第八話 信じてほしいと言ってはいけない
九条朔の死から、一日が経った。
共同スペースの壁にかかる大スクリーンには、相変わらず淡い青色のグラフが映し出されている。
ただ、その形は、昨日までと明らかに違っていた。
全体の疑念値を示す太い線は、朔が撃ち抜かれた瞬間を境に、がくんと一段落ちている。
赤く乱高下していた波形は、いまは一つ下のレーンで、ゆるやかに上下を繰り返していた。
数値だけで見れば──安定。
そう呼べなくもないグラフだった。
「……安定、ね」
南条カナは、ソファの背にもたれかかって空を見上げた。
スクリーンの光が、天井の白い塗装に反射する。
その下で、彼女はスウェット姿の膝を抱きしめながら、乾いた声を漏らした。
「次は、誰が“選ばれる”んだろうね」
冗談みたいな言い方だった。
でも誰も笑えなかった。
誰も「そんなこと言うなよ」とツッコめなかった。
九条朔の席だけが、ぽっかり空いている。
そこには、昨夜誰かが片づけ忘れたホワイトボード用のペンが一本転がっていた。
朔が描いたグラフの断片が、まだボードの隅に残っている。
疑念値の山と谷。
スケープゴートの理屈。
「最初から冷酷な選択をしたほうがマシだ」と言って笑った横顔が、凌の脳裏から離れなかった。
「……朝倉」
控えめな声が、背後からかけられた。
振り返ると、鴻上仁菜が立っていた。
細いノートを胸に抱え、ペンが耳に挟まっている。
医療系の雑誌を読み漁っていると言っていた子だ。
おとなしくて目立たないが、事態が進むにつれて、誰よりも細かくログをチェックしているのがわかってきた。
「ねえ、ちょっと見てくれる?」
「なに、それ」
「記録」
仁菜は、凌の隣に腰を下ろすと、膝の上でノートを開いた。
そこにはびっしりと小さな文字と図が書き込まれていた。
生真面目な性格がそのまま紙の上に広がったみたいな密度だ。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
ページの上半分には、これまで亡くなった人たちの名前と死亡時刻が、時系列で並んでいた。
宮代暁人、ガードマン、白川綾、秋庭蓮、吉岡徹、そして九条朔。
その下には、それぞれの死亡直前にHEARTが表示したログの要約。
「他者からの疑念値・急上昇」
「相互信頼値の集中」
「自己信頼値・異常上昇」など、専門用語が並ぶ。
さらに、ページの端には、コピーしてきたのだろう心臓の断面図が貼られていた。
医学雑誌から切り抜いたのか、左心室、右心房、冠動脈の名称が細かく書き込まれている。
「……もしかして、医者になりたいとか?」
凌がなんとなく尋ねると、仁菜は首を横に振った。
「なりたいとかじゃなくて。状況を整理しないと、頭がおかしくなりそうだから」
その言い方が、逆に危うさを感じさせた。
「でね」
仁菜は、別のページを開いた。
「ここ。共通点、見えてきた気がする」
新しいページの見出しには、こう書かれていた。
“『信じてほしい』発言と死亡事例の相関”
「……物騒なタイトルだな」
凌が苦笑すると、仁菜は少しだけ肩をすくめた。
「ほら、ここ」
彼女は幾つかの行を指でなぞっていく。
「白川さん。『私を信じてくれていいよ』って、初日のカウンセリングで言ってた。そのあと、全体の信頼値が上がって……」
「撃たれた」
「うん。吉岡先生も、『大人である俺たちが先に死ぬべきだろう。子どもたちを守るために』って言った瞬間、信頼値が一気に集中して、逆流事例」
仁菜は、一人ひとりの死亡直前の発言を思い出すように、ゆっくりと続けた。
「秋庭くんの場合は、ちょっと違うけどね。あの子、誰ともほとんど話さなかったけど……昨夜、『ここはどうせ一時的な施設だから。俺は生き残るよ。だって俺、誰も信じてないもん』って、小さく言ってたのを聞いた人がいる」
「誰?」
「名前は言えない」
仁菜は首を横に振る。
「でも、そのあとで自己信頼値が異常上昇して、そのまま撃たれてる」
自分だけは大丈夫だ。
自分だけは例外だ。
自分だけは──信じていい。
その小さな思い上がりも、結局は「自分への信頼」に分類される。
「でね」
仁菜は、最後のページをめくった。
そこには、大きくこう書かれていた。
“『信じてほしい』という言葉の危険度”
「これ見てるとね」
仁菜は言った。
「“信じてほしい”って言葉を口にした人は、だいたい誰かを巻き込んで死んでるの」
凌は、一瞬返す言葉を失った。
「……巻き込んで?」
