第6話「透明な告白と、見えない殺意」
数日間、誰も死ななかった。
銃声は鳴らない。
透明な弾丸も、誰の心臓も撃ち抜かない。
それだけで、施設の空気はほんの少しだけ緩んだ。
緩んだ、といっても、笑い声が戻ってきたわけじゃない。
冗談が飛び交うわけでもない。
ただ、最初の頃みたいに、いつ誰が倒れるのかと呼吸もできないほどの緊張が、少しだけ薄れただけだ。
みんな、ここでの「生き方」を覚え始めていた。
必要最低限しか喋らない。
不要な視線を交わさない。
他人と目が合いそうになったら、すぐに逸らす。
共同スペースでは、テーブルを挟んで座るのではなく、自然と斜めにずれた位置を取るようになっていた。真正面に座ると互いを意識しすぎて、疑念値か信頼値がどちらかに傾きやすいからだ。
HEARTのスクリーンに映るグラフも、暴れることは減った。
激しい山と谷ではなく、ゆるやかな波が続く。
──慣れた。
そんな言葉で片づけたくないけれど、事実だった。
疑うことも、信じることも、なるべくしない。
相手の顔を見ても、その人の名前も性格も一旦頭の外に追い出す。
人がいても、いないふりをする。
心を、無色透明に薄めていく。
そうやって、「ここで生き残るための術」を、全員が無意識に身につけ始めていた。
……少なくとも、表面上は。
*
その夜も、凌は共同スペースに一人でいた。
照明は落とされ、天井の間接灯だけがぼんやりと白く光っている。
スクリーンには、今日一日のログが流れていた。誰かの疑念値が大きく跳ねることも、信頼値が急激に上がることもなかった、比較的「平穏」なグラフ。
ソファに腰を沈め、凌はそれをなんとなく眺める。
平穏。
そう呼べるのかもしれない。
でも、その裏で、何かがじわじわと摩耗している感覚があった。
誰とも深く話さず、目も合わせず、当たり障りのない言葉だけを交わす。
心の中に浮かんだ感情は、その場で押しつぶす。
それを続けていくうちに、自分が「自分じゃなくなっていく」ような感覚が、静かに積もっていった。
「──朝倉」
不意に、名前を呼ばれた。
振り向くと、水城澪が立っていた。
パジャマ姿の上から薄いパーカーを羽織り、紙コップを両手で包み込むように持っている。
「少し、話がしたいの」
その言い方は、いつもより少しだけ慎重だった。
この数日、二人きりになる状況を、意識的に避けていた。
互いの信頼値が上がりやすいとわかっているからだ。
だからこそ、その申し出は危険でもあった。
スクリーンの端を見ると、もうすでに「朝倉凌」「水城澪」の横の数字がじわりと動いているのがわかる。
「……ここだと、みんなに聞かれる」
凌がそう言うと、澪はすぐに首を振った。
「聞かれてもいい。でも、見られたくはない」
意味深な言葉に、心臓がどくんと跳ねたのを凌は自覚した。
画面の心拍数のグラフが、本当に連動して上がっている。
──見られたくない。
誰に。何を。
頭の中で、いくつもの推測が一瞬で駆け巡る。
その全てを、凌は意識的に押し潰した。
「……場所、変えるか」
「うん」
二人は共同スペースを出て、廊下を歩いた。
夜の廊下はひんやりしている。非常灯が等間隔に並び、床に長い影を落としていた。
監視カメラの黒い半球が、天井からこちらを見下ろしている。
HEARTの監視は、どこにいても続いている。だけど少なくとも、ここなら他の居住者に直接見られることはない。
澪が向かったのは、廊下の一番端にある小さな物置部屋だった。
モップや予備のカートリッジが乱雑に置かれた狭い空間。
備品用の棚と、折りたたみ椅子が二つあるだけの部屋だ。
ドアを閉めると、外の音がほとんど遮断された。
その静けさが、かえって心臓の音を際立たせる。
凌と澪は、向かい合う形で椅子に座った。
「……ここならいい?」
「うん。ありがと」
澪は一度深呼吸してから、凌をまっすぐ見た。
「ねえ、朝倉」
不意に苗字を呼ばれて、凌は少しだけ肩を揺らした。
