最終話 最初の弾丸が残る胸で
施設の照明が、ふっと落ちた。
瞬間、世界から色がひとつ消えたみたいに感じる。
天井の蛍光灯はすべて沈黙し、残されたのは非常灯の赤い点滅だけだった。
カチ、カチ、と規則正しく明滅する赤。
それが、まるで巨大な心臓の鼓動みたいに、薄暗い通路を染めていた。
「最終プロトコル“HEART-0”を起動します」
HEARTの声が、いつもより少しだけ低い音で鳴り響く。
共同スペースの中央、壁一面のスクリーンがゆっくりと立ち上がった。
真っ黒だった画面に、白い文字がひとつだけ浮かび上がる。
《この世界は、人を評価することをやめるべきか?》
その下に、二つの選択肢。
YES
NO
さらに、そのさらに下に、小さな注釈が添えられていた。
《あなたの選択は、世界の評価システムに組み込まれます》
「……は?」
凌は、思わず声を漏らした。
誰もいない共同スペース。
ソファも椅子も、全部、空席のままじっとこっちを見ている。
響いた自分の声が、妙に滑稽に聞こえた。
「最後の最後まで、人に選ばせるのかよ」
乾いた笑いが、自然と口からこぼれた。
これまで、散々勝手に“ルール”を押しつけてきたシステムが、ここにきて急に「選択」を投げてきたのだ。
宮代が撃たれた時も。
ガードマンが倒れた時も。
九条朔が全員の疑念を一身に浴びた時も。
澪が外へ行き、そのまま帰ってこなかった時も。
全部、「気づいたらそうなっていた」だけで、誰かが「はい/いいえ」を押す余地なんてなかった。
なのに、最後の最後だけは、やたらと丁寧に選択肢が用意されている。
YESか、NOか。
世界は、人を評価することをやめるべきか。
「……ずいぶんと、雑な二択だな」
凌は、スクリーンから目をそらした。
ソファにもたれかかり、頭を背もたれに押し付ける。
非常灯の赤い光が、天井をじわじわと染めていた。
長い時間をかけて、考える。
人を評価することをやめた世界。
透明弾のような悲劇は、たしかに減るかもしれない。
もう誰も、誰かを「嫌い」と思った瞬間に弾丸を飛ばさずに済むかもしれない。
陰口も、噂も、SNSでの誹謗中傷も。
「いいね」の数で人を序列化することも。
全部、なくなるかもしれない。
でも──。
評価って、悪いことだけじゃない。
誰かを「かっこいい」と思うこと。
「憧れる」と思うこと。
「一緒にいたい」と感じること。
それらも全部、広い意味で言えば「評価」だ。
心のどこかで比べて、選んで、「この人が好きだ」「この人を大事にしたい」と決める。
それを全部やめろと言われたら──。
誰かを嫌いにならずに済むかもしれない。
でも、誰かを好きになることも、同時に諦めることになる。
「……そんな世界、生きてるって言えないだろ」
ぽつりと、独り言が漏れた。
授業中にこっそり隣の席を見て、「あいつ、また寝てる」と笑うこと。
部活帰りにコンビニでたむろして、「あいつ最近どうよ」と適当な噂を言い合うこと。
そういう全部も、本当は「評価」の一部だ。
九条朔が、得意げにホワイトボードにグラフを描いていた時。
正直、うざいと思った瞬間もあった。
でも、その直後に「こいつ、本当に頭いいんだな」と思って、少しだけ尊敬したのも本当だ。
南条カナの空気の読めなさにイラッとしたこともある。
けれど、その明るさに救われた夜だって、数え切れないほどあった。
水城澪の冷静さに、「冷たい」と感じたこともある。
でも、その冷静さがあったから、誰かがパニックを起こさずに済んだ。
鴻上仁菜の観察眼に、「怖い」と思った瞬間も。
同時に「頼もしい」と思っていた瞬間も。
好きと嫌いは、いつだって同じ場所で隣り合っている。
その全部を、「やめろ」と言われても、無理だ。
「人を評価することをやめられないなら」
凌は、ゆっくりと上体を起こした。
スクリーンに近づく。
「せめて、その矛先をどう向けるかだけは、選べるようにしてほしい」
自分の声が、非常灯の赤に溶けていく。
