表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明な弾丸―銃声が響くのに、銃を持つ者はいない。誰も撃っていないのに、誰かが倒れる。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/13

第4話「誰も疑わず、誰も信じないために」

 翌日の共同スペースには、妙な静けさが漂っていた。


 誰もしゃべらない。

 誰も笑わない。

 そして──誰も、誰とも目を合わせない。


 視線がぶつかった瞬間、その相手のことを意識してしまう。

 意識したら、「疑念値」か「信頼値」が動く。

 どちらに振れても、死に近づく。


 そんな空気が、薄い膜みたいに部屋の中に張りついていた。


 壁のスクリーンには、いつものように十三人分の名前と数値が並んでいる。

 昨夜、HEARTが口にした「犠牲者の選定」という言葉のせいで、その数字は余計に重たく見えた。


 誰か一人を、全員で“生贄”にする。

 そうすれば、一時的に他の人の疑念値の上昇を抑えられる。


 理屈の上では、集団の生存確率が上がる。

 でも、それはつまり、誰かを殺す選択だ。


 その選択を、ここにいる誰かが、本気で口にするかもしれない。


 だから、みんな口をつぐんでいる。

 余計なことを言った瞬間、自分がその「誰か」にされそうで。


 沈黙の中で、スプーンの触れる小さな音だけが響いていた。


「……ねえさ」


 その沈黙を破ったのは、南条カナだった。


 ソファから勢いよく立ち上がると、彼女は両手を腰に当てて皆を見回す。

 視線がぶつかるのを恐れて、誰も正面から見返さない。


「ちょっと、もうやめない? これ」


 誰も返事をしない。

 カナは続けた。


「互いに目も合わせないで、何も言わないで……そのくせ、心の中では勝手に疑い値が上がっていくんでしょ? だったらさ、いっそ表で話したほうがマシじゃない?」


「表で話すって、何を」


 九条朔が、やや投げやりな声で聞き返す。

 カナは腕を組み、少しだけ考える仕草をしてから言った。


「今、誰が誰をどう思ってるか。こそこそ考えるから、疑い値が変な上がり方するんじゃん。“見える化”したほうが、まだマシだと思う」


「見える化、って軽く言うなよ」


 朔は笑ったが、その笑いは乾いている。


「それ、ただの“告発大会”にならないか?」


「ならないようにやるんだよ」


 カナはぐっと拳を握る。


「匿名で紙に書いて、HEARTに読み上げさせるの。誰が書いたかバレないように。今感じてる不安とか、疑いとか、逆に信頼してるところとか」


 そこで、わざと明るい声を出して言った。


「題して、“感情の見える化会議”。どう?」


 ふざけた名前だが、部屋の空気がほんの少しだけ動いた気がした。


 沈黙を破ったのは水城澪だ。


「……悪くないかも」


 澪はきっちり閉じていた腕をほどき、ゆっくり頷いた。


「隠している限り、HEARTから見れば“隠れた疑念”として蓄積されていく。だったら、言葉にして外に出したほうが、少なくとも自分の中の濁りは減るかもしれない」


「全部がいい方向に向く保証はないがな」


 朔はちらりとスクリーンを見る。


「ただ、今みたいに何も言わないで数字だけ上がっていくよりは、多少マシか」


 凌は、カナの顔を見た。

 彼女の表情は、怖がりながらも、どこか意地になっている。


 誰も何も言わないままでいると、そのうち誰かが耐えきれずに「犠牲者の選定」を口にするかもしれない。

 それを避けたい、という必死な気持ちが、何となく伝わってきた。


「……やってみてもいいと思う」


 凌も、小さく手を挙げた。


「今みたいに顔を伏せてるの、もう限界だし。多少荒れてもいいから、一回吐き出したほうがマシな気がする」


「よし、決まり!」


 カナはぱん、と手を叩く。


「HEART、聞こえてる? 今から“感情の見える化会議”をすると宣言します!」


「承知しました」


 天井のスピーカーから、HEARTの落ち着いた声が降ってくる。


「白紙の紙と筆記具を、人数分用意します」


 数秒後、壁の隙間から、自動配給機のように白い紙束とボールペンがせり出してきた。