あまりそう呼ばれた記憶がない。
いつも「凌くん」とか、「あんた」とか、距離感の違う呼ばれ方をしてきた。
名前の響き一つで、距離が変わる。
それを、HEARTも当然のように検知している。
「もし、ここから一人だけ外に出られるとしたら、どうする?」
「……は?」
あまりにも唐突な問いに、言葉が詰まった。
「そんなの、考えても意味ないだろ。誰が一人だけとか、決まってるわけじゃ──」
「そうかもしれない。でも、考えとかないといけない」
澪の声は、思った以上に固かった。
「ここで、“誰も死なないまま全員が帰れる”なんて展開、たぶんこの施設は想定してない。HEARTも、外の大人たちも。だったら、最悪の前提で考えるしかない」
凌は黙った。
言い返したかった。
そんなの決めつけだ、と。
でも、心のどこかで同意している自分がいた。
ここが「人間の心」を試すための箱だとしたら、きれいなハッピーエンドを期待してはいけない。
「私はね」
澪は、紙コップをじっと見つめた。
「外に出たいと思ってる」
その言葉は、少しも揺れていなかった。
「家族がどうなってるか知りたいし、この現象が本当に“心のせい”だけなのかも、自分の目で確かめたい。ニュースで見るだけじゃなくて、ちゃんと」
凌は、思わず彼女の横顔を見つめた。
澪の家族のことを、凌はほとんど知らない。
どんな家なのかも、どんな関係なのかも。
だけど、その目に宿るのは「恐怖」だけじゃなかった。
そこには明確な「意思」があった。
「だから──」
澪は、ほんのわずかに息を吸い込む。
「誰かを犠牲にしてでも、生き残りたいと思ってる」
凌の喉が、ひゅ、と音を立てた。
「きれいごと言って死ぬより、醜くても、生きて確かめたい」
その告白は、透明な刃物みたいだった。
「生きたい」と言っている。
同時に、「誰かが死んでもその上を歩く」と言っている。
誰かを撃つ覚悟を持っている。
誰かの弾丸の標的になる覚悟じゃなく、「自分が撃つ側になるかもしれない」という宣言。
見えない殺意の、正直な告白だった。
凌の中で、矛盾した感情が同時に膨らんだ。
そんなことを平然と言える澪に対する、原始的な怖さ。
そして、それを隠さず口にしてくれたことへの、妙な安心感。
今までの自分たちの「きれいごと」が、一枚皮を剥がされた気がした。
「……俺は」
凌は、視線を床に落とした。
「たぶん、誰かを撃つ覚悟なんて、持てない」
「知ってる」
即答だった。
澪は、ふっと口元を緩める。
「あんた、ずっとそういう顔してるもん。誰かを疑うたびに、心臓鷲づかみにされてるみたいな顔」
「……褒めてるのかそれ」
「褒めてない。でも、嫌いじゃない」
澪は、続けた。
「だからこそ怖いの。あんたみたいなタイプが、一番最後に“誤射”しそうで」
「誤射?」
「追い詰められて、自分でも気づかないうちに誰かを撃っちゃいそうってこと」
澪は、スクリーンのない天井を見上げた。
「信じたくないって思いながら、最後の最後にすがるみたいに“信じてしまう”瞬間とか。
誰も疑いたくないって思いながら、積もり積もった苛立ちや不安が一気に爆発する瞬間とか。そういう時、透明な弾丸は一番よく飛ぶんだと思う」
凌は息を飲んだ。
自覚がある。
自覚しているからこそ、何も言い返せなかった。
自分は、「ゆっくり死んでいく」役だと思っていた。
誰かを撃てない弱さのせいで、最後に余った一人になるタイプだと。
でも、澪の言葉は別の可能性を突きつける。
──最後に撃つのは、お前かもしれない。
無自覚のまま、最悪の瞬間にトリガーを引く。
そのイメージが、背筋を冷やした。
その時、廊下側のスピーカーが、ピッ、と短く鳴った。
「水城澪さん、朝倉凌さん」
HEARTの声だ。
「現在、お二人の相互信頼値が危険域に近づいています。感情の制御を推奨します」
凌と澪は、同時に天井を見上げた。
スクリーンがないこの部屋でも、HEARTは数値を把握している。
