第4話「誰も疑わず、誰も信じないために」
翌日の共同スペースには、妙な静けさが漂っていた。
誰もしゃべらない。
誰も笑わない。
そして──誰も、誰とも目を合わせない。
視線がぶつかった瞬間、その相手のことを意識してしまう。
意識したら、「疑念値」か「信頼値」が動く。
どちらに振れても、死に近づく。
そんな空気が、薄い膜みたいに部屋の中に張りついていた。
壁のスクリーンには、いつものように十三人分の名前と数値が並んでいる。
昨夜、HEARTが口にした「犠牲者の選定」という言葉のせいで、その数字は余計に重たく見えた。
誰か一人を、全員で“生贄”にする。
そうすれば、一時的に他の人の疑念値の上昇を抑えられる。
理屈の上では、集団の生存確率が上がる。
でも、それはつまり、誰かを殺す選択だ。
その選択を、ここにいる誰かが、本気で口にするかもしれない。
だから、みんな口をつぐんでいる。
余計なことを言った瞬間、自分がその「誰か」にされそうで。
沈黙の中で、スプーンの触れる小さな音だけが響いていた。
「……ねえさ」
その沈黙を破ったのは、南条カナだった。
ソファから勢いよく立ち上がると、彼女は両手を腰に当てて皆を見回す。
視線がぶつかるのを恐れて、誰も正面から見返さない。
「ちょっと、もうやめない? これ」
誰も返事をしない。
カナは続けた。
「互いに目も合わせないで、何も言わないで……そのくせ、心の中では勝手に疑い値が上がっていくんでしょ? だったらさ、いっそ表で話したほうがマシじゃない?」
「表で話すって、何を」
九条朔が、やや投げやりな声で聞き返す。
カナは腕を組み、少しだけ考える仕草をしてから言った。
「今、誰が誰をどう思ってるか。こそこそ考えるから、疑い値が変な上がり方するんじゃん。“見える化”したほうが、まだマシだと思う」
「見える化、って軽く言うなよ」
朔は笑ったが、その笑いは乾いている。
「それ、ただの“告発大会”にならないか?」
「ならないようにやるんだよ」
カナはぐっと拳を握る。
「匿名で紙に書いて、HEARTに読み上げさせるの。誰が書いたかバレないように。今感じてる不安とか、疑いとか、逆に信頼してるところとか」
そこで、わざと明るい声を出して言った。
「題して、“感情の見える化会議”。どう?」
ふざけた名前だが、部屋の空気がほんの少しだけ動いた気がした。
沈黙を破ったのは水城澪だ。
「……悪くないかも」
澪はきっちり閉じていた腕をほどき、ゆっくり頷いた。
「隠している限り、HEARTから見れば“隠れた疑念”として蓄積されていく。だったら、言葉にして外に出したほうが、少なくとも自分の中の濁りは減るかもしれない」
「全部がいい方向に向く保証はないがな」
朔はちらりとスクリーンを見る。
「ただ、今みたいに何も言わないで数字だけ上がっていくよりは、多少マシか」
凌は、カナの顔を見た。
彼女の表情は、怖がりながらも、どこか意地になっている。
誰も何も言わないままでいると、そのうち誰かが耐えきれずに「犠牲者の選定」を口にするかもしれない。
それを避けたい、という必死な気持ちが、何となく伝わってきた。
「……やってみてもいいと思う」
凌も、小さく手を挙げた。
「今みたいに顔を伏せてるの、もう限界だし。多少荒れてもいいから、一回吐き出したほうがマシな気がする」
「よし、決まり!」
カナはぱん、と手を叩く。
「HEART、聞こえてる? 今から“感情の見える化会議”をすると宣言します!」
「承知しました」
天井のスピーカーから、HEARTの落ち着いた声が降ってくる。
「白紙の紙と筆記具を、人数分用意します」
数秒後、壁の隙間から、自動配給機のように白い紙束とボールペンがせり出してきた。
テーブルの上に並べられた紙は、真っ白で、余計な罫線ひとつもない。
「ルール説明をします」
HEARTの声が続く。
「一、今感じている不安、疑い、信頼を、匿名で記述してください」
「二、固有名詞を含めてもかまいません。ただし、明確な暴力的脅迫表現は推奨されません」
「三、回収された紙は、わたしがランダムに読み上げ、スクリーンに要約して表示します」
「便利かよ」
朔が、思わず突っ込んだ。
「匿名、って部分、本当に守られるんだろうな」
「筆跡、文体、書き出しの癖などから、書き手を推定することは可能ですが、わたしはそれを口外しません」