「うん。『信じてくれ』『頼む、信じてほしい』。そう言った瞬間、その人への信頼値が一気に上がるでしょ?」
仁菜は、スクリーンの右上に映るログを目で示した。
「その人だけじゃなくて、その場にいる複数人の信頼値が同時に跳ねて。結果として、透明弾の行き先がぐちゃぐちゃになる」
誰か一人に集中せず、何人もの心から同時に弾丸が撃ち出される。
その乱反射の結果、誰が撃たれるかはわからなくなる。
「白川さんの時も、吉岡先生の時も、その場にいた人たちが全員“痛み”とか“吐き気”とかの共鳴を報告してる。つまり、撃った側もタダじゃ済んでない」
「……じゃあ」
凌は、乾いた喉で言葉を絞り出した。
「もう“信じてほしい”なんて言えないじゃん」
言葉にした瞬間、その重さが一気にのしかかってくる。
好きな子に告白するとき。
親に本音を打ち明けるとき。
友達に助けを求めるとき。
そのどれもが、きっと「信じてほしい」から始まる。
それを全面禁止された世界で、人はどうやって心を繋ぐのか。
「だから」
仁菜は、ペン先で自分のメモを軽く叩いた。
「言葉の選び方を変える必要があると思う」
「言葉の選び方?」
「うん。“信じて”じゃなくて、“選んで”とか、“判断して”とか」
彼女は、丁寧に言葉を探しながら続ける。
「全部相手の心に丸投げしない言い方。『信じてくれ』って言うと、“信じるか信じないか”の責任を全部相手に押しつけることになるじゃない?」
「まあ……そうかもしれないけど」
「『信じてくれたら、君も救われるから』とか『信じてくれるなら裏切らないから』とか。そういう言葉って、綺麗に聞こえるけど、実はすごく暴力的だなって、ここに来てから思った」
仁菜自身の声には、ほんの少し怒りの色が混じっていた。
「だから、もし誰かに何かを伝えるなら、“信じてほしい”じゃなくて、“こう考えてるけど、どう思う?”とか、“君が見て、判断して”とか。相手の自由をちゃんと残した上で頼るほうが、まだマシかな、って」
「……難易度高いな」
凌は、情けない笑いを浮かべた。
「そんな余裕ある人間、どれだけいるんだよ」
「いないから、こうなってるんじゃない?」
仁菜は、あっさりと言った。
「だから、せめて私たちだけでも、言葉の重さを意識しないと。ここで死ぬにしても、生き残るにしても」
彼女は、ノートをぱたんと閉じた。
「ごめん、変な話したね」
「いや……」
凌は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
九条朔が、全体の疑念値やスケープゴートの理屈を解析していたように。
鴻上仁菜は、言葉と感情の“ルール”を必死に掘り起こそうとしている。
それでも、この箱の中に「正解の言葉」が存在するのかどうかは、誰にもわからない。
*
その夜。
HEARTが全居住者を共同スペースに集めた。
「外界の状況について、最新の情報を共有します」
いつもより少しだけボリュームを落とした音声が、天井から流れる。
スクリーンには、世界地図が表示された。
赤い点が、日本列島から世界各地へと広がっている。
「現在、世界人口の約〇・三パーセントが、透明弾現象による死亡を確認されています」
淡々とした数字。
現実感のない小さなパーセンテージ。
けれど、その一つ一つに名前のある誰かがいる。
「都市部ほど発生件数は多く、地方ほど少ない傾向があります。人と人との接触頻度、評価のやり取りの密度に比例していると考えられます」
東京、大阪、ニューヨーク、上海。
大きな都市には、赤い点が集中していた。
「多くの人々は、対人接触を極力避け、オンラインでの交流に切り替えています」
的を射ている、と凌は思う。
会うと危ない。
だから、会わない。
「しかし、デジタル上での評価行為──“いいね”“コメント”“リツイート”“既読スルー”なども、疑念値・信頼値に影響することが確認されています」
「あーあ」
澪が、スクリーンを見上げながら皮肉っぽく息を吐いた。
「つまり、どこにいても、誰かを見て、考える限り、弾丸は増えるってことね」
「その通りです」
HEARTは即答した。
「評価を完全に停止しない限り、疑念値・信頼値の生成は止まりません」
「止められるわけないじゃん」
カナが、うんざりしたように言う。
「人間、見ればなんか思っちゃうし。思ったら、比べちゃうし」
スクリーンがふっと暗転し、次の画面に切り替わる。
そこには、一文だけが表示されていた。
“質問:この世界の人々に、どのような生き方を勧めますか?”