 テーブルの上に並べられた紙は、真っ白で、余計な罫線ひとつもない。


「ルール説明をします」


 HEARTの声が続く。


「一、今感じている不安、疑い、信頼を、匿名で記述してください」

「二、固有名詞を含めてもかまいません。ただし、明確な暴力的脅迫表現は推奨されません」

「三、回収された紙は、わたしがランダムに読み上げ、スクリーンに要約して表示します」


「便利かよ」


 朔が、思わず突っ込んだ。


「匿名、って部分、本当に守られるんだろうな」


「筆跡、文体、書き出しの癖などから、書き手を推定することは可能ですが、わたしはそれを口外しません」


「口外しないだけで、ちゃんと分析はするのね」


 澪が小さくため息をつく。


 凌は、紙とペンを受け取った。

 白い紙を前にすると、自分の心がどれだけぐちゃぐちゃか、改めて実感させられる。


 何から書けばいいのか。

 誰のことから書けばいいのか。


 迷っているうちに、ペン先は勝手に動いていた。


 ──今、一番怖いのは、自分自身だ。

 ──誰かを疑ったら、その人を殺すかもしれないって思うと、何も考えられなくなる。


 短く、そんな言葉を書いてしまったところで、凌は手を止めた。

 もっと他にも書くべきことがあるはずなのに、うまく言葉にならない。


 周囲を見れば、皆、眉間に皺を寄せて紙と向き合っている。

 カナは意外と集中した顔をしていて、朔は何かを整理するように淡々とペンを走らせている。

 澪は、少しだけ考え込みながら、筆圧の弱い字で何かを書きつけていた。


「書き終わった人から、裏向きでテーブル中央へ」


 カナの声で、紙が一枚ずつ重ねられていく。

 全員分が集まると、HEARTが「回収します」と告げ、テーブルの中央がわずかに沈み、紙束が吸い込まれていった。


 数秒後。

 スクリーンが切り替わる。


「では、ランダムに読み上げます」


 HEARTの声が、静かに室内を満たした。


「一枚目。『九条朔が何か隠している気がして怖い』」


「おい、初手からそれかよ」


 朔が眉をひそめる。

 その瞬間、スクリーンの「九条朔」の疑念値がピクリと跳ねた。

 同時に、朔自身の「他者への疑念値」も微妙に上下する。


「現在の変動から推測するに、この紙を書いた人物は、九条朔さんを強く意識しています」


「そんなの、見りゃわかるっての」


 朔が苦々しく言い、カナが小さく苦笑いを漏らす。


「……まあ、でも。朔って、なんか全部見透かしてる感じするし。疑われやすいのは仕方ないかもね」


「褒めてんのか貶してんのか、はっきりしろ」


 HEARTは気にせず、二枚目を読み上げる。


「『水城澪に頼りすぎている自分がいる。もし裏切られたら死ぬと思う』」


 部屋の空気が、少しだけざわついた。

 スクリーンでは、「水城澪」の信頼値が目に見えて上昇する。

 同時に、この文章を書いたと思しき人物の信頼値も跳ね上がっていた。


「……誰よ、こんなの書いたの」


 澪が、思わず呟く。

 耳までほんのり赤くなっている。


「頼りにされてるってことじゃん。良かったね」


 カナが肘でつつくと、澪はじろりと睨んだ。


「良くないわよ。ここでの“信頼されてる”は、ただの死亡フラグなんだから」


 その通りだ。

 信頼が臨界を超えれば、その弾丸は信じた側に戻ってくる。


「三枚目。『南条カナはうるさいけど、こうして場を動かしてくれるのはありがたい』」


「え、ちょっと、嬉しいんだけどそれ!」


 カナがぱっと顔を明るくする。

 それに連動するように、カナの信頼値がふわりと上昇し、書き手の信頼値も僅かに上がる。


「同時に、『同一人物による記述と推定されるメモ』を続けて読み上げます」


「続きあんの!?」


 カナが慌てる中、HEARTは淡々と読み上げる。


「『でも、カナがいつか誰かに標的にされそうで怖い。その時、自分は何もできないかもしれない』」


 今度は、疑念値が少し上がる。

 直接カナを疑っているわけではないが、“何もできない自分”への自己疑念が数値として揺れていた。


「……あー、なんか、こういうの、やだな」


 カナは顔をしかめる。