目に見えないだけで、心の動きは全部ログに残されている。
「……うるさいな」
澪が小さく呟いた。
「ねえ、HEART」
「はい」
「“好き”って感情は、どっちに分類されるの? 疑念? 信頼?」
凌の心臓が、ひときわ大きく跳ねた。
その単語ひとつで、体温が上がるのがわかる。
さっきまでの怖さとは別の種類の熱だ。
HEARTは、いつも通り淡々と答えた。
「“好き”という主観的ラベリングの内訳は複合的です」
「複合……?」
「独占欲、羨望、安心感、期待、恐れ、自己評価の投影など、複数の感情成分から構成されます。そのうち、特定の対象を“絶対視”し、自他の境界を一時的に曖昧化する傾向は、信頼値の上昇に大きく寄与します」
つまり、好きは信頼に傾きやすい。
それは、この世界では「死に近い」感情だ。
「そっか」
澪は、短く息を吐いた。
「だったら、言わないほうがいいね」
言葉は、それ以上続かなかった。
言わなかった言葉が、逆に凌の胸を鋭く刺す。
“言わないほうがいい”何かが、今まさに喉元でせり上がってきていたのだろう。
それを自分で飲み込んだ澪の横顔は、どこか苦しそうだった。
HEARTの監視がなければ。
透明な弾丸が存在しなければ。
ここが普通の高校の教室だったなら。
きっと違う言葉が、今この場で交わされていたはずだ。
「……戻ろうか」
澪が立ち上がる。
椅子がきしむ音が、やけに大きく響いた。
「変な話に付き合ってくれてありがと」
「変じゃない」
凌は、立ち上がりながら言った。
「ここで“生きたい”って言ってくれるのは、なんか、ちょっと安心する」
「死にたいって言われるより?」
「あたりまえだろ」
その答えに、澪は少しだけ目を見開き、それから小さく笑った。
「……そうだね」
二人は物置部屋を出て、元の区画へ戻っていく。
廊下には誰もいない。
HEARTだけが、天井から静かに見ている。
部屋に戻ったあとも、凌の信頼値は、少し高めのまま下がらなかった。
*
ベッドにうつ伏せになり、凌は枕に顔を埋める。
カーテン越しに、かすかに共同スペースの光が漏れている。
上の段からは、朔の寝息が聞こえてくる。
目を閉じても、さっきの会話が何度も再生された。
誰かを犠牲にしても生き残りたいと告げた澪。
そのままの彼女を怖いと思った自分。
それでも、そんな正直な本音を聞けたことに対する安堵。
そして──「好き」という言葉を、飲み込んだ彼女の横顔。
(俺は、何を守りたいんだろう)
生き残るためだけなら、誰も信じないほうがいい。
誰も疑わないほうがいい。
でもそれは、「誰のことも大事にしない」ってことと紙一重だ。
生きたい。
でも、誰かを撃ってまで生きたくない。
誰かを大事に思いたい。
でも、大事に思えば思うほど、信頼値は上がる。
この施設のルールは、真っ先に「人間らしさ」を狙い撃ちしてくる。
「……ほんと、最悪だな」
凌は、枕に顔を押しつけたまま、かすれた声で呟いた。
心のどこかで、「死んでもいいかもしれない」とさえ、一瞬思ってしまう。
そんな自分に、すぐさま自己嫌悪が追いついてくる。
自分を責めるたびに、自己疑念値がじわじわと上がっていくのが目に浮かぶようだった。
*
翌朝。
まだ朝食前の、少し肌寒い時間帯だった。
警告音が、区画中に鳴り響いた。
「緊急アラート。透明弾発射事例・居住区画A」
聞き慣れたはずの機械音声なのに、その瞬間だけ、施設全体の空気が凍りついたように感じた。
「……また、誰か」
カナがぼそりと呟く。
凌は布団から飛び起き、朔と目を合わせた。
互いに何も言わず、頷き合う。
廊下には、他のクラスメイトたちも顔を出していた。
全員が、足取りをそろえて共同スペースへ向かう。
そこで目にしたのは──一本の本が、床に落ちている光景だった。
厚めの文庫本。表紙は見慣れない洋書のデザイン。
その近くに、ひとりの男子が仰向けに倒れていた。
名前は、秋庭。