「……は?」
思わず、何人かが声を漏らした。
「アンケートでも始めるつもり?」
カナが眉をひそめる。
「現在、この施設における居住者の心的変化は、世界全体のサンプルとして重要な意味を持ちます」
HEARTは、説明を続ける。
「ここで得られた示唆を外界にフィードバックすることで、透明弾発生件数の抑制が期待されます」
「だからって……」
凌は、スクリーンの文字を見つめた。
「“生き方”を勧めるって。そんなの、わかるわけ……」
言葉が詰まる。
人付き合いをやめろと?
評価するのをやめろと?
誰とも関わるなと?
そんなことが可能なら、最初からこんな現象は起きていない。
「つまり、こういうこと?」
澪が、ゆっくりと口を開いた。
「誰とも深く関わらないで、人ともSNSとも距離を置いて、自分の世界だけ見て生きろって。そうすれば、透明弾のリスクは減る」
「理論上は、そうです」
HEARTはあっさりと肯定する。
「しかし、孤立は別の心的リスク──自責、無力感、虚無感──を増大させます」
「そりゃそうだよ」
カナが、ため息混じりに言う。
「全部やめて、誰とも関わらないで生きてくとか、それこそ“死んでる”のと同じじゃん」
沈黙が落ちる。
どんな生き方が正解なのか。
何を勧めれば正しいのか。
誰も答えを持っていなかった。
「……私は」
しばらくして、カナが手を挙げた。
HEARTのアイコンが、彼女の方向にゆっくりと回転する。
「発言を許可します」
「ありがと」
カナは、立ち上がり、皆のほうを見渡した。
いつものちゃらけた笑みではなく、どこか覚悟を決めた顔をしている。
「私は……誰かを信じることを、やめてほしくない」
その一言で、スクリーンの一角がピクッと跳ねた。
南条カナの信頼値が上昇。
それに連動するように、数人の信頼値も微妙に揺れる。
HEARTが、小さな警告音を鳴らした。
「発言内容が、高信頼値の増加要因となっています。継続を──」
「黙ってて」
カナが、天井を睨むように言った。
「たしかにさ」
彼女は、皆に向き直る。
「今は、信じることも、疑うことも、誰かを殺すかもしれない。
誰かを褒めたり、頼ったり、期待したりすることが、その人の胸に弾丸ぶち込むトリガーになるかもしれない」
言葉は、ひどく乱暴で、でも真っ直ぐだった。
「だからって、全部やめて、誰のことも見ないようにして生きていく?
誰にも期待しないで、誰からも期待されないで、誰にも『一緒にいたい』って言わないで」
カナは、握りしめた拳を小さく震わせた。
「そんなの、マジで“死んでる”のと同じじゃん」
スクリーンの信頼値が、さらに跳ねる。
HEARTがけたたましく警告音を鳴らすが、誰もそれを止めようとはしなかった。
「だから、私は言う」
カナの視線は、どこか誰か一人を見ないように、全員を通り過ぎていく。
「“信じてほしい”って。誰かを殺すかもしれない言葉だとしても、それでも言いたい」
凌の心臓が、強く跳ねた。
「やめろ」
思わず、口から出ていた。
「カナ、もうそういうのは──」
「大丈夫」
カナは、振り返って笑った。
その笑顔は、いつもの軽さの裏に、はっきりとした決意を帯びている。
「誰のことを信じてるのかは、言わないから」
その瞬間、グラフの動きに妙なズレが生まれた。
信頼値は上昇している。
だが、その“矢印の方向”が曖昧なままなのだ。
カナ自身は、たしかに誰かを強く信じている。
けれど、その「誰か」をはっきり示さないことで、信頼値の矛先が宙ぶらりんになっている。
「対象が特定できないため、信頼値の集中は不完全です」
HEARTが、分析結果を表示する。
「現時点では、透明弾発射条件を満たしていません」
「ね?」
カナは、どこか勝ち誇ったように笑った。
「“信じてほしい”って言うだけなら、まだセーフっぽいよ」
「そういうゲームじゃないだろ、これ」
凌が、頭を抱える。
それでも、カナの言葉は、確かに何かを揺さぶっていた。
二度と「信じてほしい」と言えない世界。
それを受け入れてしまったら、本当に人間じゃなくなる気がする。
「他に意見のある方は?」
HEARTの問いかけに、誰も続かなかった。
会議は、結局カナの乱暴な宣言で締めくくられる形になり、解散が告げられた。
*
会議が終わり、それぞれの部屋へ戻るために廊下を歩いているときだった。