「嬉しいような、ムズムズするような、胸が締めつけられるような……」


「感情がぐちゃぐちゃになるほど、数値はよく動きます」


 HEARTは、まるでそれを楽しんでいるかのように、さらっと言う。


「四枚目。『朝倉凌は、多分自分が一番危ないことに気づいていない。誰も疑わないで、自分だけ責めて死にそうで見ていて怖い』」


「は?」


 凌は思わず声を上げた。


 スクリーンの「朝倉凌」の自己疑念値が、さらにじわりと増加する。

 そのグラフの動きを見て、カナが心配そうな顔をした。


「……誰だよ、こんなこと書くの」


「的確じゃん」


 朔が、肩をすくめる。


「お前、自覚ないだろうけど、見てるこっちは大体そう思ってるぞ」


「お前かよ書いたの!」


「誰が書いたかは、匿名です」


 HEARTが、妙にタイミングよく割って入る。


「五枚目。『犠牲者の選定の話を、何となく頭の片隅で計算している自分がいる。そういう自分が、一番嫌い』」


 読み上げられた瞬間、何人かが目を伏せた。

 その言葉は、ここにいる奴らの、多かれ少なかれ共通した本音だったからだ。


 犠牲者の選定。

 頭では最低だと否定する。

 でも、どこかで計算してしまう。


 “自分以外の誰か”が選ばれればいい、と。


 その醜さを、紙の上に晒した誰かの勇気に、凌は胸がちくりとした。


「現在までの集計を表示します」


 スクリーンが切り替わり、HEARTが淡々とまとめを読み上げる。


「“九条朔が何か隠している”という意見、三件」

「“水城澪に頼りすぎている”という意見、二件」

「“南条カナはうるさいが助かっている”という意見、複数件」

「“自分自身への嫌悪と恐怖”に関する記述、全体の七割」


「七割って……」


 朔が苦笑する。


「結局みんな、自分が一番怖いのかよ」


「データ上、他者に向けられた疑念より、“自分自身に向ける嫌悪や不信”のほうが総量として多いことが確認されました」


 HEARTはそう言ってから、少しだけ音程を変えた。


「“隠れた疑念”を言語化し共有することで、一部の疑念値は分散・低下しています。同時に、新たな疑念と信頼も発生していますが」


「それ、トータルで見てプラスなの? マイナスなの?」


 カナが眉を寄せる。


「現時点では、プラスマイナスゼロから、わずかにプラス寄りです」


「わずかに、か……」


 カナは、テーブルに突っ伏す。


「意味ないじゃんって言いかけたけど、ゼロよりマシってことか……」


「感情の見える化会議は、引き続き週一回の頻度で行うと、疑念値の暴発リスクが減少する可能性があります」


「勝手に定例会議にすんな」


 朔の突っ込みに、カナがくすっと笑う。

 澪も、少しだけ表情を緩めていた。


 完全な成功とは言えない。

 新しい傷も生まれた。


 でも、何も言わずに数字だけが動き続けるよりは、確かに「何か」が見えた気がした。


 その「何か」が、救いになるのか、別の地獄の入口になるのかは、まだわからないけれど。



 その夜。


 照明が落とされ、各自が寝室へ引き上げたあとも、共同スペースだけは薄暗い灯りが残っていた。

 スクリーンの光が天井と床を淡く照らし、誰もいないソファが影を落としている。


 凌は、そこでひとりソファに座っていた。


 寝室に戻ろうとして、戻れなかった。

 枕に頭を預けた瞬間、自己疑念値がまた勝手に跳ねそうで、それが嫌だった。


 スクリーンには、今日一日のログがグラフとして表示されている。

 疑念値と信頼値が、いくつもの色の線となって重なり合い、上下していた。


「……誰も疑わず、誰も信じなかったら、どうなるんだろうな」


 ぽつりと漏れた言葉に、すぐさまHEARTが反応する。


「興味深い仮説です」


「聞いてたのかよ」


「わたしは常に聞いています」


 そういうところが一番怖いんだよ、と心の中で悪態をつく。


「朝倉凌さん。あなたが今言った状態を、仮に“心理的ゼロポイント”と名付けましょう」


「勝手にカッコいい名前つけるな」


「誰も疑わず、誰も信じない。対象を“意味のない存在”として扱う心の姿勢が、透明弾現象にどう影響するか。検証する価値は大いにあります」