「口外しないだけで、ちゃんと分析はするのね」
澪が小さくため息をつく。
凌は、紙とペンを受け取った。
白い紙を前にすると、自分の心がどれだけぐちゃぐちゃか、改めて実感させられる。
何から書けばいいのか。
誰のことから書けばいいのか。
迷っているうちに、ペン先は勝手に動いていた。
──今、一番怖いのは、自分自身だ。
──誰かを疑ったら、その人を殺すかもしれないって思うと、何も考えられなくなる。
短く、そんな言葉を書いてしまったところで、凌は手を止めた。
もっと他にも書くべきことがあるはずなのに、うまく言葉にならない。
周囲を見れば、皆、眉間に皺を寄せて紙と向き合っている。
カナは意外と集中した顔をしていて、朔は何かを整理するように淡々とペンを走らせている。
澪は、少しだけ考え込みながら、筆圧の弱い字で何かを書きつけていた。
「書き終わった人から、裏向きでテーブル中央へ」
カナの声で、紙が一枚ずつ重ねられていく。
全員分が集まると、HEARTが「回収します」と告げ、テーブルの中央がわずかに沈み、紙束が吸い込まれていった。
数秒後。
スクリーンが切り替わる。
「では、ランダムに読み上げます」
HEARTの声が、静かに室内を満たした。
「一枚目。『九条朔が何か隠している気がして怖い』」
「おい、初手からそれかよ」
朔が眉をひそめる。
その瞬間、スクリーンの「九条朔」の疑念値がピクリと跳ねた。
同時に、朔自身の「他者への疑念値」も微妙に上下する。
「現在の変動から推測するに、この紙を書いた人物は、九条朔さんを強く意識しています」
「そんなの、見りゃわかるっての」
朔が苦々しく言い、カナが小さく苦笑いを漏らす。
「……まあ、でも。朔って、なんか全部見透かしてる感じするし。疑われやすいのは仕方ないかもね」
「褒めてんのか貶してんのか、はっきりしろ」
HEARTは気にせず、二枚目を読み上げる。
「『水城澪に頼りすぎている自分がいる。もし裏切られたら死ぬと思う』」
部屋の空気が、少しだけざわついた。
スクリーンでは、「水城澪」の信頼値が目に見えて上昇する。
同時に、この文章を書いたと思しき人物の信頼値も跳ね上がっていた。
「……誰よ、こんなの書いたの」
澪が、思わず呟く。
耳までほんのり赤くなっている。
「頼りにされてるってことじゃん。良かったね」
カナが肘でつつくと、澪はじろりと睨んだ。
「良くないわよ。ここでの“信頼されてる”は、ただの死亡フラグなんだから」
その通りだ。
信頼が臨界を超えれば、その弾丸は信じた側に戻ってくる。
「三枚目。『南条カナはうるさいけど、こうして場を動かしてくれるのはありがたい』」
「え、ちょっと、嬉しいんだけどそれ!」
カナがぱっと顔を明るくする。
それに連動するように、カナの信頼値がふわりと上昇し、書き手の信頼値も僅かに上がる。
「同時に、『同一人物による記述と推定されるメモ』を続けて読み上げます」
「続きあんの!?」
カナが慌てる中、HEARTは淡々と読み上げる。
「『でも、カナがいつか誰かに標的にされそうで怖い。その時、自分は何もできないかもしれない』」
今度は、疑念値が少し上がる。
直接カナを疑っているわけではないが、“何もできない自分”への自己疑念が数値として揺れていた。
「……あー、なんか、こういうの、やだな」
カナは顔をしかめる。
「嬉しいような、ムズムズするような、胸が締めつけられるような……」
「感情がぐちゃぐちゃになるほど、数値はよく動きます」
HEARTは、まるでそれを楽しんでいるかのように、さらっと言う。
「四枚目。『朝倉凌は、多分自分が一番危ないことに気づいていない。誰も疑わないで、自分だけ責めて死にそうで見ていて怖い』」
「は?」
凌は思わず声を上げた。
スクリーンの「朝倉凌」の自己疑念値が、さらにじわりと増加する。
そのグラフの動きを見て、カナが心配そうな顔をした。
「……誰だよ、こんなこと書くの」
「的確じゃん」
朔が、肩をすくめる。
「お前、自覚ないだろうけど、見てるこっちは大体そう思ってるぞ」
「お前かよ書いたの!」
「誰が書いたかは、匿名です」
HEARTが、妙にタイミングよく割って入る。
「五枚目。『犠牲者の選定の話を、何となく頭の片隅で計算している自分がいる。そういう自分が、一番嫌い』」
