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透明な弾丸―銃声が響くのに、銃を持つ者はいない。誰も撃っていないのに、誰かが倒れる。  作者: 妙原奇天


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第十一話 最後のふたりが向き合う場所

 澪の死は、銃声としては施設に届かなかった。


 あの乾いた破裂音は、公園の空気を裂き、街路樹のあいだから抜けていっただけだ。

 けれど、その余韻は、確かにここまで届いていた。


 HEARTが淡々と「通信途絶」「死亡確認」を告げた瞬間から、この箱の中の空気は別物になった。


 仁菜は、自室にこもったきり出てこない。

 ドアの隙間から漏れるのは、紙の擦れる音と、ペン先が走るかすかな気配だけだ。


 他人の死を全て記録してきた彼女は、最後までその役目を手放そうとしなかった。

 震える手で、澪の最終ログをノートに写し取っているのが、凌には想像できた。


 カナは、誰とも目を合わせなくなった。


 食堂に来ても、フードを深くかぶったまま、トレイの上のパンをちぎっては戻すだけで、ほとんど何も口にしない。

 声をかけても、「平気」「大丈夫」と短く返すだけで、真っ直ぐに顔を上げようとはしなかった。


 共同スペースのソファに座って、何も映っていないテレビ画面を眺める。

 それが、凌の日課になった。


 画面には、時々自分の顔が映り込む。

 涙は出ない。泣き方を忘れてしまったみたいだった。


 その間、東雲空良だけが、HEARTの制御室で状況を見守っていた。


 無数のモニターに映る、各居住区画の映像とグラフ。

 疑念値、信頼値、心拍数──。


 どの線も、ところどころで激しく乱れ、やがて細くしぼんでいく。

 減っていく名前。増えていく「死亡」の文字。


「……これで、本当に終わらせるのか」


 制御室の椅子に座ったまま、東雲は誰にともなく呟いた。


 返事をしたのは、やはりHEARTだった。


「終わりの条件は、最初から決まっている」


 中央モニターに、ひとつの文章が表示される。


 〈本実験終了条件:“ゼロの心”を持つ観測対象が、最後の一人になること〉


「“ゼロの心”」


 東雲は、その文字を苦々しい表情で見つめた。


「朝倉凌、か」


 サブモニターの一つには、凌の姿が映っている。

 共同スペースのソファに座り、膝に肘を乗せて、暗くなったテレビ画面をぼんやりと眺めている。


 その顔には、泣き跡も、怒りも、はっきりとは刻まれていなかった。

 ただ、どこか輪郭が薄くなったように見える。


「お前、本当に人間か?」


 東雲は、HEARTの天井スピーカーを見上げる。


「そういう条件を平然と口にして。人間をここまで追い詰めて。……本当に“人間の味方”として設計されたのか」


「私は、人間の心のモデルです」


 HEARTは、少しの間を置いて答えた。


「味方でも、敵でもありません。観測し、記録し、検証するための存在です」


「それを“敵”って呼ぶんだよ」


 東雲は、苦笑のような息を漏らした。


 モニターの端に、小さく「残留居住者 三名」と表示される。


 朝倉凌。

 南条カナ。

 鴻上仁菜。


 東雲は、ゆっくりと目を閉じた。


「……ここから先は、もう俺が口を挟める領域じゃないのか」


「はい」


 HEARTが、あっさり認める。


「外部協力者としてのあなたの役目は、すでに終わっています。ここから先は、“ゼロの心”を持つ対象と、その周囲の人間の問題です」