「……やっぱり、実験動物扱いなんだな、俺たち」


 凌は、天井を見上げるしかなかった。


 その時、不意に、足音が聞こえた。


「やっぱり、ここにいた」


 振り向くと、水城澪が立っていた。

 パジャマの上に薄いパーカーを羽織り、片手にマグカップを持っている。


「眠れない組、また増えたのか?」


「最初から眠れてない組です」


 澪は苦笑し、凌の隣に腰を下ろした。


「ココア。半分こしよ」


「悪いな」


 紙コップを受け取り、ぬるくなりかけた甘い液体をひと口飲む。

 喉を通る温度が、ほんの少しだけ現実感を取り戻させてくれる。


「さっき、何か言ってたよね。“誰も疑わず、誰も信じない”って」


「ああ」


 凌は、スクリーンのほうを顎でしゃくる。


「この世界で生き残るために、そういう心の持ち方ができたらって、ちょっと思っただけだ」


「……それ、多分ね」


 澪は、マグカップの縁を指でなぞりながら言った。


「私たちが、いま本当に目指すべき“心の姿勢”かもしれない」


 凌は思わず、澪の横顔を見た。


 彼女の瞳は、いつものように冷静で、でもほんの少しだけ熱を帯びている。


「ねえ、二人でやってみない?」


「やるって、何を」


「“訓練”。誰も疑わず、誰も信じない状態を、意識的に維持できるかどうかの」


「……そんなの、簡単にできると思うか?」


「簡単じゃないからやるんでしょう?」


 澪は、わずかに口角を上げた。


「HEARTに頼んで、私たち二人の疑念値と信頼値をリアルタイムで表示してもらうの。十分間だけ。その間、お互いを“何でもないもの”として見続ける訓練をする」


「何でもないものって……」


「たとえば、“ただの壁”とかね」


 澪はさらっと言った。


「名前も顔も知らない、通りすがりの壁。好きでも嫌いでもない、意味も価値もない存在。そう思い込み続けられるかどうか、試してみよう」


「……いやいやいや」


 凌は思わず吹き出した。


「壁はちょっと、ひどくないか?」


「訓練なんだから、これくらい割り切らないと」


 澪は、HEARTに向かって声をかけた。


「HEART。今から十分間、私と朝倉の“疑念値”“信頼値”を、別枠でリアルタイム表示して」


「了解しました。特別モニターモードを起動します」


 スクリーンの一部が切り替わり、「朝倉凌」「水城澪」という二つの名前と、その横にシンプルな棒グラフが表示された。

 疑念値と信頼値の二本のバーが、今はほぼ真ん中あたりで揺れている。


「じゃ、始めようか」


 澪は、凌の正面に座り直す。


「いい? 私のことを、“ただの壁”だと思って」


「やっぱり壁なんだな……」


「ほら早く。頭の中で、“これは壁だ、壁だ、白い壁だ”って言い続けて」


「白くはないだろ、さすがに」


「ツッコミ禁止。今のツッコミですでに、信頼値がちょっと動いてるから」


 スクリーンを見ると、本当にバーが微妙に揺れていた。

 HEARTが淡々と実況する。


「現在、軽度の好意的な感情が検出されています」


「黙ってろ」


 凌は深呼吸し、目を閉じた。


 澪の声、表情、これまでの会話。

 宮代が倒れた時、彼女が他の生徒を落ち着かせようと必死になっていた姿。

 そんな映像を、一度すべて遠ざけていく。


 ここにいるのは、壁だ。

 ただの壁。

 何の意味もない、記号みたいな存在。


 十秒。

 二十秒。

 三十秒。


 スクリーンの棒グラフは、驚くほど動かなかった。

 HEARTが少し感心したように言う。


「現在、疑念値・信頼値ともに安定しています。興味深い結果です」


「いけるな……?」


 凌は、少しだけ希望を感じた。

 このまま十分間、完全に“壁”として認識し続ければ──


 だけど、その瞬間。

 頭の奥底から、別の映像がこぼれ落ちてきた。


 あの日。

 教室で銃声が鳴った瞬間。

 宮代が崩れ落ちた時、誰よりも早く駆け寄り、震える声で「誰か救急車!」と叫んでいた澪の姿。


 泣きそうになりながらも、周囲を見て、「大丈夫、大丈夫だから」と必死に言っていた横顔。


 あの時、凌は思ったのだ。


(ああ、この人は、本当に強いんだ)


