお店行くね」
「うん、待ってる。私はここにいるからいつでも来てね」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「お兄さんって初めて会った時から心の底は悲しそうな気がするんだけど、私と会う前になにかあったの?なんでも相談してね」
「そんなことないよ。ただ、親友と喧嘩しちゃったんだ。仲直りできるかな?」
「できるよ!絶対できる。理由は私がそう思うから」
藤田がいなくなって誰かに依存したくて仕方が無かっただけのかもしれない。でも、今の自分にはヒナリちゃんがいてくれないと駄目なんだ。
年を跨いだ1月某日。この日もヒナリちゃんの茨城県になる為にマリブコークに来ていた。
「あのね、私彼氏がいるの。彼氏にはここで働いてることは内緒にしてたんだけど、この間接客したお客様が彼氏の友達で告げ口されちゃったの。それを知って、私の彼氏怒っちゃって、お店今月で辞めなくちゃいけないの。だから連絡先も消さなきゃいけないの。たくさん来てくれるのに、ごめんなさい」
ヒナリちゃんが自分の目の前から消えてしまう。
水商売には、こういうケースが付きものなのは理解している。分かっているいるんだ。分かっているけど嫌だった。
藤田もヒナリちゃんも大切な人達がみんな自分の前からいなくなろうとする。これ以上誰も失いたくない……。腹の底にある押し殺していた思いが爆発する。
「じゃあさ、彼氏と別れちゃいなよ。そうしたらまた働けるよ。また会える!そうだ、付き合おう!絶対に幸せにする!約束する!だから……」
自分は、何を言っているんだ。涙が出てきたので、顔を覆った。止まらない涙が指の隙間からこぼれる。
「告白してくれてありがとう。うれしい。でもごめんなさい。今の彼氏のこと好きなの。お店にいる時も同伴も楽しかったよ。今までありがとう」
ヒナリちゃんはこんなどうしようも無い男を一切笑わずに自分の気持ちを正直に伝えてくれた。良い年して泣きながら告白するような情けない男の背中を繊細な指の生えた手に心地よい力を込めて、羊を撫でるように撫で続けてくれた。
それでもヒナリちゃんを失いたくなかった。もう誰1人失いたくなかった。気づいた時には、禁断の果実のことが頭に浮かんでいた。
帰りの家までの足取りはいつもより重く感じた。
家に帰って机の上を見ると、昨日までの深緑だった禁断の果実が以前の様な橙色に戻っていた。キッチンから塩を取って、実に振りかけ、味を確かめるように咀嚼して、飲み込んだ。しょっぱいのが振りかけた塩の味なのか涙の味なのか分からなくなっていた。
自分は、禁断の果実を食べたんだ。何をされたわけでもないヒナリちゃんの彼氏を強く思い浮かべて。
残り一粒になった実の色はまた深みのある緑に変わっていた。
今すぐにでもヒナリちゃんに会いに行きたかったが、罪もない人の存在を消した罪悪感に襲われて、お店にはなかなか行く気にならなかった。本当にこれで良かったのだろうか。
一週間経ってもう一度ヒナリちゃんの茨城県になるべく、勇気を出して店に足を運んだ。
店にヒナリちゃんの姿は無かった。ボーイに聞いてもヒナリという名前のキャストはこの店に在籍していないと言われた。
自分は一体、なんのために罪もない人の存在を消したのだろう。
ヒナリちゃんがなぜこの店で働いていたのか、存在を消した彼氏が関係していたのか、前より幸せに暮らしているのか、今どこで何をしているか分からない。藤田に続いてヒナリちゃんまで自分の目の前から消えてしまった。
ヒナリちゃんのいないマリブコークは、以前の輝きを失っていた。
その晩、よく藤田と来ていた立ち飲みの居酒屋に行き、彼が毎回飲んでいた1番安いブラックニッカハイボールの炭酸を喉に刻むようにして飲んだ。藤田はビールを飲まずに、いつも決まってブラックニッカハイボールを飲んでいた。
家に帰り、シャワーを浴びて、湯船に浸かった。体が芯から温まって、全身の力がじんわりと抜けていき、そのままこころまで天井を超えて空まで抜けていってしまうんじゃないかという気持ちになってきた。このままお風呂の湯気と一緒に大気に紛れ込んでしまいたい。
自分は一体いつから間違っていたのだろうか。こんなふざけた木を買ったとこからだろうか。はたまた実を食べたとこだろうか。こんな状況でも強い人間なら再び立ち上がれるのだろうか。自分がいなくなったら母はどれだけ寂しくなるのだろうか。
考えても無駄だった。何をどう考えても、次の瞬間には、抜けていく。一息ついて机の上の禁断の果実の残り一粒をもぎ取り、塩を振らず、薬を飲む時みたいに一気に飲み込んだ。母を助けたら親友を失い、やっとできたと思った好きな子は、たんぽぽの綿毛みたいな調子で何処かに行ってしまう。もう本当に何をする気にもなれなかった。自分の存在を消すために飲み込んだ最後の一粒の色は、吸い込まれそうな程に鮮やかな茜色をしていた。