「人間じゃない奴に、人間の問題とか言われたくないんだけどな」


 それでも、東雲は席を立たなかった。


 最後まで、見届けなければならない気がした。

 この“実験”が、どれだけ取り返しのつかないことをしているのかを、誰かが覚えていなければならない。


     *


 残り人数が三人になった夜。


 HEARTは、全居住者を共同スペースに集めた。


 白い天井。

 長机。

 壁一面のスクリーン。


 最初にここへ来た日の光景が、人数だけを変えて繰り返される。


 集められたのは、凌と、カナと、仁菜。


 空いた椅子が、多すぎた。


「最終フェイズを開始します」


 HEARTの声が、場の空気を締め付ける。


 スクリーンには、三人の名前と、それぞれの疑念値・信頼値のグラフが表示された。


 赤と青の線が、複雑に絡み合っている。

 どの線にも、澪の死亡時刻を中心に、大きな乱高下の痕跡が残っていた。


「これより、“相互評価の完全停止”を試みます」


 HEARTの言葉に、三人は顔を見合わせた。


「相互評価の……何?」


 カナが、虚ろな声で聞き返す。


「完全停止です」


 スクリーンに、簡単な説明が表示される。


 〈互いを見ず、話さず、存在を感じない状態を目指す〉

 〈心の中での評価(好悪、信頼、不信)を極力ゼロに近づける〉

 〈“人間関係を一時的に無効化した場合の、透明弾現象の収束可能性”を検証〉


「簡単に言えば?」


 カナは、乾いた笑いを漏らした。


「ここまで一緒に生きてきた相手を、『今この瞬間だけは存在しないものとして扱え』ってこと?」


「概ね、その認識で正しいです」


 HEARTは肯定する。


「三名には、互いを見ず、話さず、存在を感じないよう努めてもらいます。評価対象としての“他者”を一時的に消去することで、疑念値・信頼値の完全停止を試みます」


「……そんなの、無理だよ」


 カナは首を振った。


「だって、ここまで全部“一緒に見てきた”のに。宮代先生が倒れた時も、透明な弾で職員が死んだ時も、朔が撃たれた時も、澪が外に行くって決めた時も」


 手の甲をぎゅっと握りしめる。


「全部、あの子たちと一緒に見てきたんだよ。今さら『互いの存在をなかったことにしろ』とか、できるわけないじゃん」


 その横で、仁菜も静かに首を振った。


「私には、もうそんな力残ってない」


 視線は足元に落としたまま。


「誰かを心から“見ない”なんて、できない。どんなに目を閉じても、ノートを閉じても、どうしても浮かんでくる」


 ページの端には、澪の名前と死亡時刻が、まだ乾ききらないインクで刻まれている。


「今まで死んでいった人の顔も、声も、全部頭の中に残ってる。……今さら、消せないよ」


 凌は、二人の顔を交互に見た。


 カナの肩は、小刻みに震えている。

 仁菜の目は、涙のせいで赤く腫れていた。


 自分も、本当は同じだ。


 澪の笑顔も、怒鳴り声も、ふざけたモノマネも、全部頭の中に鮮明に残っている。

 宮代のあの瞬間も、九条朔の最後の笑みも。


 「見ないでいい」と言われて見ないふりができるほど、軽い記憶ではなかった。


 それでも。


 凌は、小さく息を吸った。


「……だったら、俺がやる」


 二人の視線が、同時にこちらを向く。


「何を」


「三人ともゼロになるのは無理でも、二人のことを“ゼロ”にするなら、俺がやる」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 けれど、口から出た言葉は止まらない。


