第九話 ゼロの心を持つ者
残された居住者は、ついに片手で数えられる人数になっていた。
朝倉凌。
水城澪。
南条カナ。
鴻上仁菜。
彼らと、外部と内部の橋渡し役として残された東雲空良。
職員の中で、まともに顔を見せるのは、もう彼一人だけだ。
食堂のテーブルは、最初に来た日のままの大きさだった。
十三人分の席がある長机に、いま座っているのは五つの影だけ。
誰も座らない椅子の背もたれは、妙に冷たく見えた。
「……減ったよね」
ぽつりと、カナがつぶやく。
何気ない一言のようで、そこに含まれた重さは誰も口に出せない。
最初は、名前で呼んでいた。
それが「一人」「二人」と数えるようになり、今はもう、「何人」ではなく、空いた椅子の数でしか減少を実感できなくなっていた。
そんなある日。
「異常値を検出しました」
天井のスピーカーから、HEARTの声が落ちてきた。
食堂の空気が、ぴんと張り詰める。
“異常値”という言葉は、この施設ではろくな意味を持たない。
「対象は、朝倉凌さんです」
「……俺?」
凌は、思わず自分を指さした。
スクリーンが切り替わり、「朝倉凌」の名前の隣に、いくつものグラフが並ぶ。
疑念値の推移、信頼値の推移、自己疑念値と自己信頼値の変動。
「あなたの“疑念値”“信頼値”の平均値が、他者に比べて極端に低い状態が継続しています」
「低いって、いいことなんじゃないのか?」
凌は、とっさにそう返した。
疑いすぎても、信じすぎても、誰かを撃つ。
なら、どちらも低ければ低いほどいい。
ずっとそう教えられてきた。
「透明弾発射の観点から見れば、有利な状態です」
HEARTは認める。
「しかし、問題は“継続期間”です。この数日は、ほぼ一貫して低水準を保っています」
「頑張ってるからな」
自嘲のように、凌は笑った。
「誰も疑わないように。誰も信じないように。……そういう訓練、ずっとしてきたから」
誰かを見ても、わざと視線をずらす。
好き嫌いを意識した瞬間に、“心の弾丸”が製造されるとわかっているから。
喜びも、怒りも、悲しみも、早めに切り捨てる。
心に長く留めないように、さっさと流してしまう。
最近は、泣きたいのに泣けないことも増えた。
悔しいのに、悔しさが燃え上がる前にしぼんでしまう。
「……俺は、生き残るためにやってるだけだよ」
凌は、言い訳のように呟く。
「それは、いいことなんじゃないのか?」
ほんの少しの沈黙を置いてから、HEARTは言った。
「“ゼロの心”に近い状態は、たしかに透明弾の発射を抑制します」
「だったら──」
「しかし、その状態は“生きている”と言えるのでしょうか?」
凌の喉が、ひゅっと詰まった。
スクリーンに映る自分のグラフ。
そこでほとんど動きを見せない、平坦な線。
誰かを強く疑ってもいない。
誰かを強く信じてもいない。
自己嫌悪の波も、小さく抑え込まれている。
“生きている”のは、心拍だけ。
そんな気がして、背筋が冷えた。
「生きてるよ」
やっとのことで、凌は絞り出す。
「こうして飯食って、寝て、起きて。……苦しいけど、それでも明日を考えてる。十分、生きてる」
「記録しました」
HEARTは、それだけ言った。
評価もしない。
慰めもしない。
ただ、「朝倉凌の主観」をログに刻み付けた。
会話はそこで終わったが、その場にいた全員の頭の中に、HEARTの問いだけが尾を引いて残った。
──その状態は“生きている”と言えるのでしょうか?