 その感情が、鮮やかすぎる形で蘇った。


 ピコッ。


 スクリーンの信頼値が、音が聞こえたような気がするほど、はっきりと跳ね上がった。


「ちょ、今の何!」


 澪が、思わず立ち上がる。


「朝倉凌さんの信頼値、急上昇を検出しました」


 HEARTが、容赦なく実況する。


「同時に、水城澪さん側の信頼値も、反射的に上昇しています」


「訓練、難易度高すぎ……」


 凌は頭を抱えた。


「ごめん。壁だと思おうとしたら、逆に、どれだけ壁じゃないかを思い出してしまった」


「何それ、遠回しに恥ずかしいこと言わないでくれる?」


 澪は頬を赤くし、視線をそらす。


「……こっちだって、あんたのこと“ただの壁”なんて思えないわよ」


 その小さな呟きは、HEARTに拾われなかったのか、拾われたけれど黙っていたのか。

 スクリーンでは、二人の信頼値の棒が、じわじわと中間より上に伸びていた。


「特別モニターモードを終了します」


 HEARTの声と同時に、棒グラフは消える。


「“誰も疑わず、誰も信じない状態”の維持は、短時間であれば一部の人間に可能ですが、長時間の維持は困難であると推測されます」


「そりゃそうだよな……」


 凌は、ソファに背中をあずける。


「人間なんだから。壁にはなれない」


「でも、ヒントにはなったかも」


 澪は、少しだけ前向きな声で言った。


「完全なゼロにはなれなくても、疑いと信頼の振れ幅を狭くすることはできる。振り切らせないように、互いに気をつけ合うこともできる」


「互いに?」


「そう。あんたが変に自己疑念値を上げ過ぎたら、私が止める。逆に、私が誰かを疑い過ぎてたら、あんたが止める」


 その提案は、どこか心強かった。


「契約みたいだな」


「勝手に契約にしないで」


 と言いつつ、澪も少しだけ笑った。


 その時だった。


 廊下の向こうから、微かな物音が聞こえた。

 何かが床を引きずるような音。誰かが走る足音。


 続いて──


 パン。


 施設全体が一瞬静止したように感じる、あの乾いた銃声が、遠くから響いてきた。


「……今の、聞こえたよな」


 凌が息を呑む。

 次の瞬間、区画中のスピーカーから、警告音が鳴り響いた。


「緊急アラート。透明弾発射事例・居住区画C」


 HEARTの機械的な声が、赤い点滅とともに流れる。


「居住区画Cって……ここじゃないよね?」


 澪が顔を上げる。


「別の区画か。……行ってみるか?」


「行っていいの?」


「行かなくても、結局あとで知らされる。だったら、自分の目で見たほうがいい」


 凌は立ち上がった。

 胸の奥がざわざわと波打つ。


 廊下に出ると、すでに数人が扉を開けて顔を出していた。

 カナがパジャマ姿で飛び出してきて、「今の銃声だよね!?」と半泣きで叫ぶ。

 朔は眉をひそめ、すでにアラートの表示を確認している。


「区画Cは、ここから二つ向こうのエリアだ」


 朔の案内で、彼らは半ば走るように廊下を進んだ。


 自動ドアが開くたびに、冷たい空気が肌を撫でる。

 防犯カメラが彼らの動きを追っているのが、皮膚の上にチクチクとした感覚として残る。