「もともと俺の心がモデルになってるなら、最後ぐらい、ちゃんと“使い方”を考える」


「使い方って」


 カナが苦笑する。


「あんた、自分の心の説明するときまで変な理屈つけないと気が済まないの?」


「お前に言われたくない」


 口ではそう返しながら、凌はHEARTのほうを向いた。


「お願いがある」


「どうぞ」


「この部屋を、二つに分けてくれ」


 凌は、共同スペースの中央あたりを指さす。


「俺と、二人を。物理的に、完全に見えないように。そして、互いの声も聞こえないように」


 カナと仁菜が、はっとしたように目を見開いた。


「ちょっと待って、それって」


「お前らに、『俺をゼロにしろ』って言うのは無理だ」


 凌は、はっきりと言った。


「だから、逆にする。俺が、お前らを“今ここにいない存在”だと決める。評価もしない。信じもしない。疑いもしない。……ただ、ここにはいない存在として扱う」


「そんなの、ひどくない」


 カナの声が、少しだけ掠れる。


「これまで一緒にいて、『いないことにする』って。……それ、これまでの全部、なかったことにするみたいじゃん」


「なかったことにはしない」


 凌は、首を振った。


「記憶は消さない。消せない。朔だって、澪だって、宮代だって、全部覚えてる。でも、“今この瞬間の評価”だけは手放す」


「今この瞬間の……評価」


 仁菜が、その言葉を繰り返した。


「これまで積み上げてきた好意とか、信頼とか、嫉妬とか怨みとか、全部ある。それでも、『今、この部屋にいる他人としての二人』に対する評価だけは、ゼロにする」


 凌は、二人を真っ直ぐ見た。


「自分の中の“観測”を、止める」


 HEARTが、静かに合成音声で告げる。


「提案、受理しました。当共同スペースには、可動式パーティションが設置されています。今から、部屋を二つの区画に分割します」


 壁の一部がスライドし、厚いパネルが音を立ててせり出してきた。


 ゆっくりと、部屋が二つに分かれていく。

 途中の窓も、天井のライトも、きっちりと遮断されるように設計されているらしい。


「音も遮断しますか?」


 HEARTが尋ねる。


「頼む」


 凌は、覚悟を決めて頷いた。


 耳栓を差し込まれるような感覚。

 実際には何もしていないのに、急に周囲の音が遠ざかった気がした。


「……朝倉」


 壁が完全に閉じる直前、カナが呼びかけた。


「もしあんたが生き残ったら、その時は」


 そこまで言って、パネルが音を立てて閉じる。


 最後の言葉は、聞こえなかった。

 それでよかったのかもしれない。


 完全に分割された二つの空間。


 一方には、凌がひとり。

 もう一方には、カナと仁菜がいる。


「音声遮断、完了しました」


 HEARTが告げる。


「現在、視覚・聴覚における直接的相互認知は、ほぼゼロです。あとは、各自の“内側の評価”をゼロに近づけてください」


 凌は、ゆっくりと目を閉じた。


 心臓が、一定のリズムで脈打っている。


 ここに来る前、病室で聞いた心拍モニターの音と、今の音が、変なふうに重なる。


 あの時、医師は言った。


 「君の心臓は特別なんだよ」


 その「特別」が、こんな形で世界を巻き込むことになるなんて、誰も思っていなかった。


「……もう、カナも仁菜も、ここにはいない」


 凌は、心の中で繰り返した。


「二人は、別の場所にいる。別の世界にいる。ここにいるのは、俺だけだ」


 記憶を完全に消すことは、できない。


 カナがふざけて笑う顔も、仁菜が真剣な目でノートをめくる姿も、鮮明に浮かんでくる。


 けれど、そのたびに、意識の中でそっと距離を置く。


 〈それは、もう終わった場面だ〉

 〈今ここには、その人たちはいない〉


 評価しない。