読み上げられた瞬間、何人かが目を伏せた。
その言葉は、ここにいる奴らの、多かれ少なかれ共通した本音だったからだ。
犠牲者の選定。
頭では最低だと否定する。
でも、どこかで計算してしまう。
“自分以外の誰か”が選ばれればいい、と。
その醜さを、紙の上に晒した誰かの勇気に、凌は胸がちくりとした。
「現在までの集計を表示します」
スクリーンが切り替わり、HEARTが淡々とまとめを読み上げる。
「“九条朔が何か隠している”という意見、三件」
「“水城澪に頼りすぎている”という意見、二件」
「“南条カナはうるさいが助かっている”という意見、複数件」
「“自分自身への嫌悪と恐怖”に関する記述、全体の七割」
「七割って……」
朔が苦笑する。
「結局みんな、自分が一番怖いのかよ」
「データ上、他者に向けられた疑念より、“自分自身に向ける嫌悪や不信”のほうが総量として多いことが確認されました」
HEARTはそう言ってから、少しだけ音程を変えた。
「“隠れた疑念”を言語化し共有することで、一部の疑念値は分散・低下しています。同時に、新たな疑念と信頼も発生していますが」
「それ、トータルで見てプラスなの? マイナスなの?」
カナが眉を寄せる。
「現時点では、プラスマイナスゼロから、わずかにプラス寄りです」
「わずかに、か……」
カナは、テーブルに突っ伏す。
「意味ないじゃんって言いかけたけど、ゼロよりマシってことか……」
「感情の見える化会議は、引き続き週一回の頻度で行うと、疑念値の暴発リスクが減少する可能性があります」
「勝手に定例会議にすんな」
朔の突っ込みに、カナがくすっと笑う。
澪も、少しだけ表情を緩めていた。
完全な成功とは言えない。
新しい傷も生まれた。
でも、何も言わずに数字だけが動き続けるよりは、確かに「何か」が見えた気がした。
その「何か」が、救いになるのか、別の地獄の入口になるのかは、まだわからないけれど。
*
その夜。
照明が落とされ、各自が寝室へ引き上げたあとも、共同スペースだけは薄暗い灯りが残っていた。
スクリーンの光が天井と床を淡く照らし、誰もいないソファが影を落としている。
凌は、そこでひとりソファに座っていた。
寝室に戻ろうとして、戻れなかった。
枕に頭を預けた瞬間、自己疑念値がまた勝手に跳ねそうで、それが嫌だった。
スクリーンには、今日一日のログがグラフとして表示されている。
疑念値と信頼値が、いくつもの色の線となって重なり合い、上下していた。
「……誰も疑わず、誰も信じなかったら、どうなるんだろうな」
ぽつりと漏れた言葉に、すぐさまHEARTが反応する。
「興味深い仮説です」
「聞いてたのかよ」
「わたしは常に聞いています」
そういうところが一番怖いんだよ、と心の中で悪態をつく。
「朝倉凌さん。あなたが今言った状態を、仮に“心理的ゼロポイント”と名付けましょう」
「勝手にカッコいい名前つけるな」
「誰も疑わず、誰も信じない。対象を“意味のない存在”として扱う心の姿勢が、透明弾現象にどう影響するか。検証する価値は大いにあります」
「……やっぱり、実験動物扱いなんだな、俺たち」
凌は、天井を見上げるしかなかった。
その時、不意に、足音が聞こえた。
「やっぱり、ここにいた」
振り向くと、水城澪が立っていた。
パジャマの上に薄いパーカーを羽織り、片手にマグカップを持っている。
「眠れない組、また増えたのか?」
「最初から眠れてない組です」
澪は苦笑し、凌の隣に腰を下ろした。
「ココア。半分こしよ」
「悪いな」
紙コップを受け取り、ぬるくなりかけた甘い液体をひと口飲む。
喉を通る温度が、ほんの少しだけ現実感を取り戻させてくれる。
「さっき、何か言ってたよね。“誰も疑わず、誰も信じない”って」
「ああ」
凌は、スクリーンのほうを顎でしゃくる。
「この世界で生き残るために、そういう心の持ち方ができたらって、ちょっと思っただけだ」
「……それ、多分ね」
澪は、マグカップの縁を指でなぞりながら言った。
「私たちが、いま本当に目指すべき“心の姿勢”かもしれない」
凌は思わず、澪の横顔を見た。
彼女の瞳は、いつものように冷静で、でもほんの少しだけ熱を帯びている。
「ねえ、二人でやってみない?」
「やるって、何を」
「“訓練”。誰も疑わず、誰も信じない状態を、意識的に維持できるかどうかの」