「南条」
凌は、思わずカナの背中を呼び止めていた。
彼女は足を止め、ゆっくり振り向く。
「なに? もしかして、さっきの演説に感動しちゃった?」
「感動はしてないけど……」
「正直でよろしい」
カナは、いたずらっぽく笑った。
廊下には、非常灯の柔らかい光だけがともっている。
辺りに誰もいないのを確認してから、凌は口を開いた。
「さっきの、“信じてほしいって言う”って話。あれ、本気で言ったのか」
「さあね」
カナは、肩をすくめた。
「本気じゃないって言ったほうが、信じる?」
「……どっちにしろ、危なすぎる」
「そうだね」
あっさりと認める声。
「でもさ、朝倉」
カナは、少しだけ真顔になる。
「あんたもどこかで、誰かを信じたいんでしょ?」
凌は、言葉につまった。
否定したかった。
「そんな余裕、もうない」と言いたかった。
でも、喉に引っかかる。
ほんの少しの沈黙が、すべての答えを示してしまう。
「だったらさ」
カナは続けた。
「その気持ちまで殺さないでよ。
“誰も信じないほうが生き残れるから”って、自分で自分の心踏み潰すの、見てて気持ちよくないから」
「……誰目線だよ」
「観客席からのクレームってことで」
カナは、ぺこりとお辞儀をしてみせる。
「ほら、私ってこう見えて、けっこう観察してんの。凌が誰を見るとき、一番苦しそうな顔してるかとか」
「やめろ」
「やめないよ」
彼女は、軽口のように言いながらも、目だけは真剣だった。
「信じたいのに、信じるのが怖くて、そのたびに自分責めてるの、マジで見てらんないからさ。……誰かを撃たないために自分を壊すのは、違うでしょ」
言い返せない。
カナはくるりと背を向け、手をひらひら振りながら歩き出した。
「じゃ、おやすみ。明日も生きて会おうねー」
その背中が角を曲がった、ほとんど同じタイミングだった。
パン、と。
遠くから、あの乾いた銃声が響いた。
「っ!」
凌は反射的に走り出していた。
カナも振り返り、逆方向に駆け出す。
銃声は、少し離れた医療区画のほうから聞こえたように思えた。
他の居住者たちも、各部屋から飛び出してくる。
誰もが、顔を強張らせながら音のした方向へ足を向けた。
医療区画の前には、すでに数人の職員が集まっていた。
その足元には、白衣の人物がうつ伏せに倒れている。
外部から派遣されてきていた医師の一人だった。
いつもマスク越しに淡々と説明をしていた中年男性。
「生命反応、ありません」
誰かが言う前に、HEARTが平然と告げる。
スクリーンには、医師の名前とログが表示された。
──外来患者へのカウンセリングにて、「この治療方針を信じてほしい」と複数回発言。
──オンライン診療においても、「私を信じてください」というフレーズを多用。
──患者およびその家族からの信頼値が集中。
──透明弾発射条件を満たし、死亡。
「……さっきの会議のあとで、報告が上がりました」
HEARTは、事務的に補足した。
「“信じてほしい”という発言が、高度に危険なトリガーであることが、外部でも再確認されています」
カナは、唇を固く噛んでいた。
「ごめん」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、呟く。
彼女は、これは自分のせいじゃないと頭ではわかっている。
たまたまタイミングが重なっただけだと、誰かが言ってくれるかもしれない。
でも、「信じてほしい」と言うことの危険性を改めて突きつけられた直後に起きた死は、あまりに象徴的だった。
信じてほしいと言う者は危険だ。
信じてほしいと言わせる状況も危険だ。
だけど──。
「信じてほしいって言えない世界も、致命的に壊れてるよね」
カナが吐き出すように言った言葉に、誰も反論できなかった。
凌は、倒れた医師の背中を見つめながら思う。
人は、弱いから、「信じてほしい」と言う。
誰かに支えてほしいから、「頼む」と言う。
その当たり前の言葉が、人を殺す引き金になる世界。
でも、その言葉を完全に封じた世界は、きっと別の意味で人間を殺す。
信じてほしいと言ってはいけない。
でも、信じてほしいと言えない世界もまた、どこか根本から壊れている。
そのどうしようもない矛盾が、じわじわと全員の心を蝕み始めていた。