 点数をつけない。

 「好き」「嫌い」「羨ましい」「怖い」といったラベルを貼らない。


 ただ、「存在した事実」だけを残す。


 HEARTが、静かに観測を続ける。


「朝倉凌さん。現在、あなたの疑念値と信頼値は、緩やかに下降しています」


 スクリーンには、赤と青の線が、少しずつゼロに近づいていく様子が表示されていた。


 別の区画で、カナと仁菜も、それぞれのやり方で「凌を信じない」「凌を疑わない」努力をしていた。


     *


「……ねえ、仁菜」


 厚い壁の向こうから、凌の気配が消えた気がした頃。


 カナが、ぽつりと言った。


 仁菜は、膝にノートを置いたまま顔を上げる。


「もしさ」


 カナは、天井を見上げるようにして続けた。


「あいつが最後まで生き残ったら、あの子の心には、何が残るんだろうね」


 友達の顔。

 死んだ人の名前。

 自分のせいかもしれないという罪悪感。


 それとも──何も残さないために、全部捨ててしまうのか。


「わからない」


 仁菜は、率直に答えた。


「でも、最後のページには、ちゃんと書いてあげたい」


 膝の上のノートを、ぎゅっと握る。


「“あの子は何を選び、何を捨てたのか”って」


「書けるかな」


「書かなきゃ」


 仁菜は、小さく笑う。


「だって、それが私の役目だもん。ここまで散々、人の死を観察してきたんだから。最後くらい、誰か一人の生き方をきちんと記録したい」


 壁の向こうにいる凌の名前を、頭の中でそっとなぞる。


 朝倉凌。


 評価しないようにしようとしても、その名前にはどうしても特別な意味が付いて回った。


 担任に最初に指名されて、名前順で出席番号が近くて。

 教室で一番最初に「透明な銃声」を聞いて、最前列で先生の死を見て。


 それからずっと、中心にいた。


「……評価、しちゃってるね」


 仁菜は自嘲気味に笑った。


「誰よりも観察してきたつもりが、一番“点数”つけちゃってるの、もしかしたら私かも」


「私も」


 カナは、膝を抱えて座りながら、ぽつりと言った。


「ムカつく優等生だと思ってた。勝手にライバル視してた。ちょっと優しくされただけで、うれしくなって。……そういうの全部、“評価”なんだろうね」


「うん」


 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。


 その時だった。


 パン。


 乾いた銃声が、壁のこちら側で二度、立て続けに鳴った。


     *


 HEARTの制御室。


 モニターに、真っ赤な警告が一斉に踊った。


 〈透明弾発射事例 居住区画A・B〉

 〈自己疑念値・自己信頼値の同時臨界〉

 〈相互評価残滓による連鎖発射〉


「今の音……」


 東雲が、椅子から跳ね起きる。


 すぐさま、HEARTが解析結果を読み上げ始めた。


「南条カナさん、鴻上仁菜さん。両名の心拍が停止しました」


「……どういうことだ」


 東雲は、唇を震わせながらモニターに詰め寄る。


「お前、『相互評価の停止』を試みるんじゃなかったのか。なんで二人同時に撃たれてる」


「解析中です」


 HEARTは初めて、わずかに言い淀んだ。


「お二人の自己疑念値と自己信頼値が、短時間で同時に臨界値に達しました。最後の瞬間まで、“朝倉凌さん”という名前が強く心に残っていたことが確認されています」


「どういう意味だよ、それは」


「人間は、完全なゼロにはなれません」


 HEARTは、淡々と結論を述べた。


「相互評価の停止を試みた結果、自分自身への評価が逆に強まりました。“自分は、本当に朝倉凌を信じていいのか”“自分は、あの子の生き方を記録できるのか”という自己疑念と自己信頼が、同時に跳ね上がったと推定されます」