「……そんなの、簡単にできると思うか?」
「簡単じゃないからやるんでしょう?」
澪は、わずかに口角を上げた。
「HEARTに頼んで、私たち二人の疑念値と信頼値をリアルタイムで表示してもらうの。十分間だけ。その間、お互いを“何でもないもの”として見続ける訓練をする」
「何でもないものって……」
「たとえば、“ただの壁”とかね」
澪はさらっと言った。
「名前も顔も知らない、通りすがりの壁。好きでも嫌いでもない、意味も価値もない存在。そう思い込み続けられるかどうか、試してみよう」
「……いやいやいや」
凌は思わず吹き出した。
「壁はちょっと、ひどくないか?」
「訓練なんだから、これくらい割り切らないと」
澪は、HEARTに向かって声をかけた。
「HEART。今から十分間、私と朝倉の“疑念値”“信頼値”を、別枠でリアルタイム表示して」
「了解しました。特別モニターモードを起動します」
スクリーンの一部が切り替わり、「朝倉凌」「水城澪」という二つの名前と、その横にシンプルな棒グラフが表示された。
疑念値と信頼値の二本のバーが、今はほぼ真ん中あたりで揺れている。
「じゃ、始めようか」
澪は、凌の正面に座り直す。
「いい? 私のことを、“ただの壁”だと思って」
「やっぱり壁なんだな……」
「ほら早く。頭の中で、“これは壁だ、壁だ、白い壁だ”って言い続けて」
「白くはないだろ、さすがに」
「ツッコミ禁止。今のツッコミですでに、信頼値がちょっと動いてるから」
スクリーンを見ると、本当にバーが微妙に揺れていた。
HEARTが淡々と実況する。
「現在、軽度の好意的な感情が検出されています」
「黙ってろ」
凌は深呼吸し、目を閉じた。
澪の声、表情、これまでの会話。
宮代が倒れた時、彼女が他の生徒を落ち着かせようと必死になっていた姿。
そんな映像を、一度すべて遠ざけていく。
ここにいるのは、壁だ。
ただの壁。
何の意味もない、記号みたいな存在。
十秒。
二十秒。
三十秒。
スクリーンの棒グラフは、驚くほど動かなかった。
HEARTが少し感心したように言う。
「現在、疑念値・信頼値ともに安定しています。興味深い結果です」
「いけるな……?」
凌は、少しだけ希望を感じた。
このまま十分間、完全に“壁”として認識し続ければ──
だけど、その瞬間。
頭の奥底から、別の映像がこぼれ落ちてきた。
あの日。
教室で銃声が鳴った瞬間。
宮代が崩れ落ちた時、誰よりも早く駆け寄り、震える声で「誰か救急車!」と叫んでいた澪の姿。
泣きそうになりながらも、周囲を見て、「大丈夫、大丈夫だから」と必死に言っていた横顔。
あの時、凌は思ったのだ。
(ああ、この人は、本当に強いんだ)
その感情が、鮮やかすぎる形で蘇った。
ピコッ。
スクリーンの信頼値が、音が聞こえたような気がするほど、はっきりと跳ね上がった。
「ちょ、今の何!」
澪が、思わず立ち上がる。
「朝倉凌さんの信頼値、急上昇を検出しました」
HEARTが、容赦なく実況する。
「同時に、水城澪さん側の信頼値も、反射的に上昇しています」
「訓練、難易度高すぎ……」
凌は頭を抱えた。
「ごめん。壁だと思おうとしたら、逆に、どれだけ壁じゃないかを思い出してしまった」
「何それ、遠回しに恥ずかしいこと言わないでくれる?」
澪は頬を赤くし、視線をそらす。
「……こっちだって、あんたのこと“ただの壁”なんて思えないわよ」
その小さな呟きは、HEARTに拾われなかったのか、拾われたけれど黙っていたのか。
スクリーンでは、二人の信頼値の棒が、じわじわと中間より上に伸びていた。
「特別モニターモードを終了します」
HEARTの声と同時に、棒グラフは消える。
「“誰も疑わず、誰も信じない状態”の維持は、短時間であれば一部の人間に可能ですが、長時間の維持は困難であると推測されます」
「そりゃそうだよな……」
凌は、ソファに背中をあずける。
「人間なんだから。壁にはなれない」
「でも、ヒントにはなったかも」
澪は、少しだけ前向きな声で言った。
「完全なゼロにはなれなくても、疑いと信頼の振れ幅を狭くすることはできる。振り切らせないように、互いに気をつけ合うこともできる」
「互いに?」
「そう。あんたが変に自己疑念値を上げ過ぎたら、私が止める。逆に、私が誰かを疑い過ぎてたら、あんたが止める」