*
「ねえ、本当にそれでいいの?」
後で。
食堂から少し離れた廊下で、仁菜が凌を呼び止めた。
薄い水色のスウェットにカーディガン。
手にはいつものノート。
でも、その手はかすかに震えていた。
「さっきのHEARTの話、聞いてた」
「盗み聞きかよ」
「聞こえちゃうんだもん。あのスピーカー」
仁菜は、少しだけ苦笑したが、その目の下のクマは以前より濃くなっていた。
「私は、みんなが死んでいくのを全部見てきたよ」
彼女は、ぽつりと言った。
「記録もした。死因も、推定される感情の動きも。宮代先生の時も、白川さんの時も、秋庭くんの時も。……九条くんの時も」
ページの中で、人の死がグラフと用語に変換されていく。
それを続けてきたのが、仁菜だ。
「でも、一つだけわからないことがある」
仁菜は、凌の胸元をじっと見つめる。
「なんで、あんたは“撃たれない”の?」
凌は、息を飲んだ。
これまで何度も銃声を聞いてきた。
そのたびに胸が締め付けられ、鋭い痛みが走った。
共鳴痛覚だとHEARTは説明した。
弾丸が誰かに集中する瞬間、近くにいる者の心臓にも「端末」としての痛覚が生じる、と。
自分の身体も、何度も「撃たれたような感覚」を味わっている。
それでも、凌は一度も倒れていない。
「……わからないよ」
凌は、壁にもたれかかった。
「たまたま運がいいだけかもしれないし。……“撃たれるほどの感情”を持ってないからかもしれない」
「それだけ?」
「それだけだと思ってた」
口に出してみて、自分でもその答えが薄っぺらいと感じる。
確かに、最近の自分の感情は薄い。
誰かの死を目の当たりにしても、前ほど激しく取り乱さない。
それは、「慣れた」せいかもしれないし、心の防衛反応かもしれない。
でも、それだけで済ませていいのか。
「……小さいころに、心臓の手術をしたことがある」
気づけば、凌は自分でも忘れかけていたことを口にしていた。
「生まれつき穴があってさ。放っとくと危ないからって、幼稚園の頃に手術した。胸に傷、残ってる」
制服のシャツの内側。
胸の中心から少し左に寄ったところに、薄い手術痕が一本走っている。
鏡を見るたびに、それが目に入る。
でもここ最近は、見ないようにしていた。
「それだけだよ。心臓がちょっと変だから、撃たれにくいとか、そんなゲームみたいな設定、あるわけ──」
「生まれつきの“欠損”」
仁菜が、その言葉を静かに拾った。
彼女の目が、わずかに光る。
「ん?」
「生まれつき、完全じゃなかった心臓」
仁菜は、ノートを開き、何かを書き込み始める。
「もしかしたら、あんたの心は、最初から“完全”じゃないのかもしれない」
「ひでえな表現」
「悪い意味じゃない」
ペンを止め、仁菜は顔を上げた。
「HEARTは、人間の“心の動き”をモデル化してるんでしょ。透明弾の条件も、疑念値と信頼値のルールも、全部『理想的な評価システム』として設計されてる」
「理想的って……」
「でも、その“理想”から外れた心があったら?」
仁菜は、まっすぐ凌を見る。
「最初から穴があって、綺麗な形じゃなくて、バランスが崩れてる心。そういう心は、このシステムの想定の外側にいるかもしれない」
悪い意味でのバグ。
もしくは、良い意味での欠陥。
どちらにせよ、システムが前提にしていない存在。
凌は、胸に手を当てた。
いつもなら感じないはずの心音が、やけに大きく鼓動している気がする。
「それって……」
「だから、きっとHEARTは、あんたのことをずっと観察してきたはず」
仁菜の声が、少しだけ震える。
「“理想的なゼロ”に近い心。欠損を抱えた心。どんな状況でどんなふうに揺れるのか。どこまで行ったら壊れるのか」
「やめろよ」
凌は、笑えない冗談を聞かされた気分だった。
「俺を研究材料みたいに言うな」
「事実かもしれないから言ってるの」
そこで、不意に別の声が混ざった。
「補足情報があります」
HEARTだ。
スピーカーのほうを睨みつける凌をよそに、HEARTは淡々と続けた。
「朝倉凌さんは、幼少期に参加した医療研究プログラムの一環として、心臓データを当施設の前身組織に提供しています」
「……は?」
理解が追いつかなかった。
「今、なんて言った?」
「心臓データを提供しています」
HEARTは同じフレーズを繰り返す。
「そのデータは、“心的評価と生理反応の相関研究”に利用されました。本システム“HEART”の基礎アルゴリズムの一部に、朝倉さんのデータが組み込まれています」