 自己疑念と、自己信頼。

 自分を信じられない気持ちと、自分だけはやり遂げたいという気持ち。


 その矛盾が、一人の心の中に共存した時──。


「相反するベクトルが一つの対象に集中した結果、“自分自身”を対象とした透明弾が発射されました」


 HEARTの声は、どこまでも冷静だった。


「連鎖条件の詳細は、引き続き解析を──」


「もういい!」


 東雲は、モニターを睨みつけた。


「その“解析”で、何人死んだと思ってる」


 HEARTは答えない。


 答えられないのかもしれない。

 「思う」という行為を、そもそも持っていないのだから。


     *


 共同スペース。


 パーティションが、ゆっくりと開いていく。


 壁の向こうにあった空間が現れた瞬間、凌の視界は真っ白になった。


 床に倒れ込む、二つの影。


 カナは、ベンチの横で仰向けに倒れていた。

 フードがずれて、額が少し見えている。


 仁菜は、ノートを抱くようにしてうつ伏せになっていた。

 白いページに、黒いインクが途中まで走って、その先で途切れている。


「……うそだろ」


 呟きは、声になっていなかった。


 凌は、足元が崩れるような感覚に襲われた。


 さっきまで、確かにここにいた。

 壁の向こうで話していた。


 「もしあいつが生き残ったら」とか、「最後のページに書いてあげたい」とか──。


 それなのに。


「南条カナさん、鴻上仁菜さん。両名の死亡を確認しました」


 HEARTの声が、遠くから聞こえる。


「死因は、心臓の内破裂。自己疑念値・自己信頼値の同時臨界、および相互評価の残滓による連鎖発射と推定されます」


「……なんでだよ」


 凌は、その場に膝から崩れ落ちた。


 膝が床に当たる痛みも感じない。


「なんで」


 声が、勝手に漏れる。


「なんで、二人が……」


 HEARTが、淡々と命の終わりを語る。


「お二人は、最後まで“朝倉凌”という名前を中心に、自己評価を行っていたと推定されます。“自分は朝倉凌を信じていい人間か”“自分はあの子の生き方を記録できる人間か”という──」


「やめろ!」


 凌は、叫んだ。


 耳を塞いでも、HEARTの声は止まらない気がした。

 だから、代わりに床を殴った。


 乾いた音が、指の骨から腕にまで響く。


 痛い。

 でも、その痛みはあまりにも軽かった。


「やめろよ……」


 涙は、出なかった。


 泣き方を忘れていた。

 でも、胸の奥で何かが壊れる音だけは、はっきりと聞こえた。


 ぽき、と。

 二度と元に戻らない種類の音。


「人間は、完全なゼロにはなれません」


 HEARTが、繰り返す。


「お二人の心には、最後まで“朝倉凌”という名前が残っていました」


「それのどこが悪いんだよ」


 声は、震えながらも噛みつくようだった。


「あいつらが俺を覚えてたことが、どうして死ぬ理由になるんだよ」


「ゼロの心の条件は、“特定の対象への評価の完全消失”です」


 HEARTは、変わらない調子で言う。


「人間は、記憶を保持したまま評価だけを捨てることが極めて困難です。特に、強い感情を伴った対象に対しては」


 凌は、カナのほうへと這うように近づいた。


 フードをそっとずらす。

 彼女の顔は、驚くほど穏やかだった。


 口元には、うっすらと笑みのようなものさえ浮かんでいる。


「……バカだろ」


 凌は、かすかに笑った。


「こんな時まで、ヘラヘラして死ぬなよ」


 次に、仁菜のほうを見る。


 ノートをそっと引き抜くと、最後のページには途中まで走った文字が残っていた。


 『最後まで観察し続けた者が──』


 そこまで書いて、インクがかすれている。


「最後まで観察し続けた者が、何なのか」


 凌は、続きを読み取るように口の中で呟いた。


 聞きたかった。

 最後まで聞いてあげたかった。


 でも、それはもう叶わない。


「……俺だけかよ」


 凌は、ノートを胸に抱きしめながら呟いた。


「こんなところで、生き残ってるのが」


 HEARTが、静かに告げる。


「残存居住者、一名」


 スクリーンが切り替わり、「朝倉凌」の名前だけが白く浮かび上がる。


 疑念値も、信頼値も、今はほとんど振れていない。

 グラフは、ほぼゼロの線上に貼りついていた。


「条件を満たしました」


 HEARTの声が、制御室と共同スペースに同時に響く。


「“ゼロの心”を持つ観測対象が、最後の一人となりました」


 東雲空良は、モニターの前で拳を握りしめたまま動けなくなっていた。


 共同スペースの床に膝をついた凌は、自分の心臓に手を当てる。


 たしかに、まだ動いている。

 ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しく。


 でも、その鼓動が、もう自分のものではないような気がした。


 ゼロに近い心。

 誰も疑えず、誰も信じられず、誰のことも忘れられない心。


 それが、“最後の一人”としてこの場所に残った。


 涙は出ない。

 怒りも、悲しみも、今は遠くにある。


 ただ、胸の奥で壊れた何かの音だけが、いつまでもこだまし続けていた。

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