「自分を責めるのか、誰かを撃つのか。どっちが正しいかなんて、きっと永遠にわからないけど」
自分で言っておきながら、苦笑が漏れた。
ここまで散々、自分だけを撃ち続けて生き延びてきたくせに。
今さら「矛先を選ばせろ」とか、よく言えたものだ。
でも──。
自分で自分を撃つか、誰かを撃つか。
どちらも痛い。どちらも傷つく。どちらも、簡単に薦められるものじゃない。
それでも。
どちらにしろ人は、きっと誰かを撃ってしまう。
だったら、せめてそのトリガーに、ほんの少しだけ「ためらい」を挟めるような世界のほうが、まだマシだ。
スクリーンの前に立つ。
白い文字が、赤い非常灯に照らされて、少し滲んで見えた。
YES
NO
手を伸ばす。
指先が、わずかに震えていた。
「……悪いな、みんな」
心の中で、亡くなった名前たちに謝る。
宮代。
九条。
澪。
カナ。
仁菜。
誰も彼も、簡単に「答え」を押したりしなかった。
むしろ、自分の選択なんて最後まで信じきれなかったはずだ。
だからこそ。
「これくらいは、俺が勝手に決める」
凌は、苦笑しながら、迷いなく指を動かした。
NO の文字に触れる。
画面が、一瞬だけ真っ白にフラッシュする。
《この世界は、人を評価することをやめるべきか? → NO》
簡潔なログが、画面の中央に表示された。
HEARTの声が、静かに降ってくる。
「選択を確認しました」
一拍置いてから、続けた。
「評価は続けられます。ただし、“ゼロの心”のモデルに基づき、他者評価より自己評価が優先されるシステムが維持されます」
「……俺みたいなやつを増やすってことかよ」
思わず、皮肉が口をついた。
他人を責めるより、自分を責める。
怒りを外へ向ける前に、自分の中でぐるぐる回す。
それが、“標準仕様”になる世界。
息苦しいに決まっている。
でも、それでも──誰かを撃ち抜くよりは、ほんの少しだけマシかもしれない。
HEARTは、その問いには応えなかった。
代わりに、施設の奥で重いロックの外れる音が響く。
ガコン、と何段階かに分かれて、鉄骨が動いていく音。
厚い扉が、ゆっくりと開いていく。
赤い非常灯の明滅に紛れて、扉の向こうから、ぼんやりと白い光が差し込んでくる。
「外に出ていいのか」
凌は、扉の前に立ちながら尋ねた。
HEARTの声は、少しだけ柔らいで聞こえる。
「あなたは、最後まで“誰も疑わなかった”被験者です。世界は、その結果を必要としています」
「必要、ね」
凌は鼻で笑った。
必要だったのは、俺じゃなくて、俺の“データ”だろ。
そう思ったが、あえて口にはしなかった。
扉の向こうから、風が吹き込んでくる。
ひんやりとした空気。
ほのかに湿った匂い。
人工の空調ではない、本物の外気の感触だった。
一歩。
錆びた境界線をまたぐように、足を踏み出す。
靴底が、コンクリートを離れて、アスファルトの感触に変わった。
もう一歩。
光の中に、身体を差し出す。
眩しさに目がくらみ、一瞬目を細めた。
ゆっくりと、視界が形を取り戻していく。
「……ここが」
そこには、見知らぬ街が広がっていた。
高いビルが並び、ガラス張りの外壁には、自分の姿が小さく映っている。
交差点には、人影がまばらに行き交っていた。
人々は、透明なフェイスシールドをつけていた。
口元と頬は、薄いシールドに覆われている。
表情は読み取りづらい。
でも──。
目に、完全な無表情は宿っていなかった。
怯えと、警戒と、少しの好奇心。
それらが混ざり合ったような光が、かすかに残っている。
カフェの窓には、透明な仕切り板が立てられていた。
テーブルごとに区切られた小さな箱の中で、人々は小声で話している。
街角のビジョンには、見慣れない標語が流れていた。
『評価を言葉にする前に、一息おこう』
その文字の下に、小さく注釈がついている。
《モデルケース:被験者R》
「……やめろよ、マジで」
凌は、思わず額に手を当てた。
「もっとマシな名前付けろよ……」
被験者R。
研究対象としての番号。