クラスメイトだが、ここに来てからも、ほとんど誰とも話そうとしなかった少年だ。
いつも隅の席で本を読み、必要最低限の返事しかしない。
「一人のほうが楽」と言って、誰かに誘われても苦笑いを返していた。
その秋庭が、今、床に静かに横たわっている。
胸には穴も血もない。
表情は、驚いたような、納得したような、奇妙な中間だった。
誰かが駆け寄ろうとした瞬間、HEARTが冷静な声で告げる。
「接触は不要です。生命反応はありません」
スクリーンが切り替わり、「秋庭蓮」のログが表示された。
昨日から今朝にかけての、疑念値、信頼値、自己疑念値。
そして、他の人たちより目立っていたのは──「自己信頼値」という項目だった。
そこだけが、この数時間で異常に跳ね上がっている。
「……自己信頼値?」
誰かが呟く。
HEARTが解説を始めた。
「自己信頼値とは、“自分だけは大丈夫”という確信や、“自分だけは特別だ”という認識に関連する指標です」
スクリーンには、秋庭の心的状態の変動がグラフとして映し出されている。
「昨夜から今朝にかけて、秋庭蓮さんの自己信頼値は急激に上昇しました。他者への関心が薄く、疑念値・信頼値ともに低い状態が続いていたため、自身を“安全領域にいる例外”とみなす傾向が強まったと推測されます」
凌は、息を詰めた。
秋庭は、誰とも深く関わろうとしなかった。
その態度は、ある意味で「正解」に見えた。
誰も信じないし、誰も疑わない。
自分だけの世界に籠もって、本のページだけを相手にしていればいい。
その結果、彼はこう思ったのかもしれない。
──自分だけは、このルールの外側にいる。
──自分だけは、「撃たれない側」にいる。
いわば、「自分を絶対視した」。
「自分だけは大丈夫だ、と強く思った瞬間、弾丸が自分に戻ったと考えられます」
HEARTは、そう結論づけた。
「自己信頼値が極端に高まった場合も、透明弾発射のトリガーになり得ることが確認されました」
誰かを信じるのもだめ。
誰かを疑うのもだめ。
そして、自分を絶対視するのもだめ。
凌は、秋庭の顔を見つめた。
彼の眼鏡は少しずれており、片方のレンズに光が反射している。
こんな形でなければ、話してみたら案外気が合ったかもしれない。
そんなことを考えてしまう自分に、また自己嫌悪が押し寄せる。
澪が、いつの間にか隣に来ていた。
彼女の顔色は悪い。
HEARTの説明を聞きながら、彼女は小さな声で言った。
「……本当に、ゼロしか許されないんだね」
「ゼロ?」
「誰も疑わない。誰も信じない。自分も、特別視しない」
澪は、スクリーンを見上げた。
「疑いも信頼も、プラスにもマイナスにも大きく振れない、完全なニュートラル。どこにも寄りかからない心」
それは、まるで、「人間をやめろ」と言われているようだった。
「そんなの、できると思うか?」
凌は思わず聞いた。
「わからない。でも、どこかで近づかないと、ここでは死ぬ」
澪の声は、かすかに震えていた。
「でもさ」
凌は、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。
「もし、本当にそんな心になれたとして……それ、生きてるって言えるのかな」
誰も疑わない。
誰も信じない。
誰のことも特別だと思わない。
自分のことすら、信じない。
そんな状態で外に出られたとしても、その先で何かを好きになったり、誰かを大事に思ったりできるのか。
それができないなら、それはただ「壊れずに残っただけ」の器だ。
HEARTは、その問いに答えなかった。
ただ、事実だけを記録し続ける。
秋庭蓮、死亡。
原因:自己信頼値・異常上昇。
居住者たちは、静かにその背中を見送るしかなかった。
透明な告白も。
見えない殺意も。
そして、自分だけは大丈夫だという小さな思い上がりも。
この箱の中では、全部が等しく──銃声の理由になり得るのだと、全員が思い知らされた。