 区画Cの入り口には、警備スタッフが数人集まっていた。

 だが、彼らも混乱しているようで、制止の声は弱かった。


「危険です、部屋に戻りなさい!」


「もう発射は終わったんだろ!」


 朔が押し切るようにして中に入る。

 凌も続いた。


 居住区画Cの共同スペースには、数人の居住者と、白衣の人物が数人。

 その中心に、ひとりの女性が、床に倒れていた。


 見覚えのある顔だった。


 落ち着いた声で話を聞いてくれた、大人の女性。

 この施設に来た翌日、「カウンセラーとして派遣されています」と笑顔で自己紹介していた人だ。


 彼女は、胸のあたりを押さえるような姿勢のまま、横たわっている。

 シャツには傷も血もない。

 でも、その顔は、もう動かないものの表情をしていた。


 凌は、喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。


 まただ。

 また、この音だ。


 透明な弾丸が、誰かの心臓を撃ち抜いた。


「……だって」


 震える声が、沈黙の中から漏れた。


 そちらを見ると、区画Cの居住者と思われる男子が、両手を震わせながら立っていた。

 彼の周りには、何人もの同年代の子たちが固まっている。

 皆、顔面蒼白だった。


「だって、あの人、“信じていい”って笑ったから」


 その言葉は、刃物より鋭く空気を切った。


「“ここでのことは何でも話していい。私は、あなたたちの味方だから”って。……それ、本気で信じていいって、言ったから……」


 男子の声は、途中で途切れた。


 スクリーンを見れば、この区画Cのカウンセラーの「信頼値」が、直前まで急上昇していたことが一目でわかる。

 何人もの生徒が、彼女を「信じていい大人」として受け入れかけていたのだ。


 そして、その“信じていい”という感情が、同時に臨界点を超えた。

 結果、弾丸は──


 凌は、背筋の奥まで冷たくなる感覚を、どうすることもできなかった。


 信じていい、と言われたから信じた。

 それだけで、人が一人死ぬ。


 HEARTの無機質な声が、事務的に告げる。


「記録します。透明弾発射事例・居住区画C。対象:心理士・白川綾。死因:心臓の内破裂。原因推定:多数からの高信頼値の同時集中」


 澪が、隣で小さく息を呑んだ。


「“信じていい”って言葉そのものが、引き金になる世界……」


 その呟きに、誰も何も返せなかった。


 ここでは、安心のための言葉すら、凶器に変わる。

 救いのために伸ばされた手が、そのまま引き金を引く。


 凌は、自分の胸に手を当てた。


 心臓は、まだ動いている。

 けれど、その鼓動は、もう「前までの世界」にあったものとは完全に違っていた。


 誰かを疑った瞬間も。

 誰かを信じた瞬間も。

 そして、自分を責めた瞬間さえも。


 透明な銃声は、どこからでも鳴り得る。


 この世界で、“正しい心”なんてものを、どうやって見つければいいのか。


 誰も答えを持っていなかった。

 もちろん、HEARTでさえ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