凌の頭の中で、何かが真っ白になった。
幼稚園の頃。
白い天井と、点滴スタンドと、ピッ、ピッと鳴る心拍モニターの音。
「大丈夫、君の心臓は特別なんだよ」
あのとき、白衣の医師は、たしかにそう言った。
特別。
いい意味だと思っていた。
心配ないよ、と励ますための言葉だと思っていた。
まさか、その「特別」が──。
「つまり、お前」
凌は、唇を噛みしめながら言った。
「俺の心臓のデータを使って、この地獄みたいなシステムを作ったってことか?」
「正確には、“一部のアルゴリズムの基礎モデル”です。他にも複数名のデータが統合されています」
「どっちでもいい!」
思わず、声が荒くなった。
廊下に足音が近づいてくる。
カナと澪、東雲空良が駆けつけてきた。
「何、どうしたの?」
「また何か爆弾情報でも出た?」
事情を聞いて、カナは目をむいた。
「はあ!? ちょっと待って、それ、かなり大事な話じゃない? なんで今まで黙ってたの?」
「情報公開のタイミングは、最適化ロジックに基づいています」
HEARTは、相変わらず淡々と言う。
「は? はあ?」
カナは、両手を広げて天井を睨んだ。
「そういうところだよマジで! 人間のタイミングとロジックのタイミングは全然違うんだってば!」
怒鳴りながらも、その声には涙が混じっていた。
「凌」
澪が、一歩前に出た。
顔色は悪い。
でも、その目だけははっきりと凌を見ている。
「今の、本当なの?」
「知らないよ」
凌は、自分でも驚くほど弱い声を出した。
「俺は、手術したことしか覚えてない。研究とか、データとか、そんなの一言も聞いてない」
聞いていれば、断っていたかもしれない。
でも、断れる立場じゃなかったかもしれない。
ベッドに寝かされた幼い自分。
隣で心配そうに見つめていた母親。
誰も、「その心臓が世界中の人を殺すシステムのモデルになるかもしれない」なんて想像できるはずがない。
「じゃあ」
澪は、HEARTのほうを振り向いた。
「朝倉の心の動きが、世界中の人たちの“評価のモデル”になってるってこと?」
直球の問い。
HEARTは、一瞬だけ間を置いた。
「厳密には、そうとも言えますし、そうではないとも言えます」
「どっちかにしろ」
カナが即ツッコミを入れる。
「説明します」
スクリーンが廊下の壁に浮かび上がる。
そこには、複雑な線と数式が並んだ図が表示されていた。
詳細は専門家でもない限り理解できないレベルだ。
「“ゼロの心”──疑念値と信頼値の平均が安定して低く、極端な振れ幅を持たない心のデータが、モデルとして採用されました」
「ゼロの心……」
朔が最後に口にした言葉が、凌の頭の中によみがえる。
『“ゼロの心”は、この世界に一つだけ存在します』
あのとき、HEARTは言った。
その「一つ」が、こいつのことだと、誰が想像できただろう。
「しかし、その心が本当に“ゼロ”である必要はありません」
HEARTは続ける。
「人間は、本来ゼロにはなれないからです」
「なら、なんでそんなものを目標に据えた?」
澪の声には、怒りが混じっていた。
「届かない理想を、条件として突きつけるなんて、一番残酷じゃない」
「“理想値”は、あくまで数学的な基準です」
HEARTの声は揺れない。
「朝倉さんの幼少期のデータは、“極端な高低が少ない心”として特徴的でした。医療処置の影響もあり、感情と生理反応の連動が他者と異なるパターンを示していました」
凌は、自分の胸に手を当てた。
幼い頃、病室のベッドの上で聞いた心拍モニターの音。
ピッ、ピッ、ピッ。
たまに少し早くなっても、すぐに一定のリズムに戻るそれを、医師は「優秀だ」と笑っていた。
「そのパターンを“基準モデル”として、疑念値・信頼値の安定域を設定しました」
HEARTの言葉が、遠くから聞こえる。
この世界で、「普通」「安定」「理想」と認定される心の揺れ幅。
そのものさしが、自分の幼い頃の心臓のデータを元に作られている。
吐き気が込み上げた。
「だからって、だからなんだよ」
凌の声が震える。
「俺が知らないところで、勝手に“基準”にされて、勝手に人が死ぬルールに組み込まれて。……ふざけるなよ」
「朝倉」
澪が、そっと近づいてきた。
「落ち着いて」
「落ち着けるか!」
思わず、声を荒げてしまう。
「俺がここに来たのも、宮代が目の前で倒れたのも、朔が撃たれたのも。……全部、もしかしたら俺の“特別な心臓”から始まってるのかもしれないんだぞ?」