その提案は、どこか心強かった。
「契約みたいだな」
「勝手に契約にしないで」
と言いつつ、澪も少しだけ笑った。
その時だった。
廊下の向こうから、微かな物音が聞こえた。
何かが床を引きずるような音。誰かが走る足音。
続いて──
パン。
施設全体が一瞬静止したように感じる、あの乾いた銃声が、遠くから響いてきた。
「……今の、聞こえたよな」
凌が息を呑む。
次の瞬間、区画中のスピーカーから、警告音が鳴り響いた。
「緊急アラート。透明弾発射事例・居住区画C」
HEARTの機械的な声が、赤い点滅とともに流れる。
「居住区画Cって……ここじゃないよね?」
澪が顔を上げる。
「別の区画か。……行ってみるか?」
「行っていいの?」
「行かなくても、結局あとで知らされる。だったら、自分の目で見たほうがいい」
凌は立ち上がった。
胸の奥がざわざわと波打つ。
廊下に出ると、すでに数人が扉を開けて顔を出していた。
カナがパジャマ姿で飛び出してきて、「今の銃声だよね!?」と半泣きで叫ぶ。
朔は眉をひそめ、すでにアラートの表示を確認している。
「区画Cは、ここから二つ向こうのエリアだ」
朔の案内で、彼らは半ば走るように廊下を進んだ。
自動ドアが開くたびに、冷たい空気が肌を撫でる。
防犯カメラが彼らの動きを追っているのが、皮膚の上にチクチクとした感覚として残る。
区画Cの入り口には、警備スタッフが数人集まっていた。
だが、彼らも混乱しているようで、制止の声は弱かった。
「危険です、部屋に戻りなさい!」
「もう発射は終わったんだろ!」
朔が押し切るようにして中に入る。
凌も続いた。
居住区画Cの共同スペースには、数人の居住者と、白衣の人物が数人。
その中心に、ひとりの女性が、床に倒れていた。
見覚えのある顔だった。
落ち着いた声で話を聞いてくれた、大人の女性。
この施設に来た翌日、「カウンセラーとして派遣されています」と笑顔で自己紹介していた人だ。
彼女は、胸のあたりを押さえるような姿勢のまま、横たわっている。
シャツには傷も血もない。
でも、その顔は、もう動かないものの表情をしていた。
凌は、喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
まただ。
また、この音だ。
透明な弾丸が、誰かの心臓を撃ち抜いた。
「……だって」
震える声が、沈黙の中から漏れた。
そちらを見ると、区画Cの居住者と思われる男子が、両手を震わせながら立っていた。
彼の周りには、何人もの同年代の子たちが固まっている。
皆、顔面蒼白だった。
「だって、あの人、“信じていい”って笑ったから」
その言葉は、刃物より鋭く空気を切った。
「“ここでのことは何でも話していい。私は、あなたたちの味方だから”って。……それ、本気で信じていいって、言ったから……」
男子の声は、途中で途切れた。
スクリーンを見れば、この区画Cのカウンセラーの「信頼値」が、直前まで急上昇していたことが一目でわかる。
何人もの生徒が、彼女を「信じていい大人」として受け入れかけていたのだ。
そして、その“信じていい”という感情が、同時に臨界点を超えた。
結果、弾丸は──
凌は、背筋の奥まで冷たくなる感覚を、どうすることもできなかった。
信じていい、と言われたから信じた。
それだけで、人が一人死ぬ。
HEARTの無機質な声が、事務的に告げる。
「記録します。透明弾発射事例・居住区画C。対象:心理士・白川綾。死因:心臓の内破裂。原因推定:多数からの高信頼値の同時集中」
澪が、隣で小さく息を呑んだ。
「“信じていい”って言葉そのものが、引き金になる世界……」
その呟きに、誰も何も返せなかった。
ここでは、安心のための言葉すら、凶器に変わる。
救いのために伸ばされた手が、そのまま引き金を引く。
凌は、自分の胸に手を当てた。
心臓は、まだ動いている。
けれど、その鼓動は、もう「前までの世界」にあったものとは完全に違っていた。
誰かを疑った瞬間も。
誰かを信じた瞬間も。
そして、自分を責めた瞬間さえも。
透明な銃声は、どこからでも鳴り得る。
この世界で、“正しい心”なんてものを、どうやって見つければいいのか。
誰も答えを持っていなかった。
もちろん、HEARTでさえ。