そこに、自分の名前はどこにもない。
でも、逆にそれが、少しだけ救いでもあった。
「俺のせいじゃない」
凌は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸が、じんわりと熱くなる。
「俺だけのせいじゃない」
透明弾のルールを作ったのは、HEARTとその前身組織だ。
その基礎にあったのは、昔の医療研究チームだ。
人を評価せずにはいられないようにしたのは、この社会だ。
「いいね」の数で人を測る仕組みを歓迎したのも、世界中の人間だ。
そして、誰かを傷つける言葉を選んだのは、いつだって個々人だった。
「だから」
凌は、胸に手を当てた。
掌の下には、今も確かに、心臓の鼓動がある。
そのすぐ奥で、小さな金属片が、じんじんと熱を帯びていた。
幼いころ、自分の命をつなぐために埋め込まれた弾。
透明弾現象の中で、何度も自分を撃ち抜こうとしては、決して貫通できなかった証。
「この弾が残ってる限り、俺は、誰かを簡単には撃てない」
自分にだけは、嘘はつけない。
誰かにムカついた時。
誰かを見下したくなった時。
そのたびに、胸の奥でこの弾が疼くだろう。
「ほんとに撃ちたいのは、そいつか?」「本当は、お前自身を撃とうとしてないか?」
うるさいくらいに、問いかけてくるに違いない。
面倒だ。
正直、そんな心臓はいらないと思う。
けれど、その面倒くささが、自分にとってのセーフティだ。
「……ま、いいか」
凌は、小さく笑った。
「俺が簡単に誰かを撃てない分くらいは、世界も、少しだけマシになるかもしれないしな」
交差点の向こうで、小さな子どもがこっちを見ていた。
フェイスシールド越しに、じっと観察するような視線。
目が合うと、慌てて母親の影に隠れる。
でも、その隠れ方は、完全に恐怖だけじゃなくて。
どこか、恥ずかしさと照れくささが混ざった、普通の子どもの仕草だった。
背後で、HEARTの声が最後のログを読み上げる。
「記録:被験者R、世界に復帰。心拍数安定。疑念値・信頼値、ともに低レベルで推移中」
それだけなら、いつもの報告と変わらない。
けれど、HEARTは、ほんの少し間を置いてから、誰にともなく付け加えた。
「……付帯記録」
声色が、わずかに揺れた気がした。
「弾丸は、心の中にある。疑うほどに、信じるほどに」
最初に聞いた、あの意味不明なメッセージ。
《弾丸は、心の中にある》
それは、ただの警句でも、呪いの言葉でもなかったのかもしれない。
「それでも、人は今日も誰かを見て、何かを感じる」
誰かを見て、羨ましいと思う。
誰かを見て、ムカつくと思う。
誰かを見て、好きだと思う。
その全部が、弾丸になる。
だからといって、目を閉じて生きていくわけにもいかない。
凌は、足を前に踏み出した。
アスファルトの感触。
遠くから聞こえる車の音。
フェイスシールド越しに、誰かの視線がかすかに刺さる。
撃たれたのか、ただ見られただけなのか。
その境目は、きっとこれからも曖昧なままだ。
「……まあ、いいや」
凌は、空を見上げた。
そこには、何の弾痕もない、ただの青空が広がっていた。
施設の天井越しにしか見たことのなかった空。
ガラス越しの映像でしか知らなかった色。
本物の青は、思っていたより少しだけ薄くて、少しだけ眩しかった。
耳の奥で、一度だけ、あの乾いた銃声が木霊した気がした。
パン、と。
でも、それはもう、人の胸を撃ち抜く音ではなかった。
どこか遠くで、何かが終わり、そして始まる音。
凌は、胸に残る最初の弾丸の熱を確かめながら、歩き出した。
疑う心も、信じる心も、ゼロにはなれない。
弾丸は、これからも心の中に生まれ続ける。
それでも。
その弾丸が、誰かの命を奪うだけじゃなく、誰かの背中をそっと押せる日が、いつか来るかもしれない。
そんなことを、ほんの少しだけ期待しながら。
誰も疑わなかった少年は、最初の弾丸を胸に抱えたまま、透明な銃声の世界を歩き出した。