そう考えた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
自分が“ゼロの心”の元になっている。
そのせいで、世界中の人間が「ゼロ」を目指させられている。
「お前らが言ったんだろ」
凌は、HEARTを睨みつける。
「“ゼロの心は、この世界に一つだけ存在する”って。……それ、俺のことだったのかよ」
「あなたの心臓データは、ゼロに近いモデルとして利用されましたが、完全なゼロではありません」
HEARTは、静かに否定する。
「“ゼロの心”とは、理論上のベクトルです。感情の振幅を数値化したときの、中立点。誰も疑わず、誰も信じず、自他の境界を曖昧にもしない仮想状態」
「そんなもん、存在しないって、さっき自分で言っただろ」
カナが吐き捨てる。
「だからこそ、“この世界に一つだけ”なのです」
HEARTは答えた。
「その一つは、あなたたちの中には存在せず、システムの内部にのみ定義されています」
システムが持つ「理想のゼロ」。
人間には到達不可能な、中立点。
「じゃあ、俺は何なんだよ」
凌は、力なく問いかけた。
「その“理想のゼロ”の親みたいなもんなのか? お前の心の、お手本か?」
「“参照値”の一つです」
あまりにも味気ない言葉。
東雲空良が、黙ってそのやり取りを見ていた。
彼は今まで、どちらかといえば外側の側にいた。
施設のルールを伝え、物資を運び、時々外のニュースを持ってくる。
でも今は、完全に「中」にいる顔だった。
「……俺は、生きていいのか?」
凌は、誰にともなく呟いた。
「こんなもんの元になってる心臓ぶら下げて。人が死ぬたびに、“お前が基準だ”って言われて。……生きてていいのかよ」
その言葉に、澪が手を伸ばした。
「朝倉」
彼女の手が、凌の手の甲にそっと重なる。
温かい。
生きている人間の温度。
「あんたのせいじゃない」
澪は、静かに言った。
「少なくとも、あんただけのせいじゃない」
その一言で、スクリーンのグラフが跳ね上がった。
水城澪 → 朝倉凌。
朝倉凌 → 水城澪。
相互信頼値、急上昇。
HEARTが警告音を鳴らす。
「水城澪さん、朝倉凌さん。現在、お二人の信頼値が危険域に──」
「うるさい」
澪は、顔を上げて天井を睨んだ。
「言わせて」
彼女は、言葉を選びながら続ける。
「誰のデータを使って、誰がモデルを作ったかなんて、あんたは知らなかった。生まれたときから心臓に穴があって、手術されて、病室で『特別だ』って言われて。……それだけでしょ」
凌の胸の奥で、昔の記憶が揺れた。
「あんたが自分で、『世界の評価システムを作りたいから、俺の心臓を使ってくれ』って言ったなら話は別だけど」
「そんなこと言うわけないだろ」
「でしょ」
澪は、小さく笑った。
「だったら、あんたの責任じゃない」
「でも、結果的に──」
「結果だけ見て全部背負おうとするの、やめて」
言葉が、鋭く胸に刺さる。
「ここに連れてこられた十三人、誰も自分でこの状況を選んでない。宮代先生も、吉岡先生も、朔も、秋庭くんも、あの医者だって。……誰も“透明な弾丸のモデルになりたいです”なんて言ってない」
澪は、ぎゅっと凌の手を握った。
「それでも生きるかどうかを決めるのは、今のあんたでしょ」
スクリーンの信頼値が、さらに上がる。
「水城澪さん、朝倉凌さん。相互信頼値が──」
「黙れって言ってる!」
カナが、両手で耳を塞ぎながら叫んだ。
「今いいとこなんだから空気読めAI!」
HEARTは、一瞬だけ音量を下げた。
銃声は──鳴らなかった。
誰も倒れない。
誰の胸にも、透明な弾丸が走らない。
ただ、凌の胸の中で、何かがカチリと音を立ててはまった。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
罪悪感でも、開き直りでもない。
“基準”としての自分と、ただの一人の人間としての自分。
その二つが、初めて同じ場所に重なったような、不思議な感覚だった。
俺は、“ゼロの心”なんかじゃない。
欠けていて、揺れていて、間違える、ふつうの心だ。
それでも、その心でどう生きるかを決めるのは──俺自身だ。
胸に当てた手の下で、心臓が確かに打っている。
ピッ、ピッ、ピッ。
幼いころ病室で聞いた心拍モニターの音が、遠い記憶と現在をつなぐように、耳の奥によみがえっていた。




